鋼鉄鳥人シャドウエッガー
1
九条慎は、夕焼けに赤く溶ける町を見下ろしていた。高台にある公園からの眺望だ。ジャングルジムの一番高いところに腰を下ろし、慎は暮れゆく空に思う。
このまま全てが夜に塞がれて、なくなってしまえばいいのに。そうすればもうこれ以上、何の楽しみもない空虚な毎日を重ねずに済む。
高校に入学して二か月。慎はイメージしていた輝かしい高校生活と、現実との落差に早くも挫折を覚えていた。もともと引っ込み思案で、人見知りの気がある慎はなかなかクラスに溶け込めずにいた。戸惑っている間に時間ばかりが経ち、周囲との距離はどんどん隔たっていく。原因が自分自身にあることは分かっていた。慎は昔からそんな自分が大嫌いだった。変われない己を憎み、呪ってさえいる。この世に存在することすら許せず、命を断とうと考えたこともあるが、死を選ぶ勇気さえないことにまた嫌気が差すのだった。
そんな日常の中での唯一の気晴らしが、自転車で町中を走り回ることだった。体を激しく揺らして風を切っている間だけは、あらゆるしがらみから解き放たれ、現実から目を逸らすことができる。今は長い坂を汗だくになりながら必死に上り、たどり着いた先にある公園で一休みをしているところだった。鎖の千切れたブランコとジャングルジムが設置された小さな公園で、住んでいる町を一望することができる。家々が発する無数の灯りを見ていると、抱えている悩みなど些細なことのように思え、気持ちが落ち着く。
ここで休憩をしてから家に引き返すのが、最近の日課だ。あたりは、木擦れの音が耳をくすぐるほど静かだった。時折響く蛙の鳴き声が孤独を癒してくれる。この場所で他の誰かに会ったことは一度もない。高校に入ってから見つけた、自分だけの秘密基地だった。
30分もそうしていただろうか。慎は大きく伸びをすると、ジャングルジムから飛び降りた。近くに停めてあった自転車のスタンドを外し、サドルに跨る。公園の出口に向けてペダルを漕ぎ出しながら、慎は坂を上る途中で目にした、巨大な屋敷のことを考えていた。
通称、城山屋敷。公園から少し下り、脇道を突き進んだ所に聳える洋館だ。城山建設の社長が家族と住んでいる家で、周りの景色と不釣り合いに思えるほど立派な門構えをもつ家だった。なぜ街中ではなく、こんな山中に建てられているのか甚だ疑問ではあるが、庶民には分からない、深い理由があるのかもしれない。
物心がついたときから存在しているこの屋敷は、かつて慎にとって幸福の象徴だった。いつかこんな家に住んでみたい、と仄かに憧れを抱き、このような場所に住むことこそが本当の幸せなのではないか、と心の底から信じてもいた。小学生の時は毎日のように通いつめては門を見上げていたので、ある日、屋敷の使用人と名乗る男に声を掛けられた。このような屋敷に住むのが夢なんです、と慎が正直に気持ちを伝えると男は「そうだね。こんな屋敷を建てられる人に仕えられて僕は幸せだよ。君も勝ち組になりなさい」と、にこりともせずに言い放ったのだった。当時は使用人のことが眩しく思え、憧れをさらに深めたものだったが、今となっては男の鋭い目ばかりが頭に蘇り、身を震わせるのだった。
今でこそ屋敷に対する関心は薄れ、以前見出したはずの幸福論も二転三転している最中であるが、それでも憧憬の念が消えたわけではない。
――いつか俺もあんな風に
己を鼓舞させ、ペダルを強く踏み込む。出口に差し掛かったところで、慎は何の気もなしに背後を振り返り、気付けばブレーキをかけていた。耳を劈くような金属音が静寂を裂く。地面に足を着け、無理矢理自転車を止めた。
「……なんだ?」
慎が目を瞠ったのは、ブランコのちょうど真後ろにある茂みが、強い輝きを放っていたからだ。周囲の薄闇を剥がし取るほどの光度で、どこか幻想的な色を帯びている。
自転車から降りてスタンドを立てると、躊躇いながらもまるで外灯の光に寄せられる羽虫のような気分で、茂みに向けて足を踏み出した。実際、その光を見ていると胸にじわりと温もりが満ちていき、頭がぼうとしてくるのだった。
ブランコをまたぎ、茂みの前に立った。唾を飲み込み、深呼吸。おずおずと手を伸ばし、寄せ集まった葉を掻き分けていく。
「うおォ!」
悲鳴をあげ、今度こそ慎は飛び退いた。同時に光が移動する。上へ上へと昇っていくと茂みを抜け、空に浮き上がる。
光に包まれて現れたのは、1メートル近い大きさの球体だった。灰色をしており、金属的な光沢をもっている。明らかに自然のものではない。人工的に作られた、何らかの装置であることは疑いようもなかった。
次の瞬間、球体は音もなく弾け飛んだ。慎は衝撃に尻餅をつく。蛙の声が一斉に途絶え、空が閃光に染まる。
見上げた視線の先に現れたのは――輝きを背負ってゆっくりと地上に降り立つ、2メートル程の背丈をもった黒いロボットだった。
「ロ……ロボ?」
驚き慄く慎の前で、先ほど四方八方に飛び散った球体の破片が、まるで映像を巻き戻したかのように戻ってくる。様々な形状に分かたれた破片たちは反転し、ロボットの腕や背中、頭部や腹部に次々と装着されていく。その光景は、ベルトコンベアに運ばれてくる機械に、ずらりと並んだロボット・アームが部品を埋め込んでいく様を彷彿とさせた。
やがて全ての破片がロボットに取り付けられると、窪んだ眼窩にエメラルドグリーンの光が灯った。
彫の深い顔立ちに、白く生気のない肌。その顔は人間のデスマスクのようだった。胸部には巨大な鳥の頭が前に出っ張って生えており、その色合いと嘴の形状から、慎は九官鳥を連想した。太い腕の先には人と同じような五本の指があり、分厚い太ももとそれに比べれば細い脛の先には、猛禽類のような二本の鉤爪が備わっていた。全身を覆い、光沢を放つ装甲は触らずとも固く、頑丈であることが分かる。
宝石のように輝く目が慎を見つめる。さらにロボットの唇が上下に引き剥がされていき、その内から男性的な声が漏れた。
『アイアム、シャドウエッガー!』
まるで人間の声を機械に通したかのような声質。耳にきん、と響く。
心臓が高鳴る。腹の底から何かが突き上がってくる。全身をぞわりと鳥肌が駆け抜けた。もはや何が何だか分からず、慎は悲鳴をあげるとロボットに背を向けて逃げ出した。下生えに何度も足を取られながら、地面を爪で引っ掻くようにしてロボットとの距離を取ろうとする。何とか起き上がることができてからは、残されている体力を振り絞り、とにかくがむしゃらに走った。他のことは何も考えられなかった。あまりに不可解な存在から逃げなくては、という意識が背中をひたすらに押していた。
自転車に乗る暇さえ惜しみ、坂に飛び出す。次の瞬間、視界が真っ白に染まった。えっ、と思った時には眼前に車の赤いボディがあり、フロントガラスの向こうで運転手が目を見開いているのが見えた。
血の気が引き、喉元に濁り気のあるものがせり上がってくる。鉄の塊が自分の骨を砕き、肉を潰す様が脳裏を駆け、たまらず目を閉じる。すると内臓が浮き上がるような不快感とともに、世界が回った。
ゆっくりと目を開け、慎が初めに感じたのは、頬に触れる冷ややかな感触だった。アスファルトとは明らかに異なる。かといって血を流したことで、体の芯が凍えたわけでもなさそうだ。考えてみれば、いくら待てども痛みも衝撃も襲ってこない。
真相を確かめようと頭を起こし、本日何度目になるだろう驚愕に、身を震わせる。
すぐ目の前にロボットの顔があった。お姫様抱っこをされるような姿勢で鋼鉄の腕に、体を支えられている。空が近いような気がして視線を下に向ければ、先ほどまでいた公園がはるか遠くに見え、慎は悲鳴を呑みこんだ。
慎はロボットに抱えられ、夜空の中にいた。身を固くし、なるべく下を見ないようにしながら、白皙の顔に視線を転じる。
まさかこいつが、車に轢かれそうになったところを助けてくれたのだろうか――信じられない思いで見つめると、ロボットはダビデ像のような唇をにやりと緩めた。その何とも柔らかな表情に、慎は昔の友人に会ったような懐かしさを覚える。不思議に思えるほど瞬く間に恐怖は薄れていき、心の中は日だまりのような温もりで満ち溢れた。
2
8時5分。慎は自分の席で朝のホームルームを待っていた。
慎は手持無沙汰になると、ついスマートフォンをいじってしまう癖がある。依存症と言われれば頷くしかないわけだが、こうして何の気もなしに好きな芸能人のブログや、テレビではあまり取り扱わないような、くだらないニュースを眺めている時間がそれはそれで至福のひと時なのであった。
頬杖をつき、長方形の画面に映る世界に没頭する。つい最近買ったCDの評価を読み、1つの曲にもこれほどまでに多様な解釈があるのかと感心する。全ての評価を読み終えたところで「おはよう」と言われ、顔をあげると、そこに尾瀬雄太と冨岡茂松が立っていた。
「おはよっ、九条。お前、朝からクールだなぁ! 低血圧かっ!」
「おはよう。雄太、お前は朝から騒がしいな」
何がそんなに楽しいのか、満面の笑みを浮かべる雄太に挨拶を返すと、慎は先ほどの挨拶の主である、冨岡を一瞥した。
記憶が正しければ冨岡に挨拶をされることは、というよりもこうして彼と正面から向き合うことさえ初めてだった。
