五話[Endless Paradox]
「ふぁ……ぅぅ……」
時刻は午前。
時間が時間だけに喫茶[雪うさぎ]の店内にお客は少なく、主婦らしき二人組の女性と、常連さんが一人居るだけだ。
常連さんの方は悠火のリサーチによると作家さんらしい。一心不乱にノートパソコンに文字を打ち込んでいるのが見える。
どちらも悠火を目当てにやってきた客ではないので気が緩んでいることもあるのか、悠火は死角になって見えない位置でこっそりと大きなあくびをして、くしくしと瞼をこする。
「ユウヒさ……ユウヒさん、随分眠そうですね」
これだけ客入りが少ないと接客をする必要もなく。
すすすと隣へやってきた紫亜が左手を右手の上にした待機の姿勢で心配そうに言ってくる。
CAOに毎日ログインしていて良く接客のマニュアルを一日で覚えられたものだと、その点については正直に賞賛するが、身体を動かすことが壊滅的なので結果プラスマイナスゼロというのが残念すぎる。
「いやー……狩りしてたら、ついね」
「……もしかして、朝までずっと起きてたんですか?」
「朝まで起きてるつもりはなかったんだけど。わかるでしょ。……気がついたら朝だったんだよね」
「あー」
「……いや、わからねぇよ。あー。って何だ。次の日仕事でつらくなるのは自分なんだから少しは自重しろよ」
ネトゲあるあるに同意する紫亜とは違い、コージローの辛辣な正論が廃人二人を貫く。
「あれ、もう下ごしらえ終わったの?」
「まあな。ユウと違って俺は早起きだからな」
「辛辣ぅ。でもねコージロー。狩りをしてたら朝になってるのは、理屈じゃないんだよ」
「そうです。ついつい後一時間だけって思ってるとログアウト出来ないんですよね」
「あるある。レアドロップとか狙ってると特にあるよね。一個落ちたらログアウトしようって思ってたらずっと出なかったり」
「出たら出たでもう一個すぐに出るかも、って思って落ちれないんですよね」
「ですよねー」
「お前らなぁ……」
完全に廃人の二人の会話に、コージローは頭が痛くなってくる。
面接の時はまともな人だと思っていた紫亜が、まさかの悠火と同類のネトゲ廃人だったことでコージローの心労は休まるどころか二倍になりそうだった。
悠火も悠火で、CAOのVR化が始まるまでそういった話をあまり出来なかった分、紫亜が職場にやってきたことには驚いたが、話が出来る人が増えて[雪うさぎ]で働くことに一層の楽しみを覚えるようになっていた。
「……まあ良いが、お客様に聞こえるところではそういう話をするなよ。後、仕事なんだからだべってばかりいないでちゃんと働け」
お客様に聞こえるところでは注意しろ、と言う辺り、コージローも大概甘い性格だった。
「もう、コージローは心配性だね。わたしが仕事をさぼる訳ないじゃん」
「ま、その点は信用してるけどな」
確かにその点においては、コージローは悠火に一定の信頼を置いている。
リアルにネトゲの話を持ち込むくらいに現実と幻想の境界が曖昧な悠火だが、仕事の時はちゃんと切り替えるくらいの分別は残している。
「む……」
そんな信頼し合っている様子の二人を見て、紫亜は面白くなさそうに頬を膨らます。
悠火のことをあれこれストー……調べて喫茶[雪うさぎ]へとやってきた紫亜ではあったが、紫亜は悠火が男であるということを知らない。
気が付かないくらい悠火が女の子らしく振る舞えているのか、それとも悠火と会うことが出来て紫亜も舞い上がってしまっているのかはわからないが、コージローもわざわざ悠火が男だということをばらすこともしないので、今のところ特にばれる要素は見当たらなかった。
だから紫亜から見ると悠火とコージローは幼馴染で信頼し合っている男女に見えて、ぶっちゃけ気にくわない。
「あ、あの、ユウヒさ――」
「ん? って――いらっしゃいませ」
「あ……いらっしゃいませ」
紫亜が何か言おうとした瞬間、入口のベルが鳴り、子連れの客が店内に入ってきて、悠火は柔らかな笑みを浮かべて席へ案内する。
「んじゃ、俺も厨房に戻るか」
そう言って厨房に姿を消すコージローを恨めし気に見ながら、紫亜はこれも仕事だからと気を取り直し
て、接客の参考にするために悠火に近づいてゆく。
「っ、ひぁ!?」
――その途中。
気がそぞろになってしまっていたせいか、足を滑らせてしまい、豪快に転んだ紫亜が悠火の方へと倒れ込む。
「っ! し、紫亜!?」
小さな悲鳴に反応した悠火は振り返り、紫亜が躓いて倒れ込んでくるのを見て、つい癖で回避しようとしてダメだ! と思い直す。
――かわしたら、射線上にっ!
