第56話 雫
同じ頃、あのストーカー男は携帯電話を握り締めたまま、歓喜溢れる表情を浮かべてだらしなく突っ立っていた。
「やった……やったぞ、美衣子ちゃんと、約束した……。しかも今夜……今夜だ……!」
ガッツポーズをして雄叫びのような声を上げたあと、男は再び携帯電話を持ち直した。ゆっくり電話番号を打ち、耳に当てる。呼び出し音が鳴っている間も男は妙にそわそわしていた。
5回目のコールで、相手が出た。
『もしもし?』
気だるい女性の声。酷く不機嫌そうな声だった。その人物は喫茶店にでも居るらしく、電話の向こうは騒がしい。
「もしもし……、あ、あの、今時間いいかな、雫ちゃん」
雫と呼ばれた人物は、うん。と答えて高い笑い声をあげた。
『計画成功したの? それじゃ、これからあの駐車場に行くから。多分5分くらいで着くわ。そっちは?』
「10分もあれば行けると思うよ」
『分かった。じゃあね』
その人物はそう言って通話を切った。男はフィギュアでパンパンに膨れたリュックに携帯電話を押し込み、額に滲んだ汗を掌で拭きながら歩き始めた。
***
まだ昼間だというのに猫の子1匹通らない、寂れた団地にその駐車場はあった。
1台も車が停まっていない駐車場の隅に、地面に直に座り込んで大きく欠伸をしている少女がいる。そう、その人物こそが“雫ちゃん”なのだ。
「雫ちゃん、ごめん。少し遅れちゃった」
「あ、おじさん。やっと来たぁ」
妖しく笑う彼女の本当の名前は、葉山涙。
涙は男に名前を聞かれた際、美衣子に自分が首謀者だとバレるのを防ぐ為、そして、何らかのトラブルに巻き込まれた時の為に偽名を名乗っていた。その偽名が「雫」だ。
涙は肩に掛かった髪の毛を片手で払い除けながら、唇を浮かせた。
「ねぇ、おじさん。上手くいったんでしょ、この間の夜」
尋ねると、男は興奮して息を荒げながら大きく首を上下に振った。
「うん。雫ちゃんの立てた計画のとおりにやったらバッチリだったよ! あれで僕の魅力が分かったらしい。さっきドライブの誘いをしたokをくれたんだ!」
「…………え。ほんとに?」
涙は大きく目を見開いて絶句した。まさか美衣子が男の誘いを承諾するとは思っていなかったのだ。あまりの恐怖で再び言葉を発せなくなるか、それとも自ら命を絶つかと色々な妄想を膨らませて楽しみにしていたのに……。
思い描いていたどの予想にも当て嵌まらない反応だったが、こうなってしまった以上は仕方が無い。と涙は小さく舌打ちをした。
「そっか、良かったね」
それだけ言った涙は無表情になり、枝毛を探し始めた。男はそんな事を気にも留めず、満面の笑みを浮かべて笑う。その瞬間男の鼻の穴が開き、涙は顔を顰めた。
「うん、本当に嬉しいよ。これも雫ちゃんのお陰だよ! すごく感謝してるんだ。少ないけど、これ、お礼だよ」
そう言って、男は茶封筒を涙に手渡した。
「……ああ、ありがと」
涙は不機嫌丸出しの声を上げてその袋を受け取り、親指と人差し指で中身を確認した。
「3万5千円? 今回は少なめね」
「この間の夜に計画が成功したのが嬉しくて、ほとんどのお金を君に支払っちゃったから今回はちょっと少なくなっちゃったんだ」
「あっそ。じゃあ次もちゃんとお金、用意しておいてね。そうしたらまた美衣子の情報売ってあげるから」
「分かってるよ。次はきっと沢山支払うから、楽しみにしてて」
「はいはい。それじゃあ貰うものも貰ったし、あたし帰るから。おじさん、今晩はたっぷり楽しんできてね」
涙は男に手を振り、寂れた街の中に姿を消した。