バスケットボール部、期待の新人。すでに2年生に恋人がいるという話を聞いたことがある。180センチを超える長身と、スポーツマンらしい浅黒い肌に黒の短髪、そしてがっちりとした体格。それでいて威圧的なものを感じさせないのは、子供のような大きな目と丸顔のせいだろう。飾らない性格から女子からの人気は高く、男子からの信頼も厚い。彼の机の周りにはいつも人だかりができていた。自分とは明らかに住む世界の違う人間。それが冨岡に対する慎の評価だった。
そんな男が今、なぜか慎の前に立っている。不審に思いながらも慎が頭を下げると、「なぁ九条……お前、なんか凄いロボ持ってるんだって?」と目を輝かせてきたので、絶句した。雄太を見ると、彼は舌を出し、顔の前で掌を立てている。
「雄太がカツアゲされてるところ、助けたって聞いたぜ。すげぇよなぁ。……なぁお前が良ければなんだけど、俺にもちょっと見せてくれよ、そのロボット」
「あ、あぁ……」
スマートフォンを机に伏せると、冨岡の目を見つめた。その裏側にある考えを見透かしてやろうとする。どういう反応を返すのが正解なのか、頭を捻った。
「俺からも頼むよ~九条。な! 口滑らせたのは悪かった! これからは気を付けるから! な! こいつ昔からの友達でよー! 悪い奴じゃないからさー」
雄太が祈るようなポーズをとり、懇願してくる。慎は鼻から息を吐き出した。考えてみれば、この状況では白を切ることさえできなかった。もはや首肯する以外の選択肢はない。
「……分かったよ。ただ、他の人には絶対に言わないで」
「ああ。約束するよ。ありがとな」
冨岡はわずかに唇を緩める。それはとても自然な仕草のように思えた。彼が信頼に足る人物なのかどうか、穴が開くほど見つめても、今はまだ判断することができなかった。
髪を染めた女子生徒が、教室の隅で冨岡を呼んだ。彼は「じゃあ、また後でな」と言い残して去っていく。慎は一団の中に混ざっていく後ろ姿を見送り、それから雄太を睨んだ。
「おい雄太。なんで話したんだよ。俺のロボは見せ物じゃないんだぞ。秘密だってあれ程」
「だからごめんって! 他の奴には言わなかったけど、トミーには話しちゃったんだよ!」
「話しちゃったじゃないよ、まったく……」
「ま、あいつは良い奴なんだ。口も堅いし、九条も仲良くなれると思うぜ」
慎がもう一文句言ってやろうかと口を開きかけたところで、チャイムが鳴り、雄太は逃げるように自分の席に戻っていった。教室に先生が入ってきて、慎は日直の号令に従って立ち上がる。
それからの一日は、とてつもなく長いように感じられた。時計の針の進みがひどく遅い。5分が30分にも1時間にも思える。昼休みに入った時にはもはや息絶え絶えで、夕方のホームルームが終わると、もはや気力は灰と化していた。
約束の19時にはまだ時間がある。日が落ちたら見せる、と提案したのは慎だった。ロボットを見せることは構わないが、なるべく人目に付きたくない。そのため冨岡の部活が終わるのを待つことになった。その間、雄太と一緒にファーストフード店で時間を潰すことになった。店内はひどく混雑しており、待たずに席を確保できたのは運が良かった。慎はフライドポテトとコーラのセット、雄太はハンバーガーのセットを注文した。
「いやぁ、あの時は本当に助かった! 超怖かったからさー。もう九条様様!」
「その話はもういいって。何度目だよ」
雄太はハンバーガーを振り上げ、唾を飛ばす。慎と顔を合わせる度、彼はこの話題ばかりを口にする。感謝されるのは良いが、同じことばかり言われるといい加減飽きがくる。
二週間ほど前、慎は偶然通りかかった路地で、カツアゲをされている雄太を目撃した。その頃の雄太は単なるクラスメイトに過ぎず、会話をしたこともおそらくなかったように思う。何も人助けをしたかったわけではない。素行の悪い学生たちを驚かせたらそれで満足だった。しかし雄太はその行動に感激してくれ、そしてなんだかんだと言いつつ、休みの日も一緒に遊ぶ仲になった。
頃合いを見て店を後にした慎と雄太は、すぐに目的の場所に向かった。気付けば景色はすっかり夜に包まれていて、空には薄ぼけた満月が浮かんでいる。日の出ているうちこそジョギングをする人や、キャッチボールを楽しむ小学生で賑わう河川敷も、夜の気配が降りてくると途端に人気が途絶える。自転車をガードレールの脇に止めて、石段を降りる。外灯の淡い光が、だだ広い空間を物哀しく照らしている。左右に枝を伸ばした大木は、まるで大がかりな影絵のようだ。耳をそばだてれば、川の流れる音がしんしんと闇に響く。
それほど待つことなく、冨岡はやってきた。それぞれが三角形の頂点を成すような位置関係で立つと、雄太の頷きに合わせ、慎は夜空に手を突き伸ばした。
「来い! シャドウエッガー!」
その叫びは合図だった。そして、ほんの一メートルも離れていない場所で光が生まれたかと思うと、その輝きの中から灰色の球体が姿を現した。バランスボールをもう一回り大きくしたようなサイズで、数センチ宙に浮いている。
冨岡が「おぉ」とのけぞる。慎は表情が崩れそうになるのを必死に耐えながら、毅然と声を張り上げた。もはやごまかしようもない。ロボットを冨岡に見せることを、朝からずっと楽しみにしてきた。そんな自分の気持ちを慎は今、ようやく受け入れる。
「変形! シャドウエッガー!」
これは別に叫ぶ必要はないのだが、言った方が気分も盛り上がる。事実、雄太は「うおー」と絶叫し、冨岡も瞳をきらきらさせている。彼らの熱気に引きずられるように、慎の心もまたじわじわと昂ぶり――
そして、球体は弾け飛んだ。外殻を飛散させ、中から出てきたのは漆黒の鉄人だった。さらに割れた球体の破片が、映像を逆再生させた時のように次々と戻ってきて、鉄人の胸や足、腕や背中に装着されていく。
『アイアム、シャドウエッガー!』
これは慎の発した言葉ではない。外殻を鎧のように装着し終えたロボット――シャドウエッガーの口から出た音声だ。球体の中から現れる度に、毎回こう喋る仕様になっているらしい。その鋼鉄の両足が着地すると、柔らかな地面が足跡の形に陥没した。
「……すっげぇ。でけぇ。なんだこれ……なんだこれ」
鋼の雄々しき肉体を見上げ、冨岡が声を高くする。これまでの、どこか一歩引いたところにいるような態度から一転し、頬を赤く染めた横顔は、無邪気な子どもそのものだった。「そうだろー? マジかっけぇだろ!」となぜか雄太が自慢げに腕を広げる。なぜお前が、と思わざるを得ないが、とりあえず褒めてはくれているので慎は何も言わないでおく。
「シャドウエッガー。これが俺のロボットだ」
シャドウエッガーは片手を前に出し、得意の決めポーズを取る。いつ見ても鳥肌が立つくらいに格好良い。特に肩から腕に掛けての流れるようなフォルムが慎は好きだった。何だか近未来的な感じがするからだ。冨岡はシャドウエッガーに近づくと、その太もものあたりを撫でた。
「お前のロボは凄いな。こいつが雄太を助けてくれたのか……おい九条、こいつ言うこと聞くのか?」
「そりゃ」
「そりゃあもちろん! だけど九条の言うことしか聞かないんだ。なぁ、九条!」
クラスメイトからの疑問に、なぜか雄太が得意げに解説する。ウィンクをしてくる顔に物申したい気持ちを抑えながら、慎はシャドウエッガーに体を向けた。
「そうだね。まぁ、こんな感じに。テイクオフ、シャドウエッガー!」
慎が命じると、シャドウエッガーは小さく頷いた。スキー板のような形をした、二対六枚の羽が背中に展開される。飛びあがると同時に風が地面に叩きつけられ、砂埃が巻き上がった。
そして巨体は飛翔した。背面のブースターから火を噴きだし、鉄の翼からは風を起こして、空に伸びあがっていく。歓声をあげる冨岡を横目で見やり、慎は認識を改めた。シャドウエッガーを見ただけでこんなに喜んでくれる人が、悪い奴であるはずがない。彼とならばきっと、これから先も仲良くやれるような気がした。
シャドウエッガーが夜空に吸い込まれていく。その機影が眩しく思え、慎は目を眇めた。
3
7回目の遊覧飛行を終えた時には、すでに21時をまわっていた。シャドウエッガーに乗って空を飛びまわるスリリングな遊びに、冨岡は終始大興奮だった。そこまで楽しんでくれると、こちらとしても見せた甲斐があるというものだ。
もっと遊びたい気持ちは山々だったが、遅くなると連絡はしておいたものの、これ以上の夜遊びは母親に叱られてしまうし、補導されかねない。名残惜しそうな冨岡をなだめ、ロボットを帰すと、今日のことはけして口外しないことを改めて念を押し、慎は帰路についた。そのまま真っ直ぐ帰るつもりではあったが、途中にある一軒家の前で、慎は自転車を止めた。
坂木、と記された表札を見やり、門をくぐる。飛び石を途中まで渡ると、家の方ではなく隣接する土蔵に近づいた。ノックをすることもなく、飴色の扉に手をかける。立てつけが悪いため両足で踏ん張り、やっとのことで開き、中に足を踏み入れる。
慎を迎えたのは高い天井と油の臭いだった。吊り下げられた裸電球と、テーブルの上にあるスタンドライトの光が闇を剥がしているため、視界に不自由はない。雑然とした中の様子や、土蔵の広さも十分に把握できる。床には機械の部品や工具が足の踏み場もないほど散らかっていた。
「おいおい。誰かと思えば。高校生がこんな夜中にほっつき歩いてていいのか?」
右手の方角から聞こえてきた声に、慎は顔を向ける。パイプ椅子に座り、足を組んだ坂木元雄が眼鏡ごしに、うんざりとした目でこちらを見ていた。
「帰る途中に寄っただけだよ。なんか進展はあったかと思って」
「ふん。あったといえばあった、見てみるか?」