子供連れのお客様にぶつかってしまっては、大変なことになる。
咄嗟に射線上という言葉が出てきてしまうあたり色々とヤバいが、けれども今はそんなところに突っ込んでいるような余裕はない。
悠火は覚悟を決めて、身体を張って紫亜を受け止め、机にぶつかる力のベクトルを強引に逸らして床の方向へと倒れ込む。
「くっ!」
「ユウヒ様っ!?」
ドサッ! と、紫亜と絡み合うように倒れた悠火は、衝撃に備えて瞳を強く瞑っていたのだが、軽く背中を打った以外は予想以上に軽い衝撃に、身構えていたことが少しだけ間抜けだった気がして力が抜ける。
「ユ、ユウヒ様、大丈夫ですか!?」
瞳を開けると、悠火の視界いっぱいに映る紫亜の顏があって、紫亜も無事だったことに安堵する。
「って紫亜、近い近い」
女の子の顏が間近にあって、さらにのしかかってくる紫亜の体温に、悠火の心臓は早鐘のように鼓動を打ち始める。
「あ、す、すみません……」
普段ならばさらに押し寄ってきてもおかしくない紫亜だが、自分のせいで怪我をさせてしまっていないか心配して、素直に言う事を聞く態度に、悠火は少しおかしく思って笑みが漏れる。
「あの……大丈夫ですか?」
「あ、はい。お騒がせして申し訳ございません……わたしたちは大丈夫です。ご心配痛み入ります」
上半身を起こした悠火に気づかって声をかけてくれたので、悠火は笑みを浮かべながら立ち上がりそう言って一礼する。
「も、申し訳ございません……」
紫亜も追従するように頭を下げる。
「いえ、気にしないでください、それよりも、本当に大丈夫ですか?」
「はい、鍛えてますので」
お客様に心配させないようにと大げさに力こぶを作るような仕草をして言った台詞には、その後、心の中で『CAOの世界で』と付け加えられたが、けれどもそんな悠火の考えを読むことは出来ないお客様は、悠火の言葉と仕草に安心してくれたようだった。
「お騒がせいたしました。――では、ご注文は如何なさいましょう?」
そうして再び悠火は笑みを浮かべてお客様にそう言って注文を承る。
その様子を、紫亜はずっと申し訳なさそうに眺めているのだった。
「ユウヒ様……ごめんなさい……」
そして午後六時過ぎ。
悠火はかなりまずい状況に直面していた。
目の前には喫茶[雪うさぎ]の制服に身を包む紫亜の姿があり、紫亜は先ほどからずっと、悠火に対して謝り続けていた。その光景は昨日にも見たような気がするが、けれども今日は昨日ほど紫亜のミスは多くなかった。
午前中に悠火とぶつかってあわや怪我をするところだったこと以外は皿を一つ割ったくらいで、この調子で行けば明日には皿の平和は守られる。
「そんなに気にしないでいいよ。怪我があったわけじゃないんだし」
けれども悠火が直面しているまずい事態というのは、紫亜にずっと謝られている状況ではなく、紫亜と更衣室に二人で居るという想定外の状況を指している。
喫茶[雪うさぎ]は元々、店長である雪小路快兎が趣味で設立した個人経営のお店だ。
他の事業も手掛けている為、休日以外はもっぱらコージローが調理をしてコーヒーを淹れていて、一年前まで店が流行っていなかったのも、コージローがまだ高校を卒業していなかったので、平日は夕方の数時間しか開店していなかったからということもある。
つまり、元々バイトを雇ってまで営業するという選択肢はほとんど無く、それの示すところはアルバイトの人が着替える場所も、本来考えられていなかったということだ。
今の更衣室も悠火がアルバイトにやってきてから半年程経ってやっと物置を整理して、ロッカーが備え付けられ更衣室となったのだ。
だから更衣室を利用する悠火と紫亜が、同じ場所で着替えることになるという事態は当然の帰結であり、考えるまでも無い、さながらレールの敷かれた運命だったのだ。
けれどもその当然を、悠火は完璧に意識の外へと葬り去ってしまっていた。
ここ数日CAOで色々あったこともあるが、紫亜がミスしないように気を配っていたことや、初日にそういったハプニングが無かった為、完全に失念してしまっていた。
「……ほら、誰でも最初はミスするものなんだから、そんなに落ち込まなくてもいいよ」
「でも、今日は……」
悠姫に怪我をさせてしまいそうだったことが余程堪えているのだろう。
「もう、紫亜は心配性だね。……確かに危なかったけど怪我も無かったし、それで紫亜は次から同じミスをしないように気を付けるでしょ? ミスをしたからといってハイごめんなさいで終わりじゃなくて、次からミスをしないように頑張ればいいんだよ」
先輩らしい良いことを言いながらも、悠火の頭の中ではどうすればこの状況を切り抜けられるかどうかの考えでいっぱいだった。後で何を言ったか尋ねられたら、正直首を傾げられるレベルである。
「ああ……ユウヒ様、やっぱりユウヒ様はやさしいですね!」
これまで働いた経験が無い紫亜は、悠火の言葉に胸を打たれて感極まったのか、それともただ単にそれを口実にしただけか、唐突に悠火に抱き付いてくる。
「ちょ、ま、し、紫亜、やめっ!」
止めてと言ったところで、現実ではハラスメント警告などでない。
今日二度目の接触とはいえ、最初の時は事故だった為そこまで意識する余裕はなかったが、紫亜の身体は本当に同じ生き物なのかと思うほどにやわらかくて、頭に血が昇ってゆく。
「ふふ、ユウヒ様、ユウヒ様……」
「は、離れてっ!」
「やん、ユウヒ様、強引なんですから……」
さすがにこのまま抱きしめられ続けていると、性別がばれかねないと思った悠火は、すぐに強引に紫亜を引き離す。
「も、もう、さっきまで殊勝だったのに、すぐこれなんだから……」
「ネトゲで培った打たれ強さ、我慢強さがわたしの売りですから!」
「紫亜の場合はただドMってだけじゃないの」
「――その方がいいですか?」
途端眼鏡の奥の瞳からハイライトが消える紫亜。どうやって目から光を消しているのか、とても気になるところだった。
「そうじゃない方がいい……」
「ぶぅ」
言いながら悠火は溜息を吐く。これだったらずっと落ち込んでいた方が、おとなしくて良かったかもしれない……なんて割と本気で考えていると、紫亜がいきなり制服を脱ぎ始めて、思わず悠火は叫ぶ。
「し、紫亜!? なにしてるの!?」
「え!? えっ、わ、わたし、何か変なことしましたか?」
紫亜からすれば普通に着替え始めただけなのにいきなり咎められて、わけがわからず悠火にそう問い返す。
「や……そ……そんなことないよねー、あはは……」
言われて悠火は、咄嗟にごまかしてしまった。
素直に早いうちに自分が男だと暴露してしまえば良いものを、ついつい癖で隠してしまった。
「変なユウヒ様ですね。あ、もしかしてユウヒ様……」
「ぎくっ!?」
もしかしたらさっき抱きつかれた時にばれたのだろうか。
そんな風に懸念する悠火に告げられたのは、まさに予想外の言葉だった。
「……その、まな板なこと……気にしてるんですか?」
……………………。
マナイタナコトキニシテルンデスカ?
