第42話 有り得ないことなのに、
遺体安置室。冷たい響きのあるその部屋に、美衣子は足を踏み入れた。
薄暗い室内に、ぽつりと小さなベッドが置いてある。ベッドの上には、顔に白い布を被せられた雪山が横たわっていた。
ベッドの横で啜り泣きが聞こえる。美衣子はベッドの傍に近寄ってみて、言葉を失くした。その啜り泣きは、雪山の母のものだった。
「拓正……拓正、拓正……!」
雪山の遺体に覆い被さる様にして、彼の母はまるで赤ん坊のように泣いている。そして、開く筈の無い息子の瞼に涙を落としながら必死で謝っているのだった。
「ごめんね、ごめんね……、あなた一人を駅に行かせたりしなければ、こんな事には……っ」
……幾ら悔やんでも、もう雪山は戻ってこない。冷たくなってしまった人間が蘇る事は、もう二度と無いのだ。
「雪ちゃん……」
美衣子はそっと雪山の母の傍に屈み込んで、涙を流しながら雪山の髪の毛を撫でた。
「雪ちゃん……こんな私の事を護るためにいつも頑張ってくれたよね……っ、すごく、すごく、嬉しかった。本当に有難う……」
美衣子と雪山の母は、その場でいつまでも泣き続けた。
美衣子は彼の手を握り締める。二度と温まるはずの無い手を。美衣子は彼の名前を呼ぶ。二度と答えてくれるはずも無いのに。
それでもまだ期待してしまうのだ。もしかしたら今にも雪山が起き上がって、「お前、なに泣いてるんだよ」と笑いながら抱きしめてくれるのではないか、と。もしかしたら美衣子の頭を撫でながら、いつもどおりの優しい笑顔を見せてくれるのではないか、と。
……それはあまりにも哀しすぎる期待だったけれど。
雪山の母はその場から勢い良く立ち上がり、傍に立っていた刑事の胸倉を掴んで喚き散らした。
「一体誰なんですか? 拓正をこんな姿にしたのは……!」
刑事は驚いたような顔をして、落ち着いてください、と言いながら慌ててこう答えた。
「それが、あまりにも突然の事だったので、駅の者も目撃者も犯人の顔はハッキリと見ていないようでして……。我々が駆けつけた時には、既に犯人は逃走していました。カッターナイフを売ったという売店の売り子の方にもお話を伺ったのですが、“フードを深く被っていたので顔までは良く分からない”と仰いまして」
「……一刻も早く探し出して、犯人を捕まえてください! お金ならいくらでも出します。全力で捜し出して、死刑台に立たせてください……!」
最愛の息子を一瞬で失ってしまった悲しみが、彼女の中で爆発したのだろう。雪山の母は狂ったように叫び声をあげて刑事の胸倉を掴んだまま、力一杯揺さぶり続けた。
「たった1人の……大事な息子だったんです……っ。今になって色々と問題を起こしたりしたようだけど、だけど、たった1人の大切な子だった……。とても物分りの良い子で、成績も良くて……っ」
「……、お気持ちは良く分かります。私共も全力で犯人を逮捕するよう手配しますので、どうか今はお気持ちを強く持って下さい。お子さんもきっと、それを望んでいるはずです」
美衣子はその傍らで静かに泣き続け、冷たくなってしまった雪山の手を固く握り締めていた。大好きだった彼の顔を、幸せだったあの時を、全て覚えておけるように、心の中にしまっておけるように、美衣子は力一杯雪山の手を握り締めた。