坂木は耳をほじりながら席を立ち、慎の前を横切る。もはや原型が何だったのかさえ分からない部品を足でどかしながら移動する。白色の光が束ねられた中心に、鋼造りの巨人が佇んでいた。
鰐の鱗のような装甲で全身を覆ったその機体こそ、坂木の所有するロボットだった。名前をダイルエッガーという。人間型である点やデスマスクなど、大まかな特徴こそシャドウエッガーと似通っているが、ダイルエッガーは縦横共にとにかく巨大だった。シャドウエッガーよりも一回り大きなその風貌は、立ちはだかるものを悉く踏みつぶす、重戦車を思わせる。右手の甲にはスパイクの付いた盾が装備され、肩からは肉切り包丁よりもまだ厚い刃が突出していた。左腕はなく、肩から直接、右手と同形の盾が接続されている。
「リミットオーバー、ダイルエッガー」
坂木が告げると、ダイルエッガーは背筋を伸ばす。その右腕が赤く発光を始めた。
「内部のエネルギーが右腕に蓄積した状態だ。この状態で三回腰を叩くことにより……掌からエネルギー砲が放たれる。どんな敵も一撃粉砕だ」
「……ってことは、試したの?」
「家の裏行ってみろ。どでかい穴が開いてるからな」
「……いつも思うけど、あんたは一体、何と戦おうとしているんだ」
「男ならいるだろ? やむをえず、エネルギー砲を撃たなきゃならない敵ぐらい」
「生憎、俺の周りにそんな敵はいないよ。というかこいつ、またでかくなってない?」
一目見ただけでも、昨日に比べて肩や背中のパーツが膨れ上がっているような気がする。坂木は脚立に上がると、オープン、と囁いた後で、ダイルエッガーの背中を開いた。正方形の穴の中に手を突っ込み、回線をいじり始める。
「色々武装を加えたからな。説明してやろうか? お前に理解できるとは思えないが」
「別にいいよ。興味もないし。たださ。なんかどんどん、ずんぐりむっくりになっていくというか。もうちょっとスタイリッシュな方がさ、格好良くない?」
「おっと、実に平成生まれらしい発言だな。お前には分からないだろうな、この厚い胸板、太い胴体、無骨な格好良さが。ロボを見世物にするような奴が理解できなくて当然だ」
坂木の指摘に、慎は頬が熱くなるのを感じた。それは今朝、雄太に注意した時と同じ発言だったからだ。まるで過去の失態を見せつけられるような恥ずかしさに襲われるが、このまま黙っているのも悔しく、慎は取り繕うように反論した。
「でも、ロボを実験動物にする奴よりかは、幾分もマシだよ」
坂木は工業大学に通う学生だった。だが何年生なのか、年はいくつなのか、慎は知らない。興味もない。顔かたちはそれなりに整っているのに、清潔感など微塵もない無造作な髪型と、気怠そうな態度が全てを台無しにしている。
坂木との出会いは何ということもない。坂の上にあるいつもの公園でシャドウエッガーと遊んでいると、向こうの方から近づいてきたのだった。俺も似たようなの持ってるぜ。そう言って彼は球体を出現させ、中からダイルエッガーを取り出して見せてきた。
始めこそ、慎は同胞が現れたことに驚き、そして喜んだ。その頃には自分のもとに突然舞い降りてきた謎の鉄人が、少なくとも敵ではないことを確信していたが、それでもこんな奇妙な現象に巻き込まれているのが自分だけではないことを知り、安心した。
だがその気持ちはすぐに裏切られた。坂木は想像を超える変質者だった。何しろ、彼の趣味はロボットの虐待なのだ。彼に言わせればそれはロボットの正体を見極め、謎を突き止めるための実験であるらしいのだが、傍から見れば拷問をしているようにしか見えない。
薬品をかけたり、火あぶりにしたり、電気を流したり、ビルの屋上から落としてみたり、坂木はダイルエッガーをあらゆる手段で痛めつけた。挙句の果てに回線を何本か間違って切ってしまい、右目と左腕を使い物にならなくしてしまった。結局、今もダイルエッガーの右目は景色を映さないままであり、左腕は肩関節からチェンソーで切断して、肩口を盾で覆い隠している始末である。それで何らかの謎が解明できていればまだ救われるのだが、結局分かったことといえば、「ロボットは現代科学では説明のつかない、未知の素材が使われている」「基本は球体の中に入っている」「初めに出会った人を主人と認識し、それ以外の人の言うことを利かなくなる」「主人が呼べば、光に包まれてどこにでもやってくる」「外に出ていられる時間は連続3時間が限度。その時間を超過する、もしくは主人と距離が離れすぎると、自動的に球体の中に戻ってしまう」という程度のことだ。別段、体を焼かれたり、分解したりしなくても得られる情報しかないのだから、ダイルエッガーも浮かばれない。可哀想だとは思うが、慎にはどうすることもできなかった。シャドウエッガーに危害を加えることはしなかったが、それでもあまり関わりたくない人物だ。
「犠牲なくして何も得ることはできない。知的好奇心の追求だよ。お前は知りたくないのか? このロボットがどこからきて、一体誰が作ったものなのか。こんな複雑な回路、今まで俺は見たことがない。装甲も部品もわけがわからない。動力さえ不明だ。人間と同じように飯や肉やクルマエビを食べるしな。こんな謎の塊を前にして、それでも、お前は気持ちが昂ぶらないのか?」
「まぁ、知ったら知ったで嬉しいけど。そんなに……だって俺、シャドウエッガーと一緒にいて楽しいもん。それだけで満足っていうか」
「はっ。自分で調べもせず、考えることもしない。だからお前はゆとり世代だというのだ」
「さっきから馬鹿にしてくるけど、あんただって、俺とそんなに年変わんないだろ」
進展がないというのなら、ここにいつまでも居座る理由はない。慎は床に落ちている透明の板を拾い上げ、机の上に置くと、入ってきたドアに足を向けた。
「じゃあ、おやすみ。またそのうち様子見に来るから」
慎が出て行こうとすると、まだ回線をいじっていた坂木が「あっ、やべ。また切っちゃった」と呟いた。金属同士が擦れ合うような甲高い悲鳴が土蔵に爆ぜ、慎は心の底からダイルエッガーに同情した。
坂木家を出て帰宅すると、慎はすぐさまシャドウエッガーを部屋に呼び出した。鉄の腕に抱えられ、母親に気付かれないよう、細心の注意を払いながらこっそり窓から飛び出す。通学時を除けば、最近はすっかり自転車に乗らなくなってしまった。代わりにシャドウエッガーに乗り、遊覧飛行を楽しむのが日課になっている。湿った風が顔を叩く。ミニチュア模型のような町を見下ろすと、それだけで爽快感が胸に渦巻いた。
降り立つ場所はいつも決まっていた。シャドウエッガーと慎が初めて出会った、坂の上の公園だ。必死になってペダルを漕ぎ、汗だくになっていた頃がすでに懐かしい。今や疲れを感じる必要すらなく、ここにたどり着くことができる。
いつの間にかブランコが撤去された公園は、以前と比べてどこかもの哀しさが漂っていた。慎は鉄の背中から飛び降りると、伸びをして静謐とした空気を肺の中に取り入れる。眼下に広がる夜景はため息が出るほど美しく、その無数の輝きに慎は思いを馳せる。
シャドウエッガーが重々しい足音をたてて、隣にやってきた。その表情はどことなく嬉しそうだった。シャドウエッガーにとってもこの場所はお気に入りのようだ。
漆黒の機体を見上げていると、心が昂ぶり、いてもたってもいられなくなる。慎はたまらずシャドウエッガーに抱きついた。太い腰に腕を回し、胸の九官鳥に額を寄せる。冷ややかな感触が、興奮で火照った体に心地良い。
「やっぱりお前……最高だよ。本当にかっこいい。お前が俺のロボで本当っに幸せだ」
慎が見上げると、感情を読ませない虚ろな双眸が返ってくる。その瞳が、今はどんな言葉や反応よりも心を落ち着かせてくれる。
「俺さ、昔から自分のことが大嫌いなんだ。取り柄もないし。暗いし、頭も悪いし……だけど、お前と一緒にいる時だけは誇らしい気持ちになれる。ちょっとだけ、自分を好きになれる気がするんだ」
シャドウエッガーの足を撫でながら、心の内を吐露していく。まるで世界に二人きりのような雰囲気と、暗闇に散りばめられた無数の光が、慎を雄弁にさせていた。
「こんなに毎日が楽しいのもお前のおかげだ。お前が何者かなんて、どうでもいい。お前が側にいてくれるだけで俺は幸せだよ。これからも、一緒にいてくれるか?」
『オッケイ』
にやりと口角を上げ、シャドウエッガーが音声を漏らす。さらに慎の頭に掌を載せ、ぽんぽんと軽く叩いてくれた。そんな些細な仕草だけで慎の心は宙を浮くのだった。
その時、どこからか、人の話し声が聞こえてきた。慎はシャドウエッガーから離れて振り返った。公園の入り口に誰かが立っていた。複数人いて、何かを話しているようだ。ちょうど外灯の真下にいたため、夜の中でもその正体を判別することは可能だった。
その内の一人は既知の人物だった。ワイシャツに黒のスラックスを履いた、三十代後半の男性。一重瞼に高い鼻をもつその男は、城山屋敷に遣える使用人、保田に違いなかった。
勝ち組になりなさい。小学生時代、彼に話しかけられた記憶が蘇る。最近では関わることさえないものの、町で見かけたことくらいはあった。
慎が頷くと、シャドウエッガーはそれだけで全てを察したらしく、小さく跳びあがると、自分の両足を腕で抱えるようにした。体に装着されていた外殻が一斉に外れ、無数のそれらが渦を描きながら球体の形に繋ぎ合わさっていく。シャドウエッガーを包み込んだ球体は、仄かな光を放って消滅した。