何語だろうか。悠火は一瞬何を言われたのかわからず、沈黙が互いの間をいったりきたりする。
そして紫亜の視線が遠慮がちに自分の胸に向けられていることを認識すると、悠火は紫亜の胸へと視線を向けた。
紫亜の胸はCAOのリーシアと同じくらいの大きさがあり、運動が苦手だからということもあるのだろう細い身体に反して胸の部分はしっかりと膨らみを自己主張しており、Cカップはあるのではないだろうか。
恐らくだが、先ほど紫亜が悠火に抱き付いて来た時に胸の感触がほとんどなくて、そのことを悠火が気にしていると勘違いしたのではないか。
こんなに可愛い悠火が男だなんて、紫亜はまったく想像していなかった。
悠火は紫亜の立派なそれを無心でじっと見つめた後……、
「……………………じ、実は、そうなの」
そう言って、全力で紫亜の誤解に乗っかかった。
「ああ、やっぱりそうだったんですね、ユウヒ様……。で、でも気にしないでください! まな板でも女の価値は胸じゃありません!」
「そ、そうだね……」
そもそも女の子ではない悠火にとってはまったく気にすべきところではないのだが、紫亜の誤解に乗ることにした手前、悠火はそう言って気まずそうに視線を逸らす。
「ユ、ユウヒ様は十分魅力的です! だからそんな、まな板なんて全然、これっぽっちも気にしないでいいんです!」
その仕草で悠火が傷ついたと思った紫亜は、まったく的外れな主張をしながら強く言うが、悠火はそれをチャンスだと思い、少しだけ影を作って返す。
「えっと……紫亜、ちょっと一人にしてくれる……?」
「ユ、ユウヒ様……………………はい」
そう言う悠火に、紫亜は頷いてさっさと着替えて更衣室を出てゆく。
後に残された悠火は一人、大きく大きく息を吐いて窮地を乗り切ったことに対する喜びに浸るが直後、
「……胸がないこととか全然気にしないけど、ああもまな板まな板言われると、なんか複雑な気持ちになる……」
釈然としない気持ちでそう言いつつ、悠火は急ぎ着替えを済ませる。
そして数分で着替え終わった悠火が外に出ると、外はすっかり暗く、喫茶[雪うさぎ]の外では紫亜が待っていた。
「あれ、紫亜、まだ帰ってないの?」
「その……ユウヒ様が気になって、少し待っちゃってました」
「あ、ほら紫亜。あんましはしゃぐとまたこけるよ」
えへへと笑いながら近寄ってくる紫亜を見ると、また躓いてこけないだろうかと心配になってくる。
「大丈夫ですよ、それに心配でしたらこうすればいいですし」
「あ、ちょっ!」
隣に並んだ紫亜はそう言って悠火の腕に自分の腕を絡ませて、体重を預けてくる。
紫亜からすれば女の子同士のスキンシップのつもりなのかもしれないが、けれども悠火は抱き付かれた腕の部分に当たるやわらかさにどぎまぎしてしまう。
「で、でも紫亜、帰る方向わたしと別でしょ?」
「あっ……むぅ……せっかくリアルで会えたのに、ユウヒ様つれないです……」
やんわりと腕を解いて悠火が言うと、紫亜は頬を膨らませて抗議する。
「や、そうじゃなくてね……」
悠火が紫亜につれない態度を取るのは、紫亜がスキンシップしてくるからであり、話をするだけなら色々と話をしたいとは思っているのだ。リアルの話も少し気になるところだが、CAOの話を出来る相手というのは悠火にとっても貴重な話し相手だ。
「じゃあ紫亜、うちに寄ってく?」
「え!? ユ、ユウヒ様の家にですか!?」
なんとなしに言った瞬間、人間はここまで反射的に反応できるものなのかと思う速度で食い気味に言ってくる紫亜に軽く引きそうになるが、今更取り消すことなど出来そうな雰囲気ではない。
「まあ、うちはここから近いし、CAOにはログインするから、ご飯食べて少しくらいで良ければだけどね」
「は、はい! 大丈夫です!」
とりあえずあっちでもすることは色々あるので、そう前置いて言うと、紫亜は喜色満面の笑みを浮かべて頷いた。
とりあえず悠火はコージローに、今日は一人分多く晩御飯を間違えて作ってください……と、トンチのようなメールをしておいた。
それから徒歩、僅か2分。
「――いらっしゃい。ってまあ、何もない部屋だけどね」
「ここがユウヒ様の部屋……っ!」
悠火が住むマンションの部屋に紫亜を通して言うと、紫亜は血走った目をしてそう呟いていた。少し、いやかなり怖い。せっかくの可愛い顏が台無しだ。
悠火の借りている部屋は、喫茶[雪うさぎ]の裏にあるマンションの一室だ。
1LDKの小さな間取りの部屋とはいえ、室内は基本的に余計な物が無いので小奇麗に片付いているし、悠火が掃除をしなくてもコージローが定期的に掃除をしに来るので清潔に保たれている。
そうは言っても悠火がずぼらで掃除しないかと言えばそうでもないので、コージローの掃除はどちらかというと姑が粗を探すような細かな点の掃除ではあるが。
と、ここら辺で本格的に悠火のお部屋を紹介しておこう。
間取りとしては先ほど言った通りの1LDKで、玄関から入ると扉を一つ隔ててすぐがダイニングとなっており、L字型のキッチンとその奥に申し訳程度のテーブルとイスが四つ。当初はこの椅子も二つだったのだが、けれどもさすがに誰か来た時に二つだとまずいだろうというコージローの言葉により、コージローが追加したものだ。
因みにダイニングに液晶テレビなどといったハイカラな家電は存在しない。
ニュースならパソコンで見ればいいし、というかパソコンがあれば別にテレビなんていらないよね。そもそもコージローしか来ないんだから、別に気にしなくても良いし。なんてテレビ好きからすれば驚きの思考で、家庭の主力家電がばっさりとカットされている。
最初はコージローに小さなテレビでもあれば便利だぞ。と小言を聞かされていたが、けれども某テレビ会社の集金などで余計な出費が増えるからやだ。と悠火は頑なに設置を拒否した。
その分にお金を回すくらいならば、服にお金を回すと言い切った悠火はある意味では男らしかった。購入する服は全て女性物という男らしさとは無縁の物ではある点を除けば。
後はツードアの冷蔵庫に、炊飯器と電子レンジを置けるしっかりとした鉄製のラック。台所にある調理器具もそこそこ揃っており、ここら辺も悠火が購入したのではなく全てコージローが買って揃えているものだ。
