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第52話 喪失感

 それから20分ほど経過したが、涙は止まる気配が無かった。泣き過ぎて胸が苦しい。息が出来ない。

 しかし泣き続けて良かった事もあった。……何故突然涙が出てきたのか、その理由が分かったのだ。

 美衣子は雪山に逢いたくなったのだった。しかしそれが叶わぬ願いだと知っているから悲しくなった。今まで彼が死んでから何度もそんな感情に蝕まれそうになったが何とか耐え抜いてきた。しかし、昨夜の辛い出来事と先程の瑠夏の優しさが絡み合って、美衣子の気持ちを繋ぎとめていた“何か”が剥がれ落ちてしまった。

 どうしても彼に逢いたい。何としてでも逢いたい。今じゃないとダメなのだ。今逢わないと意味が無いのだ。

 その思いが美衣子の体を動かした。美衣子は台所の引き戸を開けて包丁を取り出す。きらりと光る包丁の刃に、美衣子の疲れきった顔が浮かんだ。

 それを見た美衣子は軽く微笑む。包丁の刃に映る美衣子も同じように微笑む。美衣子は声を出さず、口だけをこう動かした。


「雪ちゃん、今すぐ逢いに行くからね……」


 そのまま包丁を自分の心臓目掛けて突き刺そうとしたが、あと少しのところで手が止まってしまった。どうしてなのか理解できなかった。自分の体なのに、言う事を聞いてくれない。

 死にたいはずなのに、心の奥ではそれを否定しているとでも言うのだろうか? 死に対する恐怖? それとももっと別の理由があるのだろうか? 

 いくら考えても答えは浮かんでこなかった。ただ、美衣子の手は止まったままだ。


***


 そのまま、時間が流れていった。何秒、何分、……いや、何時間かもしれない。とても長い時間が過ぎたような、そんな気がしていた。

 突然部屋の扉が勢い良く叩かれたのは、その時だった。


「!」


 恐る恐る扉に近づき、片耳を扉に押し付ける。すると、


「美衣子! 開けて美衣子!」


 瑠夏と京子の声だった。美衣子は暫く躊躇った後、ゆっくりと扉の鍵を開けた。その瞬間、扉が開いて、3人が慌てた様子で駆け込んできた。


「3人ともどうしたの……? が、学校は?」

「電話の時、様子がおかしかったから……」

「っていうか……それどころじゃないでしょ! 何やってんの!」


 京子の驚いたような声を聞いて、美衣子はハッとした。


(そうだ、今私は死のうとしていたんだ)


「美衣子、早くそれ離して。危ないから……」


 京子が諭すようにそう言いながら美衣子の方へと近寄って来た。が、しかし美衣子は強く首を横に振って京子を強く拒む。


「い、嫌だよ! もう、……もう耐えられない。このまま生きてたって、親友るぅちゃんにいじめられて、嫌な思いをするだけ……。もうだめなの! 耐えられない。雪ちゃんに逢いに行かせて!」

「そんなの……」

「私には雪ちゃんしかいないの! それを奪ったのは……私の幸せを奪ったのは……他の誰でも無い、あなたたちとるぅちゃんでしょう!」


 もう瑠夏たちの事は大切な友達だと思っているはずなのに、上手く感情をコントロールできない。美衣子は自分への苛立ちとぶつけるあてのない悲しみで大粒の涙を流した。


「私が生きていて誰が喜ぶって言うの! るぅちゃんは私が死んだら喜ぶよ? あなたたちだってそうでしょ? 私が死んだら……っ私が死んだら嬉しいでしょ!」


 暫く美衣子の言葉を黙って聞いていた奈々が、突然、美衣子の頬を強く打った。乾いた音が部屋中に響き渡り、美衣子は一瞬両目を瞑って悲鳴を上げる。


「な……何するの……っ」


 涙声で呟く美衣子に、奈々はいつものように小さな声で、淡々とこう言った。


「私たちは美衣子さんをいじめていました。ずっと、酷い事ばかりしてきました。でも、美衣子さんが居なくなって喜んだりしません。人の命を奪うなんて……そんな事は、してはいけないことです。あなたが死ねば、あなたは自分自身を殺した事になるんですよ? ……殺人犯になるんですよ!」


 両目を見開いたままの美衣子の瞳から、涙が零れ落ちていく。その雫はフローリングにぱたぱたと落ちていった。殺人犯、という奈々の台詞が強く耳に残り、頭の中をぐるぐる渦巻いている。


(私が私を殺せば……私はあの男と同類……雪ちゃんを殺した……あいつと同じ……。だけど私は……私……は……)


 次の瞬間、美衣子は包丁を大きく振り上げた。


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