慎は草陰に隠れて、今一度保田に視線を戻す。保田と向かい合って話しているのは、赤いレンズのサングラスをかけ、白いスーツを纏った人物だった。顔が隠れ、髪も耳にかかるくらいの長さのため、性別さえ曖昧だ。距離があるため会話内容はほとんど聞き取れず、「サンプル」という単語だけはかろうじて判別できた。商談でもしているのかもしれない。
耳をそばだてていると、保田がこちらを見た。獲物を見つけた鷹のような鋭い眼差しだった。気付かれたと思い、慎は顔を引込める。両手で口を押さえ、身を縮ませた。息をひそめると、周囲の静けさが余計に鮮明となる。そして新たな単語が耳に入ってきた。
「なつみ」
それは人の名前のようにも、店の名前のようにも聞こえた。何を意味しているのか、今の慎に分かるはずもない。やがて気配は遠ざかっていき、喋り声もなくなる。恐る恐る入り口の方を見やると、人の姿はなくなっていた。
慎は立ち上がり、公園の中央付近に移動する。一陣の風が吹き抜け、足元の砂を掬った。頭の中には保田の射抜くような眼光が、こびりついて離れなかった。
4
6月も終わり、憎き期末試験を倒すと、いよいよあとは夏休みを待つだけとなった。
慎は夏休みに雄太たちから海に誘われていた。冨岡が誘ってくれた女子たちも数名来るらしく、男たちの心は燃え滾り、ある種の一体感が生まれていた。女子の存在ももちろん気分を高揚させる要素だったが、慎にとっては友達と一緒に出掛けること自体が新鮮だった。これほどまでに夏休みが待ち遠しいのは何年振りだろうと心を踊らせる。
「本当に、二人ともそっくりだよね」
食卓に並んで座り、茶碗に盛られたご飯を食べる慎とシャドウエッガーを見て、母親が笑う。シャドウエッガーは上手に箸を使って、大皿からエビフライを摘まむと、自分の口の中に放り入れ、鉄の牙で咀嚼した。慎も箸を伸ばす。千切りされたキャベツを小皿に取り、ソースをたっぷりかける。
「そうなんだよこいつ、好きな食べ物まで俺とそっくりでさ。なんていうか、運命? まだ出会って二か月しか経ってないのに、なんかずっと昔から一緒にいるような気がするっていうの? そんな感じなんだよ」
「これでロボットじゃなくて、女の子連れてきてくれたらもっと良かったんだけど……」
「なに言ってんの。女の子なんてどこにでもいる。彼女なんてこれから長い人生、いつでも作れるし。だけどロボットに出逢うチャンスなんて、めったにないじゃん」
「まぁ、それはそうだけどねぇ」
「しかも、こいつ働き者だし。掃除に洗濯に、お母さんも助かってるんじゃないの?」
「そうだねぇ。どっかの息子に見習って欲しい程度には働いてくれてるかなー。でもロボットさん、何だか時々ね、私を見てすごく寂しそうな顔をするの。あれ、なんでなのかな?」
「えっ、そうなの? そんなの初めて聞いたけど……」
慎は母親と一緒にシャドウエッガーの顔を見る。だがいつも通りの無表情で、黙々とキャベツを口に運ぶだけだった。こちらの視線に気づいている様子さえない。
「もしかしたら、住んでいた星に母親を残してきたとか、あるかもなぁ」
「あら、ロボットさんって宇宙からきたの?」
「例えばの話。じゃあ、ごちそうさま、洗い物は二人でやるから」
「はいはい。ありがとうね。でもロボさんだけにやらせないで、しんちゃんもやってね」
分かってるよ、と返事をしながら慎は席を立つ。シャドウエッガーと二人、協力して洗い物をさっさと終わらせると、慎は自室に戻った。先週買ったばかりのCDアルバムをコンポにかけ、音楽を流しながら将棋盤を広げる。
「そういえば夏休み、雄太たちと海に行くんだよ。女の子も来るんだって。お前も連れて行ってやるからな」
『オッケイ』
「そういえばお前飛べるけど、泳いだところ見たことないな。というか、泳げんの?」
尋ねると、シャドウエッガーは首を傾げた。盤面に駒を並べ終えた慎は、顎をしゃくる。
「いいよ。たまにはお前の先行で」
『オッケイ』
進撃の一歩を繰り出す歩を見やり、慎も同じように第一手を差す。将棋に関して、慎は幼少のころから祖父の相手をしていたこともあり、少なくとも下手ではないと自負があるのだが、シャドウエッガーは強かった。教えてもいないのに初めからルールを理解しており、何よりこちらの気持ちを完全に把握しているようであった。逆に慎からしてみれば、その石像のような顔から相手の気持ちを読み取ることは、ほとんど不可能に近く、そのため勝率は五分五分といったところだった。
次々と駒を前に進めながら、慎は先ほど母親の言っていたことを思い出していた。シャドウエッガーの寂しげな表情など、これまで一度も見たことがなかった。慎に見せるのは、心を閉ざしたような無表情か、またはホッとするような微笑みだけだ。それよりも最近、慎が気になっているのは――
「おい、お前の番だぞ。戦いの最中によそ見するなよ」
膝を小突くと、シャドウエッガーは窓の外に向けていた顔を盤面に戻す。ここ数日前から、外を見ていることが多くなった。それもぼんやりと眺めているのではなく、何かの気配を探るように、鋭い視線で空を射抜いているのだった。何度か視線の先を隣から覗き込んでみたことはあるが、平凡な景色が広がるだけで特に注視するものはなかった。何を見ているのかシャドウエッガーに訊いてみても、はっきりとした答えは返ってこない。シャドウエッガー、宇宙人が作ったロボット説はあながち間違いじゃないのかもしれないと慎は真剣に考え始める。人間には見えない何かを察知しているのかもしれない。
敵の陣地に入った飛車を進めながら、慎は不意にあることを思いついた。机の上に乗っているCDケースを手に取り、シャドウエッガーに差し出す。
「このアルバムさ、明日売り上げのランキングが出るんだけど。お前、何位になると思う?」
シャドウエッガーは駒を動かすと、アルバムのジャケットを暫し見つめた。それから手を上げ、指を三本立てる。三位、という意味だろう。
「そこは嘘でも一位って言ってくれよ」
慎は苦笑し、CDケースを脇に置いた。適当に言ったのか、それとも何か考えを巡らせたのか、はたまた何かが見えたのか。どの道、明日になれば結果は分かる。
シャドウエッガーが歩を進めた。こちらの陣地に入ったため、と金に成る。慎もまた、と金を目指して歩に指を置いた。
翌日、教室に入ると早々に雄太に手招きをされた。自分の机に荷物を置いてから彼の席に行ってみると、彼は神妙な表情を浮かべ、周囲を気にしながら囁くように言った。
「九条、実はさ、昨日ロボのことを訊かれたんだよ」
慎は眉根を寄せた。教室中に響く女子たちの甲高い声に紛れさせるように、慎も声をひそめる。
「訊かれたって……どういうこと?」
「昨日、部活終わりにさ。不思議なロボットを持ってる知り合いはいないかって。もちろん言わなかったけどさ。約束したもんな。絶対他の奴には言わないって」
「その人、どういう格好してたとか、分かる?」
「恰好どころか名前も分かるよ。自分で名乗ってたし。城山屋敷のやすだって奴だよ。なんか目が怖い人。知ってるか?」
「保田さん?」
思いがけない名前に慎は目を丸くした。奇妙な人物と公園で話していた姿が、脳裏に蘇る。「なんだ知ってんのか」という雄太の問いに、慎は曖昧に頷いて応じた。
「まぁ……ちょっと。だけどなんでロボのことを知ってるんだろ」
「さあな。それよりも問題はなんでロボの持ち主を探しているか、だ。まさか城山、ロボットを使って家を建てようとしてんじゃないかな」
「そんな馬鹿な」
「あり得ない話じゃないんじゃないの。だってシャドウエッガーすげぇもん。力あるしさ」
「そりゃそうだけど……」
慎は教室の隅で、同じ部活の連中と談笑している冨岡を見やる。するとちょうど目が合った。保田は冨岡や慎の前にも現れるのだろうか。一体どこでシャドウエッガーの存在を知られたのだろうと記憶をたどるが、心当たりが多すぎてよく分からなかった。
「そういえば最近、父ちゃんに聞いたんだけどさ、城山の娘と奥さんって少し前に死んだんだってな。交通事故だったとか」
その話は慎も母親から聞いたことがあった。確か去年の暮れあたりだった覚えがある。
「うん。それで社長さんも体調崩したって聞いたけど。確かに最近見ないし」
「あいつは面に出てこなくていいよ。商店街を難癖つけながら歩きやがって。大迷惑だ」
雄太が唇を突き出す。彼の家は商店街の肉屋なので、かつて城山と何らかのいざこざがあったのかもしれない。慎はふと、数週間前、公園で保田が口にしていた「なつみ」という単語を思い出した。
「そういや雄太……城山の娘か奥さんの名前って知ってる?」
「は? なんだよいきなり。知るわけないだろ。俺は同学年の女の子にしか興味はない!」
「まぁ、そりゃそうだよな」
乾いた笑いで受けながらも、慎は胸騒ぎを止められずにいた。何だかただならぬことが起きそうな予感が、頭の中で渦を描いていた。
「なるほど、城山か。まぁ確かにあそこが、何か知っていてもおかしくはないな」
ノートパソコンの画面から一切目を離すことなく、坂木は片手でボールペンを回す。彼の背後では、体中至るところにケーブルを繋がれたダイルエッガーが佇んでいる。土蔵の中には明り取りの小さな窓以外に、空気の通り道が存在しない。そのため、うだるような暑さが暗がりの中には充満していた。扇風機が親とはぐれた子どものように、せっせと首を左右に振っているものの、蔵内の熱気を掻きまわすだけで少しも涼しくはならなかった。