というよりダイニングで一番物が多いところが、実は台所周りだったりする。
それ以外のスペースは先ほど言った通り、机と現在はほとんど使われていないコートかけ。後はゴミ箱くらいという殺風景すぎる室内風景だ。
それに反して、リビングには割と物が詰め込まれている。
ベッドとその上に置かれたヘッドマウント装置。デスクトップ型の机とその上に置かれたパソコン。化粧机の隣には大きな箪笥。悠火はあまり化粧をするほうではないが、それでも普段は肌の手入れにそこそこ気を使っている。
ここ数日はCAOのVR化オープンではしゃぎ過ぎていて省いてしまっていたが、今朝も寝不足を隠すために薄い化粧をして出勤していた。
箪笥の上やベッドの上の棚には小物やぬいぐるみがいくつも置かれていて、これは女の子らしく振る舞うに至って、ぬいぐるみや小物は持ってないとダメだよねという形から入る為に悠火が揃えたものだ。
因みにCAOのグッズの大半は押入れの中だ。モフリスのぬいぐるみだけはベッドの上に置かれていて、悠火に抱き枕にされすぎて、形が少し平べったくなってしまっていた。
一貫性は無いもののリビングの色は明るめにまとめられており、いかにも女の子らしい部屋といった風体だ。
「こ、ここでユウヒ様が寝たり起きたりしているんですね……」
ダイニングはさすがに殺風景過ぎるので、リビングまで通した悠火にそう言って、紫亜は周りをきょろきょろと血走った目で観察する。
「そうだけど、なんか紫亜の言い方気持ち悪い」
「な、なんでですか!?」
なんでも何も、明らかに気持ちの悪い発言だった気がする。
さっきも小さくこれがユウヒ様の部屋の匂い……とか呟いてたし。
「けど、紫亜の部屋も配置とか似たようなものでしょ?」
「まあ……そうでしたけど」
「でしたけど?」
「あ、最近こっちの近くに引っ越したので、まだ荷物の整理が終わってないんです」
過去形の文言を悠火が復唱すると、紫亜はそう言って近況報告をする。
「へー、ここの近くなの?」
「はい、[雪うさぎ]から徒歩5分くらいのところですね」
「んー……なら今度、荷解き手伝いにいこっか?」
「ユ、ユウヒ様がわたしの部屋に来てくれるんですか!?」
「あ……やっぱりやめとこっかな」
「えぇ!?」
行ったら何をされるかわからなかったのでそう言うと、紫亜はわかりやすく落胆した。
「あはは、うそうそ。紫亜は力無いから大変そうだし、近々手伝いに行くよ」
「ユウヒ様、からかいすぎです……でも、ありがとうございます」
「でも、近くだったらどうせなら同じマンションにしたらよかったのにね」
「え、同じ部屋ですか?」
「でも、近くだったらどうせなら同じマンションにしたらよかったのにね」
「……そうですね」
紫亜が妙なことを口走っていたので、悠火はにこりと笑って一言一句違わず復唱してやった。
「でもこの部屋って割と高いんじゃないですか?」
「んー? わたしの場合、この部屋は3万円だけど」
「さ、3万円ですか!?」
部屋の中を見回しながら聞いてくる紫亜に悠火が答えると、紫亜はあまりのその安さに声を上げて驚いてしまった。
「し、敷金や礼金も無しですか?」
「うん。ゼロゼロで特に契約上問題のある物件では、ないけど……」
そこまで言って悠火はちょっと悪戯心が出てきたのか、言葉を溜める。
「な、ないけど?」
「実はここって、曰く有りの物件でね」
「……も、もしかしてユウヒ様、それって」
いわゆる良くある曰く付き物件……憑きモノ物件を想像した紫亜が途端に顔を蒼白にする。
「ほら、あそこに額縁があるでしょ、あれはね……」
調子に乗って驚かそうと悠火が続けてそう言った瞬間、
「……おい」
「きゃあああ!?」
「ひゃあぅ!?」
背後からいきなり声をかけられて、まず紫亜が驚きに身体をびくりと跳ね上がらせて悠火に抱き付き、抱き着かれた悠火はそれにびっくりして情けない声を上げてしまった。
「ユウ。お前ら何してるんだ?」
そして声をかけた主のコージローはといえば、大げさすぎる反応に首を傾げていた。
「こ、コージロー、脅かさないでよ!」
「驚かすも何も、普通に声をかけただけだが。というよりやっぱり理月さんが来てたのか」
「な、何で雪小路さんが居るんですか?」
声をかけてきたのがコージローだということがわかって冷静になった紫亜を引き離しながら、悠火は言う。
「コージローは毎日何かと理由を付けてご飯を作りに来てくれる、わたしのおかあさんだから」
「ちげぇ」
「え、え?」
疑問符を浮かべる紫亜に、悠火はあははと笑いながら続ける。
「ごめんね紫亜。さっきの曰く有り云々の話も実は嘘で、このマンションはコージローのお母さんが経営してるマンションだから、従業員割引的な感じでまけて貰ってるんだよね」
「えぇ!?」
想像にもしていなかった事実に、紫亜は驚いてコージローを見る。
「うちの親は、まあ、色々やっててな。このマンションもそのうちの一つって訳だが、ユウ。どうしてそんな話になってたんだ?」
「紫亜が最近こっち付近に引っ越してきたから、どうせだったらこのマンションにしたらよかったのにねって話してたとこ」
「そういうことか。確かに部屋はいくつか空いてるから別に良いだろうが……けどもう他で借りてしまってるんだろ?」
「は、はい」
「どうにかなんないかな、コージロー」
「難しいな。とりあえず普通に解約になるだろうから3・4月の家賃はかかるだろうな。後は短期解約違約金辺りか。契約書を見てみないとわからんが、どちらにせよ敷金から差っ引かれた上で、ある程度の追加払いになると思うぞ」
「あう……そうですよね……」
しょんぼりと落ち込んでしまう紫亜。
「ま、この場合、こっちでもそういうのがあると言っていなかったから、うちに引っ越す場合はある程度便宜を図ることは出来るが、そこら辺は親父と相談だな」
それを見てそんなフォローを入れる辺り、コージローはツンデレだった。
「雪小路さん……ありがとうございます」
「いや、別に礼を言われることでもないけどな。考えといてくれ」
「ところでコージロー、今日のご飯なに?」
コージローが男前なことを言った直後に、悠火はそんな場違い感のある台詞を投げて手に持っているビニール袋へと視線を向ける。
