第75話 美術
1限目は美術だった。
「今日は皆で絵を描きましょう。どんな絵でも良いから、あなたの描きたいものを自由に描いてください。素敵な絵を期待しています」
優しげに微笑んだ教科担任はそれだけ言って、みんなの絵を見学に回った。
瑠夏、京子、奈々は固まってせっせと絵を描いている。しかし、涙は1人ぽつんと席に座って、じっと真っ白なキャンパスを見つめていた。
(……何描いていいのよね。それならもうちょっとあの馬鹿共を怒らせてみようかしら)
涙はにたりと笑い、キャンパスに筆を走らせ始めた。
***
先生はにこやかに1人1人の絵を見て回り、1人1人と会話を交わしている。そして、涙の絵を見た先生は、あら……と声を上げた。
「葉山さん、それはなぁに? 人形かしら?」
涙のキャンパスには、大きな掌の上で踊っている、小さな人形が描かれていた。
「操り人形です」
涙は筆を止めることなく、淡々とそう答えた。先生は更に優しく微笑むと、涙の絵を覗き込んで褒めた。
「素敵な人形ね。とっても可愛らしいわ」
それを聞き、涙は一瞬筆を止めて先生の顔を見上げた。
「そうですか? 可愛らしくなんてないですよ、この人形」
「あら、どうして?」
先生の不思議そうなその言葉に、涙は待ってましたとばかりに笑みを浮かべた。
「この人形はね、すぐに壊れるんです。馬鹿で脆くて、役立たずなんです」
そう言うが早いか、涙は人形の上に黒い絵の具を塗った。可愛らしく微笑んでいた人形の顔が潰される。醜く、汚く。
涙は更に黒の上から原色の青黒い絵の具を重ね塗りし、迷う事無く筆洗い用の汚い水をキャンパスに浴びせかけた。その瞬間先生は小さく悲鳴をあげ、片手で口を押さえて両目を見開き、眉間に皺を寄せた。
「葉山さん、せっかく描いた絵なのに、どうしてこんなことを……」
「この絵はこれで完成なんです」
「で、でも……これじゃあ水浸しよ?」
「それでいいんです。この絵は水浸しがいいの。水に浸ってふやけて、どんどん汚くなるのが良いの」
あいつみたいに、と涙は小さく付け足して、喉の奥から引き攣ったような笑い声を上げた。その時、
「きゃっ!」
涙は大きく悲鳴をあげた。真っ赤な水が頭から浴びせられたのだ。
「ご、ごめん、足が引っかかっちゃって……」
慌てた様子でハンカチを取り出し、涙の制服を必死に拭こうとしているのは……瑠夏だった。涙は瑠夏を力一杯睨んだ。瑠夏はそれに気づいて笑みを浮かべ、涙にしか聞こえないほど小さな声で囁いた。
「血の色、お似合いよ」
先生はオロオロと涙にタオルを手渡し、焦ったように両手で顔を包んだ。
「大変! 油性ポスターカラーだから、落ちないかもしれないわ。葉山さん、早くお手洗いに……」
「わかってます」
涙は先生の手を振り払うようにして立ち上がると、瑠夏たちの絵を盗み見た。
3人はそれぞれ違う画用紙に、全く同じような絵を描いていた。黒く禍々しい背景に、助けを求めているような、今にも画用紙から飛び出してきそうな1人の少女が描かれている。そしてその少女の全身には赤い絵の具がべったりと塗りつけられ、地面から飛び出した手に引きずり込まれようとしている。
涙は気づいていた。この少女が自分をイメージした人物だという事に。
ふと周りを見回すと、他のクラスメイト達の絵もそれと全く同じ構図だった。言い知れぬ恐怖心を覚えた涙は、今日何度目かも分からない舌打ちをし、美術室を飛び出した。
「は、葉山さん? ……お手洗いに行ったのかしら、あんなに急いで……」
呆然とする先生の目の前で、京子が自分の描いた少女の絵に、ライターで火を点ける。焦げる匂いと共に少女の絵が焼かれていった。それを見ていた1人の女子が、京子の方に手を伸ばした。
「京子ちゃん、私にもライター貸して」
京子は軽く微笑んで、彼女にライターを手渡した。
「はい」
「ありがとう」
その女子もまた、自身で描いた絵に火を点けた。それを見ていた隣の女子も、ライターを借りて自分の絵を燃やす。あちらでも、こちらでも火が点った。美術室には紙の焦げる臭いが充満していく。
「ちょ、ちょっとみんな、何してるの!」
先生が慌てて止めに入ろうとしたが、誰もその行為をやめようとはしなかった。瑠夏が振り向き、先生に向かって冷たく言い放った。
「止めないで下さい先生。この絵は……」
少しの間を置き、クラス全員の目が、不安げな顔の先生に集まる。
「これで完成なんですよ」




