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第58話 追いかけっこ

「無駄だよ……どんなに悲鳴を上げたって誰も来ない……!」


 男の声が背後から追いかけてくる。美衣子はただひたすら走った。足元は枯葉か何かなのだろう、足を下ろすたびにカサカサと不気味な音を立てる。その音が更に美衣子の恐怖心を煽った。


「誰か……誰か助けて!」


 今までに上げた事の無いような大声で叫ぶが、その大声は闇の中へ吸い込まれるだけで、誰の耳にも届かない。

 背後に自分を追ってくる足音が確かに聞こえてくる。その足音は少しずつ近づいているような気がした。


「助けて、助けて、嫌、誰か……お願い、誰か……」


 美衣子は半狂乱になりながら全神経を足に集中させた。

 逃げなければ。

 捕まれば何をされるか分からない。

 美衣子はお世辞にも運動神経がいいとは言えなかった。道無き道を前進する両脚はとっくに悲鳴を上げている。しかし、募っていく恐怖心が美衣子の体を突き動かした。

 側頭部を伸びた木の枝に叩かれ、美衣子はハッとした。

 取り乱していてはいけない。落ち着くのだ。まずはとにかく山を降りて、それから民家に助けを求めよう。

 拳を強く握り締めて闇の中へしっかりと目を向けた瞬間、美衣子は何かに足をとられて転んだ。

 思わず大きな声で悲鳴を上げてしまい、慌てて口許を押さえる。


(だ、大丈夫、大丈夫、落ち着いて……。この暗闇だもん、あの人もきっと私の事、見えてないよ)


 何とか気を落ち着かせようとするが、なかなか上手くいかない。

 じりじりと痛む膝を片手で払うと、微かに砂の感触を感じた。そうかここは山の中だったと脳が納得したその瞬間だった。震える美衣子の肩を、何かが掴んだ。


「つかまえた」


 地の底から湧き出るようなくぐもった声に、鳥肌が全身を覆った。

 やけに生暖かいその手は、美衣子の細い肩をがっちり掴んで離さない。男はゆっくりと美衣子に囁いた。


「に、逃げても無駄だよ、美衣子ちゃん」


 生暖かい鼻息が首筋にかかる。美衣子は発狂し、大声を上げて喚いた。


「離して、離して、離して!」


 男は力一杯美衣子の腕を掴んでいて、どうしても逃れる事が出来ない。


「逃がさない……だ、大好きだよ……美衣子ちゃん……」


 男の発した一言で、美衣子の頭の中は真っ白になった。同時に、あの夜アパートで起こった出来事が脳内に蘇った。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。もう二度とあんな思いはしたくない。

 美衣子は咄嗟に、掴まれていない方の手を地面に這わせた。何か少しでも男に反撃できるようなものを探す為だった。

 不意に硬い感触を感じ、躊躇うことなくそれを掴む。それは石だった。触感からして野球ボールくらいの大きさのものだろう。美衣子はこの世のものとは思えない叫び声を上げながら、その石を高く振り上げた。

 鈍い音がした。何かが割れたような、ひび割れた音。美衣子の肩を掴んでいた、汗ばんだ手が緩む。男は呻き声を上げながら地面にずり落ち、逃げようとした美衣子の足首を掴んだ。


「ま、待て、……こ、このや、ろう……よ、くも……、」

「離して!」


 美衣子は涙声で叫び、再び握った石を真っ直ぐに男の頭蓋骨へ振り下ろした。1度目で足首を掴む手が緩んだ。2度目で男が叫び声をあげた。そこで美衣子は地面に手を這わせ、今まで持っていたものより2倍近い大きさのある石を拾い上げた。そしてその石を、迷う事無く男の顔面がある辺りへ振り下ろした。

 何かが潰れる音と悲鳴、ぐしゃりという感触と、頬に飛び散る生暖かい液体。

 早鐘のように脈打つ心臓。目の前の男の心臓は、恐らく、止まった。

 震えながらその場にくずおれて、美衣子は両手を目の前で広げた。暗くて良く見えないが、何か黒ずんだ液体が付着している。


「……嫌だ……、嘘だよね……こんなこと……。……嘘、でしょ? わ、私……っ」


 両手で顔を覆い、美衣子は繰り返し同じ言葉を呟いた。


「こんなつもり……なかったのに……!」


 よろめきながら立ち上がる。両足がもつれて転び、地面に顔を打ちつける。目の前がぼやけ、一瞬意識が遠のいた。しかし気絶している場合ではない。自分は最低な過ちを犯したのだ。男が犯した罪と全く変わらない、殺人という過ちを。

 美衣子は自分の衣服で両手を拭った。ねっとりとした不快な感覚が若干、軽減される。

美衣子は木に寄り掛かりながら立ち上がり、込み上げる吐き気を押さえ込んで歩き出した。


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