「ああ、一人分多くって言ってたからどうせだから今日は材料を買ってきた。洋風オムライスと……少し時間がかかるが、希望があるなら揚げ物でも作るがどうする?」
「食べる食べるー」
「んじゃ、さっさと用意するか」
言いながら勝手知ったる動きで台所に向かい調理に移るコージローを、紫亜は不思議そうな顔でじっと見つめてから、リビングの扉が閉められて数秒後。
「……ユ・ウ・ヒ・さ・ま?」
ギギギと音がしそうなくらいにぎこちない動きで悠火の方へと顔を向けた。
「ど、どうしたの紫亜?」
「どうしたもこうしたも、どうして雪小路さんがユウヒ様の家にやってくるんですか!? ひょ、ひょっとして、かかかか、彼氏なんですか!? 二人は付き合ってるんですか!?」
「ぶっ!」
がんっ! と台所の方で音がしていたので、恐らくコージローにも聞こえていたのだろう。何かを取り落とした音がした。
「し、紫亜、どこをどう見たらそうなるの!?」
「どこを見てもそう見えます!」
紫亜の勢いに押された悠火は考える。
一.互いのことをコージロー。ユウ。と愛称で呼び会っている。
二.幼馴染みで仲が良く同じ職場で働いている。
三.しかもそのよしみで物件を借りていて、毎日ご飯を作りに来てくれる。
四.互いの合い鍵を持っている。
悠姫からすれば別に幼馴染みなのだから愛称で呼ぶのも当たり前だし、利が一致しているのだから同じ職場で働いているだけであって他意はない。この物件にしても悠火とコージローというよりも、悠火のことを気に入ったコージローの母親が口添えしてくれたからであるし、鍵を持っているのも大家ともなれば持っていて不思議ではないだろう。
そうでなくても男同士の幼馴染みならば特に問題が起こるようなことも――
「……あー」
と、そこまで考えて、悠火は大前提を履き違えていることに気が付く。
紫亜は悠火のことを女の子と勘違いしたままなのだから、前提条件に『異性で』と付くとなると、紫亜の誤解は当然のことだった。
「で、でも幼馴染みなんだし、普通じゃないかなぁ」
「なにを言ってるんですかユウヒ様! 幼馴染みだと言っても男なんてしょせんは獣です! 野獣ですよ!? だいたい合い鍵を持ってるってなんですか!? こんなかわいいユウヒ様の部屋の鍵を持ってるなんて襲ってくださいって言っているようなものじゃないですか! わたしだったら襲ってますよ!?」
さりげなく本音がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
「で、でもわたしなんか襲ってもしょうがないでしょ」
「ユウヒ様は自分を過小評価しすぎです! ユウヒ様みたいなかわいい女の子と一緒に居て理性が持つ人なんてどこにもいません! なんならわたしが今から襲いましょうか!?」
「かわいいって言ってくれるのはありがたいけど、紫亜、さっきから本音が漏れてる漏れてる」
どれだけ悠火を襲いたいのか。……いや、聞かないでおこう。
ぐいぐい詰め寄ってくる紫亜に悠火が気圧されていると、
「……おい、ユウ」
ただならぬオーラを纏ったコージローがリビングの扉をあけて顔を見せた。
眼鏡が逆光で光り、怖い。
唾を飲み込みながら、まずい事態になったと苦笑いを浮かべる悠火に、コージローは無言で右手をちょいちょい。こっちへ来いと手招きをする。
「あはは……紫亜、ごめん、ちょっと待ってて」
「ユ、ユウヒ様!?」
「理月さん、この馬鹿を少し借りる。そこで待っててくれ」
「え、ちょ……」
言ってリビングから連れ立って出たコージローと悠火は、しっかりとドアを閉めたのを確認してから台所の奥まで進む。
「おいユウもしかしてお前理月さんに性別隠してるのか!?」
小声で怒鳴るという器用なことをして、コージローは悠火に詰問する。
「あ、あはは……だ、だって、ねぇ」
曖昧に笑って悠火はごまかすように言うが、コージローは続ける。
「だってねぇ、じゃねぇよ。全部筒抜けになって聞こえてたが、あれは完全に誤解を受けてるだろうが」
「ちょ、ちょ、コージロー待って待って、落ち着いて、ね、少し落ち着こう」
「いや、どう見てもお前の方が落ち着いてないだろ」
「だ、だって、言い辛くてつい女の子で通しちゃったんだもん」
「通しちゃったんだもん。とか、かわいこぶってる場合かよ……」
こめかみを押さえてコージローはどうしたものかとうなだれる。
「ひ、ひどーい、コージローそんなこと言うの!? わたしたち幼馴染みじゃないの!?」
「ちょ、ユウお前まさか恋人設定にして通すつもりじゃないだろうな!?」
「…………」
「……これまで割と長い付き合いだったな」
「ちょ、ま、まってコージロー、冗談だってば冗談! ね? ほら可愛い悠火ちゃんの冗談だって……」
「理月さん実はこいつなー」
「待って待って! うぇいと! すとっぷ!」
咄嗟にコージローの口を両手で押さえて、悠火は息も荒く止める。
「もがもが……おい」
悠火の手を振りほどいたコージローは、はぁ……と溜息を吐き、眼鏡を指で直しつつ再び声を潜め直す。
「……お前が性別を隠すのは別にいいが、それで俺を巻き込むなよ」
「う……」
「……あの子、どう見ても刺されるタイプだろうが……」
地味にコージローも紫亜に戦々恐々としていたらしい。
紫亜はリアルでも完全にヤンデレ扱いされていた。
「し、紫亜はそんな子じゃないよ?」
「それを、俺の目を見て言えるか」
「しあはー、そんなこじゃー、ないよー」
「こっち向けよ」
悠火から見ても紫亜は完全にアウトだった。真摯な心を持って嘘を吐けるほど嘘がうまくない悠火は、盛大に目を逸らしていた。
「はぁ……まあ、お前が隠すのは良いが、ばれた時にどうなっても知らんぞ」
「やー……あうー……」
むしろ悠火の懸念はそこにある。
CAOの紫亜は悠火でもそれとわかるほどに悠姫の事を愛している。
それが仮にもしも悠姫が男だと知って暴走でもしたらと思うと、非常に言い辛い。
というか明かしたところでどう転んでも良い未来が見えない。
「とりあえず俺はいつも通りに振る舞うから、後は自分で頑張るんだな」
そう言ってコージローは袋から食材を取り出して調理に移ろうとする。
「にゃー……」
捨て悠火は猫のように鳴きながらリビングへ向かって歩き、ドアの前で立ち止まる。