ロボットのことを相談する相手は、坂木以外にいない。彼に頼るのは不本意ではあったが、一応意見を訊きたいと思い、慎は学校が終わるとすぐさま土蔵に足を運んだ。さぞ驚くだろうと若干の期待を抱きながら、雄太たちからの情報を提示したのだが、意に反して坂木は顔色一つ変えず、視線を向けようさえしなかった。
「で? どうするんだ?」
「どうするって?」
「これからお前はどうするのかってこと。城山屋敷にでも乗り込んで事情を聞くか?」
「それは……」
なぜ保田がロボットのことを知っていて、その所有者を探しているのか。知りたい気持ちはあったが、藪蛇になるのも避けたかった。慎にとって最も大事なのは、シャドウエッガーがいる日常であり、むざむざそれを捨て去るような道を選ぶつもりはない。黙り込んだ慎の気持ちを察したのか、ディスプレイの光に顔を照らされた坂木は、肩をすくめる。
「ほうら。ならそれで決まりだ。悩んでいることの大部分は、いつだってもう本人の心の中で決まっているんだ。あと必要なのは、それを受け容れる覚悟だけだ」
「……坂木はどうするの。この話を聞いて、何とも思わないのか」
「思うさ。だが俺の考えをお前に話す必要がどこにある」
もはや平常運転な物言いに、もはや苛立ちさえ覚えない。慎は嘆息をしつつ坂木の手元にある、剣道の籠手のような物体に目を留めた。金属製でワイヤーやスイッチが表面に組み込まれている。それは、と尋ねる前に坂木が「俺の発明品だ。どんな重い物でも持てる。ダイルエッガーの切り落とした腕から作った」と得意げに鼻を鳴らす。そんなものを作るんだったら修理をしてやれよ、とも思うが、口出しをしても無駄だということは短い付き合いの中で分かり切っていた。こちらを見下ろすダイルエッガーの眼光も、どこか諦観が漂っている。「まぁ仕方ないさ」と逆にこちらが慰められているような気分になった。
「そんなことより、これを見ろ。お前を驚かせてやる」
坂木は自信ありげに、ノートパソコンのディスプレイを慎に向けてくる。見ると動画が再生されており、薄暗い空間の中で何かが蠢いていた。どこかの路地だろうか。車の走る音や無数の足音が画面外から聞こえてくる。せっかく持ってきた情報を無下に扱われたお返しに、慎は何が来ても驚かない覚悟を決めていたのだが、気付けば声をあげていた。
画面の上の方から巨大な塊が降ってくる。まるで重いものを地面に叩きつけたような轟音に、映像が一瞬、乱れた。ゆっくりと身を起こし、顔を上げるシルエットは人に近い形をしているものの、子細な部分は人と大きくかけ離れている。
それは明らかにシャドウエッガーやダイルエッガーと同種のロボットだった。手足は細くて長く、顔の真ん中には巨大な目が一つ浮かんでいる。
「一つ目の……ロボット……」
「動画サイトに投稿されていた。元は消されているがな。さらに驚くべきことがもう一点」
坂木は動画を一時停止させると、マウスを操作し、画面の光度を調整した。闇が多少薄れ、背景にこれまで見えなかったものが浮かんでくる。それは大小二体の石像だった。大きい方は、これまた長身のロボットだった。細かな部分まで読み取ることはできないが、おそらくシャドウエッガーと同種だろう。
小さい方は少女の石像だった。髪型はポニーテールで、ワンピースを着ている。服も髪も肌も灰色一色に染められたその石像は実に精巧で、今にも動きだしそうな迫力がある。落ちくぼんだ眼光は見る者に何かを訴えているかのようで、慎は身震いした。心霊写真を見てしまった後のような、底冷えのする恐怖が体を駆け抜ける。
「なんでこんなもんが、路地裏に……」
繰り返し再生される動画を見ているうち、さらに慎は、驚愕の真実に気付いた。動画を止め、奥にある電柱をズームする。
「……おい。ここ、市内じゃないか」
その電柱に記されていた番地名は、自転車で行ける範囲にある町のものだった。けして遠い世界の出来事ではない。自分の身近で起きたという奇怪な光景。慎は画面から目を離すことができず、汗でぐっしょりと湿った掌をズボンで拭った。
5
5階建てアパートの3階にある部屋まで荷物を運ぶのは、なかなか根気のいる作業だ。雄太の兄の引っ越しに、慎と冨岡は借りだされていた。行ってみるとワゴン車の中に荷物が残された状態で、肝心の兄はどこかに出かけてしまったらしい。「いつもこんな調子なんだ。困るよな。自分勝手で」と雄太は憤慨している。とりあえず鍵は持っているとのことだったので、荷物の運び入れを始めることにした。
荷物は車いっぱいに積まれていたが、全て運び終えるのに一時間もかからなかった。それもシャドウエッガーの活躍故だ。2人がかりでようやく運べる大型テレビも、シャドウエッガーは片手で軽く持ち上げ、空を飛んで部屋まで持っていくことができたし、一段一段階段を昇らなくとも、背中に乗せてもらえば一瞬で三階まで行き着くことも可能だった。
細かい配置は本人に任せることにして、とりあえず部屋の中で休憩を取る。高校生3人と、大きな体のシャドウエッガーが座るとそれだけで部屋はいっぱいになった。雄太が近くのコンビニでジュースと大福を買ってきてくれたので、みんなで食べることにする。
「いやぁーマジ助かったよ。みんなお疲れ! 兄貴はあとでぶん殴っとく!」
「いいって。シャドウエッガーのおかげで随分楽だったし。兄弟仲良くしろよ」
「うん。冨岡君は重い物とか率先して持ったけど、俺は何も……」
「いやぁ、九条も頑張ってくれたよ! こういうのはどれだけやったかよりも、気持ちが大事なんだ。ほんっとありがとう。助かった助かった」
雄太は満足そうにコーラのペットボトルを傾ける。慎は胡坐をかき、大福を美味しそうに頬張るシャドウエッガーを見上げた。黒い金属製の手が、大福の粉で真っ白になっている。己の無力さを自覚しているだけに、気持ちが大事、と言われると少しだけ慎の気持ちは軽くなる。だが同時に2人の側にいればいるだけ、捉えようのない恐怖が心の中に忍び寄るのだった。
「それで九条、どうするんだ? 城山のこと」
まごまごしているうちに、冨岡が先に口を開いてしまう。慎は下唇を軽く噛み、それからシャドウエッガーの足を撫でた。
「どうするって……今まで通りだよ。保田さんには、知らないって言い張ったし」
「おおう? 特攻かけりゃあいいのに。先手必勝だぜ、こういうのは!」
雄太が片膝を立て、自分の腕をはたく。慎は機械造りの相棒にペットボトルを手渡した。
「いいんだ。下手に足突っ込んで、墓穴掘っても嫌だし。俺は今のままで充分だよ」
シャドウエッガーは蓋を開け、口の中にお茶を流し込む。「あんまり焦るとむせるぞ」と声を掛けると、無言で頷いた。その姿を見つめていた冨岡が、ふっと相好を崩す。
「……そうだな。お前がそれでいいって言うなら、俺たちも裏切るわけにはいかないな。いいんじゃないの、それで。触らぬ神に祟りなし、って言うし」
「あ、カッコいいじゃんか。それがカノジョ持ちの貫録ってやつですか! ひゅー!」
「雄太、お前は言葉に重みがなさすぎだ」
冨岡が指摘すると、雄太が反論する。軽妙に会話を交わし合う二人に、慎もまた噴きだしてしまう。シャドウエッガーも唇を緩め、楽しげにこの場を見守っている。
「そういえばこの前さ。シャドウエッガー、凄いんだ。俺の好きなバンドの売り上げ順位、ぴったり当てたんだよ」
ネットで確認したところ、CDアルバムの順位はシャドウエッガーの予測した通りだった。頬をつねりつつ、別のサイトやテレビを確認したが間違いはなかった。そのことを話すと驚きの声があがった。
「お前、力強いし空飛べるのに未来予知までできるのか? 欲張りすぎだぜこのやろっ!」
雄太が破顔しながら、シャドウエッガーの膝をはたく。冨岡は「そりゃすごいな」と疑い半分の表情で、胸から飛び出した九官鳥の嘴を撫でた。
「まぁ、勘が当たったと言われればそれまでだけど。でも思うんだ。やっぱり俺たちに見えないものがこいつには見えてるんじゃないかって」
シャドウエッガーに目をやると、口元を引き締め、外の様子をじっと窺っていた。
「見えないもの、ねぇ……」
雄太もまたシャドウエッガーの視線の先を追う。冨岡も同じように顔を向けた。開け放たれた窓からは生温い風が吹き込み、蝉の鳴き声が静寂に染み込んでいった。
程なくして帰ってきた雄太の兄は、荷物の運び入れがすでに終わっていたことに大層驚き、それからお詫びとお礼にと、近くのラーメン屋で夕飯を奢ってくれた。雄太の兄は気さくな人物で、思いのほか会話が弾み、店を出る頃にはすっかり空は暗くなっていた。
帰路につき、二人と別れると、慎は母親に一報を入れてから家とは反対方向に自転車を走らせた。三十分も漕ぐと、息があがってくる。場所は事前にスマートフォンで調べておいたので、夜道でも迷うことはなかった。
たどり着いた路地は、映像で見た印象よりもずっと開けていた。住宅街から少し離れているが、個人商店が近くにあり、人気がないというわけでもない。傍らにある電柱の番地を確認し、それから道の真ん中で暫し佇む。当然と言うべきか、脅えた表情で固まる少女もいなければ、シャドウエッガーに似たロボもいなかった。しばらく付近を歩き回った後で、何の収穫もないことに嘆息する。自転車に跨り、顔を上げると、いつの間にか目の前に高価そうなスーツを身に纏った保田が立っていた。
「こんばんは。こんなところで奇遇だね……九条君」
にこりともせず、真顔のまま保田は慎を見つめてくる。慎は軽く頭を下げた。
