第77話 先輩 後輩
涙は、棗に出会ってから毎日屋上に足を運んでいた。それも休憩時間だけではなく、授業時間でもお構いなくだ。
「死ね! ウザいんだよ!」
大声をあげて屋上の扉を蹴り飛ばし、狂ったように辺りを殴ったり蹴ったりしながら大声で喚き散らす。
「みんな死ね! 死ね! 死ね! バーカ!」
美術の時間に集団嫌がらせを受けてからクラスメイトからのいじめはエスカレートしていったが、涙は強かだった。毎日学校へ通い、瑠夏達を挑発し、嘲笑し、面倒臭くなったら屋上へ避難する。
涙は、例えいじめられていてもまだ優位に立っているのは自分自身だと強く信じていた。
「あーあーもう調子に乗るんじゃないわよ。何を今更善人ぶってるのかしら。偽善者な自分に酔ってるつもり? ほんと、吐き気がするわ」
呟きながら拳でフェンスを殴るとがしゃんと音がして、じんわり痛みを感じた。
その時、背後に微かな気配を感じて、振り返る。隠れていた人物は、涙と目が合うと少し恥ずかしそうに舌を出した。
「何よあんた。今日も来てたの?」
照れ臭そうにそこから出てきたのは、棗だった。
「また気分悪くなっちゃったんで」
「あんたねぇ、1年のうちから授業サボるなんていい度胸じゃない」
「先輩だってまだ2年生じゃないですかー」
無邪気に笑い声をあげる棗。まるで子供のようなその笑顔に、涙はいつの間にか心を癒されるようになっていた。体を休める場所に屋上を選んだのも、少しはこの棗の存在が絡んでいると言っても過言ではない。
「あ、そうだ。先輩これ飲みませんか?」
棗はそう言って、涙にホットココアを手渡した。自販機から買ったばかりらしく、まだ少し熱い。
「ありがと、ちょうど喉渇いてたの」
迷わずそれを受け取って、涙は缶の中身を口の中へ流し入れた。甘い香りと味が口いっぱいに広がる。
棗はゆっくりと涙の隣に腰掛け、同じ様にホットコココアの蓋を開けた。
「そういえば今日もすごかったですね、先輩の愚痴」
「あんた、また聞いてたわけ?」
「そりゃあ聞こえますよ、あんな大声で叫んでたら」
1階の教室まで聞こえてんじゃないですか、と冗談っぽく笑う棗。その横顔を見詰めながら、涙はもういちどココアを啜った。
「そうそう、先輩、この間数学の授業でクラスの奴が―――……」
下らない世間話を始めるのは棗からだ。涙はいつも黙ってその話に耳を傾ける。こうして棗と話をする事も、密かに涙の日常の一部になっていた。
「でね、その時そいつってば、」
「ねぇ棗」
棗の話を遮って、涙は口を開いた。涙の真剣な表情と口調に、棗は驚いたように目を丸くする。
「はい。何ですか?」
「あたしが毎日授業サボって屋上にきて、大声で怒鳴ってる理由、知ってる?」
棗は暫し考え込むように押し黙った後、首を真横に振った。
「いえ……」
涙は軽く鼻で笑った。それが棗に対しての嘲笑だったのか、それとも自分に対しての嘲笑だったのか、明らかでは無い。
涙はホットココアの缶を地面に置くと、棗の方を向いてこう言った。
「あたし、クラス全員からいじめられてるの」
棗はそれを聞いた瞬間、ココアの缶を地面に落とした。缶が転がり、地面に茶色い染みを作る。
「……え、え! それ、ほんとですか?」
「うん。今日もノートにゴキブリの死体挟まれてたのよ。マジ、陰湿でしょ? この間なんて家にあたし宛の手紙が届いて、その中から虫の死骸がいっぱい出てきたの。あはははっ、馬鹿みたいよね。そんなのであたしが参ると思ってるわけよ、あいつら」
授業の始まりを告げるチャイムが鳴る。涙は次の授業に出るつもりはなかったので、さほど気にも留めなかったが。
不意に、棗がぴんと背筋を伸ばした。恐る恐ると言った風に涙の顔を覗きこんでくる。
「あの。先輩、それって、原因とかは無いんですか?」
思いもよらなかった一言に、涙の目が大きく見開かれる。棗の事だから少しは慰めてくれるかと思ったのに。涙は気分を害し、頬を軽く膨らませながら尋ね返す。
「何よそれ。どういう意味?」
これは俺の勝手な推測なんですけど、と棗は地面に転がったココアの缶を拾い上げながら呟いた。
「いじめって、何か原因が無かったら起こらないと思うんですよ。たとえば、先輩が最初に誰かをいじめていたとか……そういうことはなかったんですか?」
「……それは……」
思わず口篭ってしまった涙に、畳み掛けるように棗の追求は続く。
「先輩は本当に何もしてないんですか? 先輩は何も悪くないんですか?」
「……」
「もし何か思い当たることがあるのなら、クラスの人にきちんと謝るべきだと思います。そうしたらきっと……」
棗は何も知らないはずなのに、痛いところをピンポイントで突いてくる。涙は勢い良く立ち上がると、耳を塞ぐ真似をしながら棗を怒鳴りつけた。
「うるさいうるさいうるさい! 調子にのるんじゃないわよ! あんたには関係ないし、あたしは何も悪くない! 悪いのは全部向こうなんだから、あたしが謝ったりする必要なんかないわ! ……ったく、ちょっとスキを見せるとこれなんだから。ウザい後輩ね、あんた」
涙はそのまま逃げるように屋上を後にした。階段を駆け下り、息を荒げながら近くのトイレに駆け込む。
腹が立った。悲しかった。棗なら慰めてくれると、少しは自分に賛同してくれると思っていたのに。なんで怒られなければいけないのだろう? どうして自分が。
注意される事や悪者扱いされる事にはもう慣れてしまっていたし、どうでも良くなっていた。しかし、注意された相手が棗だっただけで、こんなにも腹が立つ。
棗には悪者扱いされたくなかった。味方でいてほしかった。大丈夫ですよと励ましてほしかった。
その時、涙はふと思い出した。この感情は、あの時と同じものだ。美衣子をいじめていた時に雪山先輩に怒られたときと、同じ感情。
好きな人に注意されたり怒られたりすると、悔しくて、悲しくて、惨めな気分になる。自分の味方が誰もいなくなってしまったような気持ちになる。―――今の涙が感じているのは、それと全く同じ気持ちだった。
涙はハッと息をのみ、トイレの鏡に映る自分の顔を見つめた。心臓が早鐘のように激しく脈打つ。涙はそのまま目を閉じ、小さく呟いた。
「あたし、棗の事が……」