「……よし」
気合を入れてドアを開き中に入ると、
「……ユウヒ様」
そこには、修羅が待っていた。
「あは……えっとね、紫亜? 落ち着こう、ほんと……」
幸薄系主人公になったつもりはないのに……と思いながら悠火は、今度は紫亜に言及されることになるのだった。
「やー……もう何ていうかログインした瞬間に疲れ切ってる感じ……」
あれから一悶着あった後、話は何とか有耶無耶となってくれたのは良いが、そこから紫亜を家に帰すのに少しの時間を要し、悠姫がログインしたのは9時頃だった。
例によって誰も居ない図書館の中。誰に言うでもなく呟いて、悠姫はひよりがログインしているかどうかを確認する。
ギルドのメンバーはリーンと久我とニンジャが既にログインしていて、ひよりとシアだけがログインしていない。
シアは家に戻り次第ログインすると言っていたので、もう少ししたら来るだろうが、ひよりとはもう二日も会っていない。
まだ二日ではあるが、けれどもこれまで出会ってから一週間はずっと一緒に狩りに行ったり遊びに行ったりしていただけに、これだけ長い間ひよりが居ないのは落ち着かない気分だ。
――ゆうちゃん。と、子供っぽい呼び名で慕ってくれるひよりのことを、悠姫は悠姫なりに気にかけていたつもりではあった。
オンラインゲームにありがちな、タイミングが悪かったとか、時間が合わなくてすれ違ってしまっているとか、そういうところもあるのだろうが、悠姫からすれば、もっとひよりのことを気にかけていれば……と思わずにはいられない。
素直で、どこか天然で、人懐こくて、アニメが好きで、慕ってくれている少女。
ひよりの姿が無いだけで、悠姫は胸に空洞が開いたような物足りなさを感じる。
けれどもしかし、だからといって立ち止まることはできない。
今はやることも多いのも事実だ。
『てすてす。はろー、久我とニンジャとリーンは、三人で狩りにでも行ってるの?』
とりあえずギルドチャットで挨拶をして、繋いでいたギルドメンバーが今何をしているのかを確認しておくために問いかける。
『おーこんばん。俺とニンジャは、いま決闘で戦闘訓練してるところだな』
『姫、ごきげんようでござる』
ごきげんよう+ござるというのは挨拶としてどうなのだろうか。最近ニンジャはござると言っておけば大抵のことは許されると思ってそうなのでござる。
『ふむふむ、リーンは?』
『――わたくしは、今臨時に行っておりますわ。……ログインしたら欠橋悠姫がレベルを二つも上げてたせいで、わたくしもレベル上げ中ですわ!』
『なるほどね』
昨日は徹夜でずっと狩りに行っていたせいで、気が付けばレベルが二つも上がっていたのだ。まだまだ上がるレベルとはいえ、悠姫もリーンもさすがにそろそろソロでのレベル上げがきつくなってくるところで、だからこその臨時なのだろう。
一部のプレイヤーは既に悠姫たちに近いレベルの者もいるし、リーンには悠姫が居なかった一年間で知り合った友人もいる。
そんなことを考えていると耳打ちコールがかかり、そこにメアリーという名前があるのを確認すると、悠姫はすぐにWISを取った。
《わたしメアリー。今あなたの後ろに居るの》
《はい?》
疑問符を浮かべて振り返った瞬間、すぅ……と本棚の影からメアリーが姿を現した。
本棚の影から黒髪紫瞳のゴスロリ少女が現れるというのは、どこか書庫の番人でも想起させられそうな光景ではあるが、悠姫はこれからメアリーがいつどこで現れても驚かないようにしよう……と考えてメアリーに話しかける。
「おー……まさに壁に耳あり障子にメアリーだね」
「常時メアリータイムなの」
メアリーは24時間態勢でメアリータイムだったらしい。意味はわからないが。
深いようで浅い、電波を受信してそうな台詞だった。
「でもメアリーが居るってことは、情報が入ったのかな」
「もちろんなの。メアリーにかかれば造作もない情報なの」
そう言ってメアリーは、システムウインドウを操作してオープンチャットから会話をWISへと切り替える。
《悠姫からの依頼のうち、一つは既に完遂済みなの》
誰もいないように見える図書館の中にもかかわらずわざわざWISにしたのは、万が一にも誰かに会話を聞かれない為の配慮だろう。メアリーではないが壁に耳あり障子に目あり。どこで聞いている者がいるかわかったものではない。
《まずはありがとう。それで、どれがわかったの?》
《元EPのマスターの所在なの》
《それか》
――そもそもの、事の発端。
ルカルディアの治安が悪くなった原因の大半は、[Endless Paradox]の内乱に起因している。
これまで装備の差で抑圧されていて従うしかなかったEPの構成員の一部が反乱を起こし、VR化と共にギルドマスターへと勝負をふっかけたのが事の始まり。
そしてその勝負で元EPのギルドマスターであるディーンは、まさかの手痛い敗北を喫し、新しいギルドマスターが誕生したのだ。
それが最近、問題となっている大手ギルドの名前を肩に着せた、迷惑行為の根幹だ。
現EPのギルドマスターはラードルフ・ヴィンセント・ヘルサイズという男だが、このEPというギルドは元々大規模戦闘を目的として作られたレイドギルドだ。
レイドギルドというのは、倒してもすぐにリポップするモンスターではなく、特定のフィールドを徘徊、もしくはダンジョンに奥底に一体だけ存在するなどといった、普通のモンスターとは比較にならないほどの強大なステータスを持っている[レイドボス]を狩る為だけに特化したコミュニティだ。
オンラインゲームにおいての最強の存在であるレイドボス。
そんなモンスターを狩るために作られたギルドだからこそ、ギルドに加入するだけでもレベル制限や装備制限が設けられるところも多く、コミュニティが持つ性質も軍隊のような厳しい上下関係や、また同じように厳しい規律が存在するところもある。
ギルドはコミュニティであるが故に、性質というものが存在する。
対人ギルドならば対人戦闘に特化した性質を。
商業ギルドならば商売に特化した性質を。
身内ギルドならば交流に特化した性質を。
ソロギルドならば孤独に特化した性質を。
ならば彼らレイドギルドが掲げている思想、性質とは一体何か?