「……保田、さん。お久しぶりです」
慎は今すぐこの場から逃げ出したくなった。この男と向き合っていると、まるで自分が小さな子どもになってしまったような錯覚に陥る。結局、自分は保田の掌の上で踊っているだけなのではないか、という焦りが胸の内に広がっていく。
「ああ。久しぶりで何だけど、今日は君に訊きたいことがあるんだ。会えて良かったよ」
保田は慎の心を見透かしたように、一歩、距離を縮めてくる。慎は壁に肩をぶつけ、その端正な顔立ちを見上げることしかできない。
「君は……ロボットを知らないかい? そうだな。2メートルくらいの人型で、高性能なんだ。君の友達が持っていることに違いないとは思うんだけど」
もし嘘をつけば何をされるのか分からない――保田の黒い瞳は、慎の心に底の見えない恐怖を植え付けた。慎は視線を右に向け、唾を呑みこんだ後で、首を横に振った。
「知り、ません。知らないです、ロボなんて。なんですか、それ」
「……そうか。ならいい。時間をとらせてすまなかった」
保田は慎の顔を舐めるように見つめ、それからあっさりと踵を返した。慎は冷や汗を拭い、壁から背中を引き剥がした。慌てて口を開く。
「あの、そのロボ、探してるんですか? だったら俺にも協力できることがあれば」
慎の言葉に、保田は足を止めた。肩越しに振り返り、唇を意地悪く歪める。
「旦那様がご所望でね。あの方の願いに応えるのが僕の仕事だ。君は君のするべきことをやりなさい」
冷たくあしらわれ、慎は俯く。だがふと思い出すことがあり、「そうだ」と顔を上げた。
「城山さん体調が悪いって聞きました。その、あと娘さんのこと……ご愁傷様です」
「ありがとう。気持ちは預かっておく。旦那様に伝えておくよ」
保田は淡々と口調で礼を言うと、顔を前に戻した。立ち去っていく後ろ姿を見つめる慎の頭の中には、時系列さえ判然としない、様々な思いが錯綜していた。
「俺の友達に、巷の女子小学生について詳しい男がいるんだが」
「それは、ただの変質者だ」
慎は坂木家の土蔵に来ていた。珍しく、彼の方から電話を寄越してきたのだ。隅の方にはダイルエッガーの入った灰色の球体が転がっている。慎は球体の状態で部屋にいる、シャドウエッガーのことを思い浮かべた。
「昭和生まれの中でも、俺のように平成生まれを忌み嫌う者もいれば、すき好む奴もいるということだ」
坂木の理屈は釈然としないが、呼び出したからには理由があるはずだ。慎が困惑顔を作りつつ先を促すと、彼は土蔵の中を歩き回りながらさらに話を続けた。
「その男に、あの石像のモデルとなった少女について調べてもらった。そしてすぐに分かった。現場の近くの小学校に通っている、国島ルカという11歳の女だ」
「でもなんであんな石像が? それにあのロボも。今日行ったけど、2体ともなかったよ」
「当然だ。少なくとも、少女の方はもう動き出している。生身の人間としてな」
あまりに坂木が当然のことのように言うので、慎は「そうか」と一度流してしまった。だがすぐさま違和感に思い至り、「えっ?」と訊き返した。
「本人に訊いてきた。彼女は克明に記憶していたよ、自分の体が石に変えられたということ、そして自分のロボ――サモンエッガーという名前のロボも石化され、意識を取り戻した時には、すでにいなくなっていたということ。呼んでも来ないって、べそ掻いてたな」
慎は頭がついていかず、坂木の顔に答えを探す。人間が石になるなんてまるっきりファンタジーの世界ではないか、とも思うが、よく考えてみれば未知なるロボットが存在していること自体、荒唐無稽なことだった。
「あまりに突然なことで、犯人までは分からなかったらしいが、まぁおそらく」
「あの、一つ目のロボットか……。でも人を石にするなんて、魔法じゃないんだから」
「驚くことか? 元々わけのわからないロボなんだ。あいつらに何が搭載されていてもおかしくはないだろ。そういえば国島ルカはお前と似たような感覚を持っていたらしい」
「俺と?」
「ロボと一緒に風呂に入っていたんだと。寝る時も一緒だったらしい。鋼鉄の魔人をぬいぐるみ扱いとはな。だから俺はお前らが嫌いなんだ。そっちの方が俺には理解できないね」
「さすがの俺でもシャドウエッガーと毎日は風呂に入らないよ」
坂木の断定口調に呆れながらも、慎は国島ルカの気持ちが分かる気がした。彼女の置かれている状況を思うと、身を抓まれるようだった。ずっと一緒にいた、大好きなロボットが突然、目の前から姿を消したのだ。彼女の絶望は計り知れない。同時にふつふつと怒りが沸いた。子どもから大切なものを無理やり取り上げた、悪魔に対する義憤だ。
「ロボのことを知る何者かが、俺たちのロボを奪おうとしていることは間違いない。おそらく、城山がそこに一枚噛んでいるだろうな」
「城山……」
だが、坂木の発した一言が慎の怒りを途端に萎めていく。代わりに不安が膨らんだ。保田の冷淡な視線を思い出してしまうと、途端に心の火は消え、足が竦んでしまうのだった。
6
4人で花火を見に行こう、と冨岡が提案してきたので、慎は耳を疑った。雄太も「いや、彼女と行けよ」と眉間に皺を作る。自転車を走らせ、学校からの帰路を辿っている最中のことだった。住宅街を少し離れたせいか、夜に沈んだ町に人通りはなく、信号機や外灯が無人の世界を黙々と照らしていた。
「向こうがその日、用事あんだよ。行こうぜ、俺と九条と雄太とロボで。楽しそうじゃん」
「俺は女の子と行きたいけどなぁ……そりゃアテはないけどさ」
そう漏らしながらも、結局、雄太は渋々付き合うことに決めたようだった。慎としても断る理由はない。花火大会は明後日だ。また楽しみが増えたことに心が踊る。気付けば、心を染め上げていく不安や恐怖を塗りつぶすことに必死だった。
信号が赤になったので、横断歩道の前でブレーキをかける。夏休みの旅行について話す二人をよそに慎は背後の切り立った崖に設置された、城山建設の巨大な看板を見上げた。そこに保田の顔と一つ目のロボが重なり、慎は背筋に寒気を覚える。すぐに看板から目を逸らした。しばらくシャドウエッガーを呼ぶのは、控えた方がいいのかもしれない。
「そういえば九条はさ、部活やらないの?」
いきなり話を振られたので、慎はへあっ、と変な声を出してしまった。顔を戻すと、四つの目が答えを待っている。慌てて、質問の内容を頭の中で手繰り寄せた。
「え、あぁ、部活? まぁ俺、運動も苦手だし、得意なこともないし……」
「別にいいじゃん。俺だって写真苦手だけど、写真部でウキウキウォッチングしてるぜ?」
「お前はただ、女子の写真を撮りたいだけだろうが」
サムズアップをする雄太を、冨岡が厳しく諫める。それから慎の方に顔を向ける。外灯に照らされ、陰影を浮かばせたその表情は、真っ直ぐこちらの心を射抜くようだった。
「苦手なこと、得意なこと。そんなの誰にでもある。九条はさ、自分のこと卑下するけど、俺はお前のいい所、ちゃんと知ってるぜ? さっきのロボの話じゃないけど、見えるもの見えないものなんて人それぞれだからさ。だから、色々やってみろよ」
「冨岡君……」
そうは言われても、一つの観念に捕らわれ、凝り固まった心を開くのは容易なことではない。だが冨岡の真剣な眼差しを、その心遣いを無駄にすることはできず、慎は迷う。「そうそう。トミーは運動凄いけど。女たらしだし。誰にでも欠点はあるよ」と茶々を入れる雄太に、冨岡は「俺ほどの純情派が他にいるかよ」と眉を寄せる。いつもなら笑ってしまう軽妙なやり取りを耳にしても、慎の気持ちは晴れなかった。
その時、まるで心を切り裂くように、空が光輝に包まれた。大型トラックでも通りかかったのかと思い、顔を上げるが、そうではなかった。慎は口をぽかんと開けたまま、空を仰いだ。雄太と冨岡も唖然とした表情で同じ方向を見ている。
横断歩道の上に、人の形をしたロボットが浮かんでいた。背丈は二メートルを超え、左右で色の違う目は、射抜くように鋭かった。体のメインカラーは栗色で、各所に黒い強固そうな装甲が点在している。鳥を模したのであろう機械の翼を両肩に広げた、その雄大な出で立ちは、炯眼とも合わせて鷲を彷彿とさせる。
誰もが声を発する前に、鷲の特徴を備えたロボットは翼を大きく羽ばたかせた。風が束になり、慎たちに襲い掛かる。まるで不可視の鉄塊を叩きつけられたような衝撃に、慎は自転車ごと吹き飛ばされた。雄太と冨岡もアスファルトの上を転げる。もんどりうって倒れると息がつまり、そのあとで鈍い痛みが全身に襲ってきて、慎は呻いた。
ロボットはさらに容赦なく、両手に持っている物を投げ放ってくる。それは忍者の武器である手裏剣だった。正体が判別できた時には、すでに鋭利な刃先が眼前まで到達している。瞼を閉じる前に、痛みを覚悟する前に、慎は相棒の名を叫んだ。いつどんな時でも、慎の危機に駆けつけてくれる唯一無二の鉄人――
「シャドウエッガァァァァッ!」
空間がまるで、眩暈が生じた時のように揺らぐ。その歪みの内から、慎の前に現れた光の球が、三人に迫りくる手裏剣を次々と弾いた。直後、球体が割れ、破片が四方八方に飛び散る。顕現を果たしたシャドウエッガーは破片を身に纏うと、左腕を前に突き出した。
『アイアム、シャドウエッガー!』
自分の名を叫ぶなり六枚の羽を駆動させ、ロボットに蹴りを放つ。ロボットは腕を使って防ぐと、左手首に折り畳まれていたサーベルを伸ばして反撃してきた。突き出された凶刃を、シャドウエッガーはすかさず足の鉤爪で受ける。
