第50話 穢れ
遠くから聞こえてくる鳥の声を聞いて、気を失っていた美衣子は目を覚ました。
美衣子はロボットのように機械的な動きをしながら起き上がる。そしてゆっくりと口に貼ってあるガムテープを剥がし口の中に入っていた布を取り出すと、口から息ができるようになった。
吸って、吐いて、そしてまた大きく息を吸い込んで、吐く。少しの間それを繰り返した時、ふいに大粒の涙が込み上げてきた。
昨日の出来事が悪夢のように、美衣子の脳裏に鮮明に浮かび上がる。……いや、むしろ夢だったならどんなに良かっただろう?
しかし、あれは夢ではなく現実だったと認識させられる証拠が、部屋の中に大量に残されていた。
美衣子が抵抗した時に倒してしまった花瓶が布団の上で粉々に割れてしまっている。部屋中を逃げ回ったときに躓いてしまったゴミ箱が倒れて、中から大量の紙屑が零れている。
言葉に出来ない程に屈辱的な気分だった。……死にたいとさえ思った。どうして殺してくれなかったのだろう? こんな気持ちになるくらいなら殺された方がよっぽどマシだった。
美衣子は両手を交差させて自分の肩を抱きすくめた。肩を震わせ、声をあげず静かに涙を流した。
今大声をあげて泣き叫んでも、誰も助けに来てはくれない。……昨日の夜中にどれだけ暴れても、誰も助けてくれなかったからだ。
こんな時、美衣子の脳裏に映るのは雪山の顔だった。もういないのに、助けてくれるはずが無いのに、そう考えると凄く悲しかった。こんな時こそ、彼に傍に居て欲しいのに……、もう彼は、この世にいない。
全ての悲しみが積み重なって、美衣子の心の中に大きな音を立てて流れ込んでいく。美衣子の心はもう限界に達していた。正直、これ以上耐えられる自身が無かった。
昨夜、あの男が話していた言葉の内容を思い出した美衣子はようやく全てを悟った。自分の家に火をつけたのはあいつだ。そして雪山は、あいつに殺されたのだ。あいつの勝手な憎しみと妬みによって、雪山は殺されてしまった。あいつにとってそれは、いとも呆気ない仕事だっただろう。美衣子を手に入れるためならば、どんな非道な事だって簡単にしてしまうあいつなのだから。
「身勝手すぎるよ。酷すぎる。どうして私たちなの? どうして、どうして私たちばかりこんな目に遭わなくちゃいけないの?」
誰に問いかけるわけでもなく、美衣子は繰り返しそう呟いた。そのたびに、美衣子の瞼の端から涙の粒が零れ落ちていった。
どれくらいその状態で泣き続けただろう。
朝日が昇ったのか、突如陽の光が美衣子の体を優しく包み込んだ。
泣き腫らした目を、昨日閉め切られたままのカーテンに向ける。
やけに明るい光だった。今日はきっと雲ひとつ無い青空なのだろう。自分の気持ちと全く正反対の天候。神様からの、皮肉のプレゼントだと思った。
美衣子はのろのろと行動を開始した。昨晩の騒ぎで散らかってしまった部屋を元通りに片付けることにしたのだ。少しの時間でも、何かしていないと気が狂いそうだった。
なんとか部屋を元通りに片付け直した美衣子はすぐさま服を脱いだ。着替えを済ませた後、昨日着ていた服を迷わずゴミ箱へ入れる。……嫌な思い出を消し去るための手段が、それしか思いつかなかったからだ。
壁にかかっている時計を確認すると、気づかないうちに10時を回っていた。部屋を片付けた後、暫くボーっとしている間に時間が過ぎてしまったのかもしれない。
―――今日は学校に行きたくない。いや、行けない。
もし今学校に行って涙に嫌がらせを受けたら、もう耐えられない気がする。すぐに女子トイレへ駆け込んで首を吊ってしまいそうな予感がする。
美衣子はテレビの電源を点け、座布団に腰を下ろした。……画面に映し出された番組は毎朝観ているニュースだった。リモコンを持った美衣子の手が止まる。
病院で見たあの日のニュースを思い出してしまったのだ。あの時のアナウンサーの淡々とした喋り方が、耳にこびりついて離れない。
流石に地上波で彼の死の瞬間を報道するような真似はしていなかったが、それでも何故か美衣子の脳裏には雪山が電車に撥ねられるシーンが、まるでビデオか何かを再生している時のように鮮明に映し出された。
走ってくる電車。そこへ押し出される雪山。彼はこちらに手を伸ばす。助けてくれと大声で叫ぶ。しかし美衣子は動けない。足が動かない。立ち竦む美衣子の目の前を電車が通り過ぎていく。濃い赤が、美衣子の頬に跳ねた。
脳内のビデオ再生が終了した瞬間、美衣子は大声を上げて泣き叫んでいた。もうこの世にいない彼に向かって、何度も謝り続けた。
せめてあの時自分があの場にいれば。彼の手を掴んで引っ張ってあげる勇気があれば。少しは何かが変わっていたかもしれない。
あの時雪山を引き止めてさえいれば。どうしても傍に居て欲しいと懇願さえすれば。雪山はまだ美衣子の隣に居たかもしれない。
でも、いくら悔やんでももう彼はいない。どこを捜しても、どこへ行っても、もういない。