それは世界でもっとも単純にして、明快で、酷く純粋な性質だ。
――強さ。強くなりたい。
彼らに求めるのは、ただそれだけだ。
最強の存在であるレイドボスを打倒する為だけに生まれたコミュニティ。
多くのプレイヤーが参加しなければ……否、それけでは足りない。多くのプレイヤーが参加して、かつ軍隊のように精密な連携が取れていなければ倒せないレイドボスが落とす装備やアイテムというのは、一般のプレイヤーがいくらかかったところで手に入れることが出来ないほどに目がくらむ希少な装備ばかりだ。
一般プレイヤーが咽から手が出るくらい欲しい装備が、レイドギルドではまるでゴミのように扱われて倉庫の肥やしになっていることなど良くある話だ。
そういったレイドギルドでは、強さを求める大勢の人間を纏めるという傾向上、ギルドマスターや上に立つ人物はさらに強いプレイヤーでなければならない。
上級装備が欲しいが故に、仲良しギルドがいたずらにレイドボス狩りに手を出して資金の枯渇や仲間との摩擦で、幾つのギルドが塵となったことか。
たった一つのレア装備を巡り論争は続き、欲望は留まることを知らず細かな論点の矛盾を突くように正論を繰り出しては矛盾点をあぶり出して我を通そうと躍起になる。
まるで真実を映し出す鏡のように、いつもならば和気藹々としていたギルドがたった一つのレア装備によって互いの醜さを知り、消えゆく。
人の果てしない欲望が露わとなるが故に、レイドギルドとは強さという絶対的な天秤による抑制が必要となってくるのだ。
そして、その強さの均衡が崩れ去ったのは、二月二十八日。
新生CAOがオープンした初日。恐らくそれ以前から計画されていたのであろう。
オンラインゲーム廃人だったディーンは、ただの一構成員でしかなかったラードルフに手痛い敗北を喫した。
ディーンの敗因には、ラードルフが引き継いだ[メインクラス]が元々対人用として猛威を発揮するタイプだったことも挙げられるが、やはり一番の要因はインターフェースの違いだった。
VR化以前のただのMMORPG時代だったならば、例えレベルが同じだったとしても、ユニーククラスで差があったとしても、プレイヤースキルの差でディーンがラードルフに後れを取ることなど無かっただろう。
けれども実際に武器を持ち、生身で相手と斬り合いをするという、およそ日常では考えられないシチュエーション。それに先に対応出来たのは日頃から感情を抑圧されてきていたラードルフの方で、人に悪意を向けられて襲い掛かれるという現実を目の当たりにしたディーンは、恐怖で成す術も無く切り刻まれて無様な敗北を晒すことになったのだ。
《……それで、彼は今どうしてるの?》
《ディーンは今、元EP幹部だったメンバーと、シルフォニア大陸の北西にあるフォーレストガルム大陸にある城塞都市サキュラを拠点にして、レベル上げと対人戦闘の修練をしているの》
《やっぱりね》
にやりと悠姫は笑う。やはり廃人は廃人。一度や二度の敗北で退こうと思うほど、伊達や酔狂でオンラインゲームの世界にのめり込んでいる訳ではない。
《……それで、悠姫はどうするの?》
《もちろん本人に会いに行ってみるけど、メアリーも来る?》
《お誘いを受けたら行かないわけにはいかないの。むしろ来るなと言われても行くの》
《ですよねー》
こんな情報になりそうな話なら当然だろう。
「それじゃ、フォーレストガルム大陸に行くとしようかな」
「メアリーはこそこそついて行くの……」
そう言うと、メアリーの姿は影に溶け込んでゆき見えなくなった。
悠姫の足元の影が濃さを増したので、恐らく悠姫の影の中にでも隠れたのだろう。
「魔法職のインサイトとか使ったら、見えるようになるのかなこれ」
問いかけには沈黙しか帰って来なく、悠姫は本当にメアリーが近くにいるのか疑問に思いつつギルドチャットで今居る三人に呼びかける。
『おーい。今からサキュラへ行くけど、来る人ー?』
『お? サキュラって城塞都市か?』
『そそ。ちょっと所用があってね』
来るなら行きながら話そうと思い、内容はぼかし気味で悠姫は言う。
『どうするでござるか久我。それがしは別にかまわぬでござるが』
『じゃあ、こっちも一段落したし、ついていっていいか?』
『おっけおっけ。リーンは……まだ臨時中だよね?』
『……その通りですわ、わたくしはまだ臨時中ですわ……くぅ』
『あはは……』
悔しそうなリーンの声に悠姫は乾いた笑みを浮かべながら「リーンはまた今度ね」と言って一応のフォローを入れておく。
『それで、何処に行けばいいんだ?』
『とりあえず図書館に集合で』
『了解だ(でござる)』
城塞都市サキュラは、堅牢な防壁に護られた[亜人族]が統治する都市である。
空に浮かぶ[十一の方舟]が世界から消えたその日。
悪魔や魔物、魔獣が人類に牙を剥き始めた渦中、一番猛威に晒されていたのが、この北西のフォーレストガルム大陸だった。
空が雪で白ずむ極寒の土地。
時刻が夜なので空の様子は真っ暗だが、生き物を否定するかのように吹き荒れる無慈悲な白は、その向こう側からやってくる悪魔や魔物や魔獣を隠し、フォーレストガルム大陸に存在する多くの都市や街が蹂躙された。
レベル80以上もある竜種のワイバーンがそこかしこに群れを成して空を飛び、レイドボスがいくつものフィールドで闊歩する、CAOの中でも高難度に設定されている大陸。
それがフォーレストガルム大陸だ。
シルフォニア大陸にも一部レベル80以降のダンジョンがあるが、中央大陸でもあり最初にプレイヤーが降り立つシルフォニア大陸は高レベルのダンジョンが密集しているわけではない。
都市周辺のモンスターのレベルも低いし、初心者から中級者までの狩場も充実している。
だからプレイヤーは基本的に初期から中盤にかけてのレベル上げをシルフォニア大陸で行い、そこからパーティに参加したりして高難度のダンジョンへと挑んでゆくことになる。
その高難度のダンジョンやフィールドが集まっている大陸というのがこのフォーレストガルム大陸であり、都市の周辺でさえレベルが20前後のモンスターが集まり、一つでもマップを挟むとその先には用意をしていなければ適性レベルのパーティでさえ踏破が困難なアクティブモンスターが当たり前のようにうろついている。
そんな過酷な環境に造られた都市だから、だろう。
「……こいつぁやべぇな……」