冨岡は上半身だけ起こし、困惑した表情を浮かべている。彼には動画のことを話していないので、ロボットが複数体いることさえ信じがたいことなのだろう。冨岡が無事であることに安堵し、慎は雄太の姿を探す。彼は少し離れたところで、自転車の下敷きになって倒れていた。瞼は固く閉じられたままで、どうやら意識がないようだ。
「雄太!」
慎が駆け寄ろうとしたその時、シャドウエッガーのかわした、鷹型ロボットのサーベルが城山建設の看板を一閃した。切り裂かれた断片が、真っ直ぐに雄太目がけて落下する。
死が耳元を駆け抜けた。これまでの平穏な毎日が、目の前で砕け散る。雄太の白い顔が、脳裏に焼きつく。心臓が宙を浮いた。
シャドウエッガーが急降下する。看板が地響きをあげて地面に激突した。舞い上がる砂埃と、飛散するアスファルト片の嵐をくぐり抜けるようにして、雄太を抱いたシャドウエッガーが姿を現す。
隣で冨岡がへたり込んだ。慎もまた腰が抜けそうになる。しかしまだ危機を脱したわけではないと身を引き締め、両足で踏みとどまり、浮遊する鷲型ロボットを振り仰いだ。
だが、脅威は全く別の方向からやってきた。
『アイアム、ゴーゴンエッガー!』
耳慣れない起動音を発し、シャドウエッガーの背後にロボットが現れる。まるで闇から滲み出てきたような不穏さを纏うその姿に、慎は見覚えがある。顔の中心で輝く単眼、頑強そうな胴体と比べて異様に細く、長い手足。それは動画の中で這いずりまわっていた一つ目のロボットだった。
「シャドウエッガー! 後ろだ!」
慎の叫びにシャドウエッガーは振り返る。ゴーゴンエッガーは胸のハッチを開くと、そこから紫色のガスを噴射した。慎の命令なしに、シャドウエッガーは雄太を脇に軽く転がすと、彼を庇うようにガスを浴びた。紫煙に巻かれる手足や胴体が、見る見るうちに灰色と化していく。表情に苦悶や恐怖の色はなかった。その目はただ静かに、波の立たない湖のような穏やかさで、慎や雄太を見つめていた。
慎は強烈な不安を感じた。ここで助けに行かなくては、もうシャドウエッガーに会えなくなるような気がした。近づこうとすると、シャドウエッガーは掌を前に突き出す。そこで止まれ、という合図だろう。こっちに来るな、ということかもしれない。その時だけは荒れ狂う海のような、厳しい顔つきになった。
慎にとって、それが相棒と交わした最後の会話となった。シャドウエッガーはまるで初めからそうなることを望んでいたかのように、一体の石像と化してしまった。
「シャドウエッガー!」
駆け出す慎の前で、降下してきたロボットが機械の鷲に変形を遂げる。そして両足を使ってシャドウエッガーの肩を掴むと、そのまま飛翔し、星のない空に消えてしまった。気付けばゴーゴンエッガーも姿を消しており、慎と冨岡、雄太だけが置き去りにされた。
いくら叫ぼうとも相棒が戻ってくることはなかった。声は嗄れ、頬が冷たく、指先は痺れていく。慎は膝から崩れ落ちると己の不甲斐なさに天を仰ぎ、慟哭した。
救急車の中で雄太は目を覚ました。事情を聞きたがる彼を、今は大人しくしているよう宥める。病院に到着し、雄太が検査室に入ると、慎は外に出て坂木に電話をした。空に浮かぶ月も、こちらに向かってくる救急車も、じめついた暑さでさえも現実感がなかった。別の世界に迷い込んでしまったかのような違和感。まるで自分の半身を持っていかれたような喪失感で、立っているのもやっとだった。
ほどなくして、受話口からひどく眠たそうな声が返ってきた。「どうした」とぶっきらぼうに問われ、慎は溢れ出る感情を押し留めながら口を開いた。
「シャドウエッガーが、石にされて……さらわれた。声も届かないんだ。あいつに……いつもならっ、呼べばきてくれたのにっ!」
「そうか。やっぱり、あの石化は俺たちとロボットの繋がりを断ち切る効果があったか」
「だけど、あいつの気配なら、感じる。城山屋敷に多分、いるんだ。あそこにあいつは!」
話していくうち、後悔ばかりが胸に押し寄せ、息をするのも苦しくなる。雄太の青白い顔が脳裏に過ると、冷たい汗が噴きだした。
「……俺のせいだ。俺がもっと早くなんとかしてれば、こんなことにならなかった。俺が馬鹿だから……臆病だから、いけなかったんだ」
スマートフォンを握る手に力がこもる。掌の包帯に血が滲んだ。もっと早く城山に挑んでいれば、と思うが時はすでに遅い。もし過去に戻れるなら、自分を絞め殺してやりたかった。己に対する憎悪が胸を占め、黒々としたものが渦巻く。だが奈落の底に落ちていこうとする慎を坂木の声が拾い上げたのは、坂木の声だった。
「で、お前はこれからどうするんだ?」
乱暴な物言いではあったが、嫌味には感じなかった。そこには坂木なりの気遣いが含まれているようだった。
「居場所が分かるんだろ? それに国島ルカが普通の生活を送れている以上、石化した体を元に戻す方法も必ずある。で、どうする? お前が決めろ。一体、お前はどうしたい?」
「俺は……」
シャドウエッガーと過ごした日々が、泡のように浮かんでは消えていく。思い出一つ一つに付随した感情が荒れ狂い、悶えている。慎は胸に手を当て、ゆっくりと息を吐き出した。周りの景色が輪郭を伴い、肌に沁みこんでいく。
「俺は、シャドウエッガーを助けたい。このまま、終わってたまるか」
もうこれ以上、後悔を重ねたくはない。沸き立つ感情を抑えることはもう止めにした。思いをはっきり伝えると、電話の向こうから高笑いが聞こえてくる。坂木が声をあげて笑うのを、慎は初めて耳にした。
「そういうことなら俺も助太刀しよう。パーティーの始まりだ!」
一方的に言って、いきなり通話が切れる。慎はスマートフォンを耳から離し、画面を見つめてからポケットに入れた。振り返ると、殊勝な面持ちの冨岡が玄関の所に立っていた。
「九条。行くんだな」
「冨岡君は、雄太を頼む。俺は絶対に取り戻してくるから。このまま終わらせないから」
空中で視線を交わらせる。冨岡は何かを言いかけて口を噤み、何か考えるような素振りをみせてから、怪我をした足を引きずりながら、慎に近づいてくる。
「ああ。雄太はきっと大丈夫だ。だから、お前まで怪我すんなよ。海に花火に、俺たちにはまだ、やることがいっぱいあるんだから」
「うん。絶対に行こう。……俺、冨岡君に出会えて、本当に良かった」
「お前が雄太をカツアゲから助けたって聞いた時、俺もお前みたいになりたいと思った。出会えて良かったのは、俺の方も同じだ」
慎と冨岡は見つめ合い、そして抱擁を交わした。甘い髪の匂いと体温を感じ、しばらくしてから離れると、冨岡は目元に皺を作って照れくさそうに笑った。
「じゃあ……また明日な」
「うん。また、明日」
慎は最後に握手を交わすと、踵を返し、走り出した。改めて確認する必要などどこにもない。慎がずっと欲しかったものは、すでに目の前にあった。ならば命がけで取り返さなければならない。それが慎に与えられた、生きていくための理由だった。
7
三叉路を右に行き、急勾配の坂を上ると、やがて夜に聳える緑色の建物が見えてくる。
城山屋敷の前に立つのは、本当に久しぶりのことだった。少年時代は憧れの対象。今となっては超えなくてはならない敵。煉瓦でできた門柱と、深緑色の鉄柵によって作られた門を見上げ、慎は意識を研ぎ澄ませる。密生した葉で空が見えないためか、あたりは深い闇に塞がれており、薄気味の悪い空気が漂っている。門柱に設置された電球は明るさをもたらさず、余計に闇の濃さを増大させているかのようだった。
足音が聞こえた。緊張しながら待っていると、屋敷の方から保田の痩身が現れた。
「九条君。どうしたのかな。こんな時間に。夜遊びはほどほどにしないと」
保田は前髪を払いながら、門を挟んで慎に尋ねてくる。慎は毅然と答えた。
「俺のロボを、取り返しにきました」
「俺のロボ? 何のことかな。君はロボなんか知らないと言ったじゃないか」
「白を切らないでください。俺とあいつは一心同体なんです。どれだけ離れても、居場所くらい分かる」
保田はまるで奇妙なものを見るような目をする。慎は鉄柵を握る手に力を込めた。
「人の物を盗むとは、昭和生まれの風上にも置けない奴だな」
下生えを足で払いのけながら、不遜な呟きとともに現れた坂木が、慎の隣に立つ。彼の背後に光り輝く球体が浮かび上がった。坂木が指を鳴らすと外殻が弾け、シャドウエッガーよりも一回り大きい、深緑色のロボットが飛び出してくる。空中で反転した外殻がその身に装着されると、隻眼に赤い光が灯った。
『アイアム、ダイルエッガー!』
「さぁ、楽しい時間の始まりだ」
坂木は歪んだ笑みを浮かべる。ダイルエッガーは一歩前に出ると、胸部を開き、内部に収められたガトリング砲を露出させた。先の展開を予想し、慎は耳を塞いだ。次の瞬間、砲身が回転を始め、空気を殴りつけるような爆音とともに、大量の弾丸が吐き出された。夜闇に火花が瞬く。鉄柵が吹き飛び、門柱も粉々に破壊されていく。回転が止まる頃には、目の前の景色は一変していた。側にあった木々はへし折られ、地面は抉られ、硝煙が辺りに充満している。門はもはや原型をとどめておらず、屋敷に続く道を阻むものは何もない。
しかし惨憺たる様相の中で、保田だけはワイシャツを汚すことさえなく、ポケットに片手を入れたまま涼しい顔をしていた。慎は息を呑んだ。仄かな光によって形作られた球体が、いつの間にか現れ、彼を庇うように浮遊している。