「ござる……」
「わー……」
漆黒の要塞。
そんな形容が似合うほどに夜の城塞都市サキュラは、威容を誇っていた。
悠姫と久我とニンジャの三人は、目の前にそびえたつ城塞都市の姿に、生物の本能を揺さぶられるような存在の格の違いというものを感じていた。
夜天に鈍く照らされる城塞の光景はまさに重厚な黒の壁。
どれだけの攻撃を加えようともその一切を弾き飛ばすことが出来るであろうことが見ただけで感じ取ることが出来る堅牢さ。
圧倒的な防御力によって相手の心を叩き折ることにのみ特化したような威圧感。
これを見た後にシルフォニア大陸の首都セインフォートの外壁を見たら、こんなのでモンスターの進行を防ぐことが出来るのかと不安に駆られそうだ。
黒の城壁は遥か高くまで続き、中腹にはそこかしこに迎撃用の砲門が備え付けられていて、闇を照らすサーチライトが夜空を切り裂いている。
砲門が備え付けられているのは、空から訪れるモンスターを討伐する為のものだ。
城塞都市サキュラでは日に5~10回、最低2時間の間を置き、ランダムで緊急クエストが発令される。これは城塞都市サキュラを襲おうとするモンスターの討伐を目的としたクエストで、プレイヤーはそれに参加することでサキュラの城主である[バラッド王]から報奨を得ることが出来るのだ。
三人+影の中の一人はそんな城塞都市サキュラを見上げながら、その場に居ると少し肌寒いので急ぎ城門前で手続きをして中に入る。
VR化前は特に手続きの必要無く中に入れたので、細かなところにも修正が入っているものだと思いながら重々しく開かれた城門をくぐり、厚い城壁の下を歩くこと数十秒。
「おお……これは、外とのギャップがすごいな、おい」
「まあ、外が外だけにね」
城壁を抜けて中に入ると、そこは割と普通の雪国といった風景が広がっており、外から見た物々しさからは想像できないくらいに穏やかな街並みが広がっていた。
前には遥か高くそびえる黒の城壁。後ろにはそれよりも遥かに高く天を衝く雪山。
鉄壁の守りの中で過ごす人々は日々、都市の守護を第一と置いて統治する[亜人族]の王、[バラッド]に敬意を払って生きている。
これまでの傾向上、もしかしたら彼も特別なAIを持つNPCなのでは……と思わなくもないが、彼に会う為には少々面倒なクエストが必要となってくる。
今回は彼に会う為に来たのではないので、悠姫はまた今度。と思考を追いやって、メアリーから聞いていた元EPのメンバーが根城にしているらしき廃屋へと向かう。
ざくざくと雪を踏みながら、目的地を目指す。
降雪地帯でもサキュラの外みたいにフィールド効果的な作用がないだけに、まだ温かくはあるものの、それでも肌寒さは隠せない。
悠姫は歩きながらシステムウィンドウを呼び出して、最近になってブティックで色々買った服装の中からデニムパンツと縦縞の入ったセーターの衣装装備を選び、ついでに白いイヤーマフと手袋、靴も集めのロングブーツへと変える。
「よし、これであったかもふもふ……」
イヤーマフをもふもふと手で触って触り心地を確かめながら、悠姫は一人満悦する。
「うわ、ずっけぇ……」
「ふふ、いーでしょ。久我はともかく、ニンジャはそれだと寒いんじゃない?」
久我はレザージャケットを羽織っており、一応どこでも対応できそうな格好ではあるが、ニンジャはいかにもニンジャといった黒装束だ。中に鎖帷子も巻いていたはずだし、寒さで死んでしまうのではないだろうか。
「そ、それがしは忍故、さ、寒さになど負けないでござる」
言外に寒いと言っているのと同じだった。
《可愛らしい格好なの……悠姫は意外と少女趣味なの》
「まあ、色々服が有った方が便利だしね」
「ん?」
「なんでもないなーい、ひとりごとひとりごと」
影の中から来たメアリーのWISにそのまま答えて、悠姫はさらに先を目指して歩いてゆく。
「しっかしまあ、元EPとは言っても、良くこんなところを拠点にしようと思ったな」
「それについてはサキュラには緊急クエストがあるからではござらぬか?」
「まあ、だろうけどな」
後をついてくる久我とニンジャにも、既に元EPのギルドマスターであるディーンに会いに行くことは伝えてある。
問答を聞きながら、悠姫も元EPのメンバーがここを拠点に選んだのはそれが目的だろうと思っていた。
城塞都市サキュラで発令される緊急クエストでは、城門前の乱戦マップで戦えばそれだけでNPCのサポートも受けることが出来る。
モンスターとのレベル差があってもNPCの助力である程度カバーすることも出来るし、報奨で装備も貰える。時間さえあるならば、サキュラはかなり効率の良い稼ぎ場だ。
廃人にとって効率とは何にも変えがたい指標のようなものだ。
そしてそんな効率を意識したところに拠点を構えるのだから、彼らはまだ当然――
「――着いたの」
「うお!?」
「く、曲者でござるか!?」
目的地らしき廃屋に辿り着いた瞬間、唐突に現れた第三者の姿を前に、久我とニンジャが各々の反応を見せて左右に仰け反る。
「メアリー、出て来るなら先に何か言って出てきなよ」
「メアリーはちゃんと言ったもん」
ふてくされるようにメアリーは言って、久我とニンジャを見る。
「……悠姫さん、メアリーってまさか」
「あれ、久我も知ってるの?」
「あれだろ。メアリーからWISが来たら同じ内容を10人に回さないと不幸になるっていう」
都市伝説だった。聞くたびに皆違うことを言うのは何故だ。
いったいメアリーにはどれほどのエピソードが隠されているのだろうか。
「……常時メアリータイムなの」
意味不明だった。
しかし何はともあれ、目的地には着いた訳だ。
廃屋にタッチしてみると、個人の所有物であることが確認出来た。
「所有者、ディーン……ギルド……[Akashic Origin」?]
聞いたことが無い名前を復唱すると、その言葉を拾ったメアリーが悠姫を見る。
「元[Endless Paradox]……[Akashic Origin]。[還る場所の原点]という意味を持つ、彼らの今のギルドなの」
そうメアリーが言った瞬間、廃屋の扉がゆっくりと開かれる。
そして、
「――よく来てくれたな、欠橋悠姫さん」
出てきた身長180センチほどはあろうかというごつい騎士鎧を着た茶髪の男性、ディーンは扉の前で訝しげな表情で立ち尽くす悠姫にそう言った。