「派手な自己紹介どうも。ならば今度は僕の相棒を紹介しよう」
球体が割れ、中から現れたのは両肩に機械の翼を備えた、栗色のロボットだった。焦土に舞い降りた鋼の鳥人の肩に、腕に、背中に、足に、次々と鎧が装着されていく。それは先ほど、シャドウエッガーを連れ去った機体だった。
『アイアム、レイドエッガー!』
起動音が鳴り響くと、鷲の特徴を備えたロボ、レイドエッガーは同時に手裏剣を投げてくる。ダイルエッガーは太い腕でそれを弾くと、左手首のバルカン砲を炸裂させた。しかしその弾丸が敵を捉えることはなく、代わりに緑色の葉が次々と散っていく。
「ちょこまかと蠅みたいに。早く分解させろよ。骨の髄まで調べあげてやるから」
舌なめずりをする坂木に、慎はぞっとする。敵じゃなくて本当に良かったと、この時ばかりは心底安堵した。保田は眉一つ動かすことなく、肩をすくめる。
「さて、蠅はどっちかな。こういうのを、飛んで火にいる夏の虫って言うんだろ?」
坂木の背後にある木陰が音をたて、暗闇に赤い光が揺らめく。四本の手足で宙を掻くようにして飛び出してきたのは、一つ目のロボットだった。胸のハッチを開き、紫色のガスを噴射する。瞬時にダイルエッガーの片足が石に塗り固められた。
「出てきたな一つ目……たくさんいた方が、分解しがいがあるというものだ!」
ダイルエッガーの肩の盾が横に開き、そこに現れた砲口から火炎が迸る。ゴーゴンエッガーは四つん這いになって宙を舞うように移動し、攻撃を回避する。代わりにレイドエッガーが剣を振りかぶり、降下してくる。
「坂木!」
「お前は早く先に行けよ! せっかくのロボを思う存分壊せる機会なんだ。邪魔するなよ」
そう言って、坂木は慎に向けて何かを投げてきた。受け取ると、ずしりと重みが腕に加わる。籠手に似た形をしたその機械は、土蔵で見た坂木の発明品だった。
「ロボは素手で運べないだろ。持っていけ。それでさっさと走れ!」
慎は頷くと、籠手状の機械を右手に装着した。駆け出そうと足を前に出すと、保田が手を横に広げ、行く手を阻んでくる。どうにか抜くことはできないか苦心していると、突然ゴーゴンエッガーが突っ込んできて、保田を地面に押し倒した。早く行け、とばかりに単眼が慎を捉える。一体どういうことなのか分からず困惑しつつも、慎は駆け出した。
そしてダイルエッガーの胸部のガトリング砲が、肩の火炎放射器が、腕のバルカン砲が、熱線が、背中の大砲が一斉に火を噴く。石化の煙が散り、周囲のものがことごとく薙ぎ払われる。敵も味方も関係なかった。ゴーゴンエッガーは飛びのき、紙一重で弾丸をかわしていく。レイドエッガーは地上に降りて保田を庇い、剣で砲弾を切り裂いた。
爆風に乗り、慎もまた走る速度を上げる。悲鳴が聞こえたので肩越しに振り返ると、爆撃を受け、燃え上がった灌木の中から、緑色の作業服を着た人間が転がり出してきた。この距離では顔までは分からない。しかし捲れたズボンの裾から、血の滲んだ包帯が見えた。のたうちまわるその体に向けて砲弾が落ちてくる。ゴーゴンエッガーは業火の中を突っ切り、身を翻すと、その人を庇って爆発に呑みこまれた。
慎はこみあげてきた不快なものを呑みこむと、前に向き直り、あらゆる感情や思考を振り切るように走った。胸が乾いた痛みを発し、気付けば透明の滴が頬を伝っていた。
門から屋敷まではおよそ200メートル。坂木の足止めが成功しているのか、保田は追ってこなかった。がむしゃらに走り、屋敷の入り口のドアを破壊して、中に飛び込む。
初めて入る屋敷の中は、美術館を思わせた。照明や窓枠一つとっても高級感に溢れている。慎の住んでいる家のものとは明らかに輝きが違う。大理石の廊下には埃などなく、壁に並んだ絵画はどれも美しい色彩で描かれていた。おそらくそれなりに価値のある作品なのだろう。しかし慎はどうしても、そこに幸せを感じることができなかった。
相棒の気配を辿り、静寂の中を駆ける。暗闇でも自分の手足がどこにあるのか分かるように、慎はシャドウエッガーの居場所を正確に知ることができた。右手でドアを粉砕する。行く手を阻まれるだろうと覚悟していたが、大きな足音をたてているはずなのに、寄りついてくる人の姿はなかった。不気味なほどの静けさが、虚飾に満ちた空間を覆っている。
そう思った矢先、車椅子に乗った老人とあやうく出くわしそうになった。慌てて物陰に隠れ、呼吸を止める。窓の外を眺めている老人の横顔を見て、慎はハッとした。
それは城山だった。あまりに変わりすぎていて一目では分からなかったが、目元に面影がある。はりのあった頬は痩せこけ、力を失った目は、昼間のように明るい外の景色を見つめていた。膝の上には可愛らしいクマのぬいぐるみが置かれている。
一体何を考えているのか、城山はぴくりとも動かず、こちらにも気付いていないようだった。慎は機会を窺って物陰から出ると、彼の背後を駆け抜けた。足早に進み、シャドウエッガーの気配が漏れてくるドアを開く。そこは書斎のようだった。時間をかけることもなく、右手側にある本棚を拳で粉砕すると、地下に続く隠し通路が現れた。
躊躇なく、階段を駆け降りる。限界を超えた力を行使しすぎたせいで、右腕の感覚はすでにない。ロックのかかったドアを何度も叩き、力ずくで突破すると、小部屋にたどり着いた。生活感のまるでない、様々な機械が立ち並んだ室内は、見るからに研究室といった装いだった。電気は点いているが、中には誰もいなかった。壁際には巨大な灰色の石像が、全部で3体並んでいる。ゴーゴンエッガーのガスを浴びたロボット達だろう。この中に国島ルカの所有していたものもあるのだろうか。
シャドウエッガーは部屋の奥にいた。灰色に染まった体はケーブルによって繋がれ、スポットライトを当てられる舞台俳優のように、白い光を浴びて燦然と輝いている。
「シャドウエッガー!」
焦りに胸を焼かれながら駆け、シャドウエッガーに近づく。胸元に手を伸ばすと、ひんやりとした感触が指先に返ってくる。石化した瞳は慎を追うことなく、真っ直ぐに遠くを見据えていた。近くで見れば見るほど、精巧な石像としか思えず、胸が締め付けられる。
「俺だよ。迎えに来たんだ。一緒に帰ろう。やっぱり俺は……お前がいなきゃ駄目なんだ」
震える手でケーブルを掴む。引きちぎろうとすると、「待て!」と切迫した声が響いた。振り返ると、そこには保田と、片足を失ったレイドエッガーの姿があった。
「どうしてここが分かった。そいつは渡さない。それは……旦那様のものだ!」
「どんな理由があろうとも、シャドウエッガーは渡さない。もうあんたなんか怖くない!」
「何も知らない子どもが、調子に乗るなよ」
鬼気迫る表情で保田は叫ぶ。レイドエッガーの飛ばした手裏剣が、床や壁に刺さった。
慎はシャドウエッガーの背後にまわった。籠手を外し、さらに掌に巻かれていた包帯も解く。手は血まみれで凄惨なほどだったが、すでに痛みは麻痺していた。
慎には分かっていた。シャドウエッガーは生きている。その魂は鼓動を刻み続けている。石となり、動きを封じられてなお、心の火は消えていない。それこそまさしく、かつて慎が憧れていた者の姿だった。
「動け」
掌を押し当て、念じる。閉じた瞼の内に漂う曖昧模糊とした感覚を掴み、手繰り寄せる。
「動けよ、俺のロボ……!」
保田が無駄だと叫んだ。レイドエッガーの接近してくる気配がある。だが慎はけして慌てなかった。自分の血が、鋼の体にゆっくりと溶け込みきるのを待ってから、目を見開く。
「動け! シャドウエッガー!」
灰色の巨体が悶える。千切られたケーブルが床を跳ねた。躍りかかってきたレイドエッガーが、動きだした鋼鉄の足に蹴りあげられる。慎を振り返るシャドウエッガーの瞳には光が戻っていた。
「馬鹿な……石化が解けるなど!」
保田がたじろぐ。再会の喜びを味わう暇もなく、慎は息を吹き返したシャドウエッガーの腕に抱えられた。ブースターが炎を上げ、翼が広がる。保田の脇を猛スピードで駆け抜け、地下室から脱出した。薄暗い階段を抜け、書斎の窓を蹴破り、外に飛び出す。
星のない空は藍色のペンキで塗り潰したかのようだった。熱風が肌を焼き、焦げた臭いが鼻を突く。慎は眼下を見渡した。炎が城山の敷地を舐めるように広がり、山中は真っ赤に染まっている。それは地獄のような光景だった。ダイルエッガーと坂木は無事だろうか。姿を探そうとするが、視界は立ち昇る黒煙によってほとんど塞がれてしまっており、発見は困難だった。
すぐ真下の空気が不自然に大きく膨らむ。そして黒煙を劈き、機械の鷲に変形したレイドエッガーが現れた。その背中には保田が乗っていた。
「保田さん……!」
「止まれ!」
レイドエッガーがあっという間に追いついてくると、制動をかけることもなく、そのまま鋭利な嘴で刺突を繰り出してきた。シャドウエッガーは体を捻ってかわす。
「奪えるのは勝ち組だけだ。君が僕から何かを奪うことは許されない!」
レイドエッガーの翼から、螺旋を描く強風が放たれる。シャドウエッガーはくるりと体を反転させ、背で受けようとするが、耐えきることはできず軽々と吹き飛ばされた。慎は振り落とされないよう、相棒の腕にしがみつく。迫ってくる敵機にシャドウエッガーは蹴りで応戦する。ぶつかり合い、離れ、飛んでくる手裏剣をかわす。両手を使うことができない以上、長期戦は不利だった。一刻も早く戦いを終わらせ、この場から離脱しなければならない。一度体勢を整え、坂木と合流すれば勝機もある。そして石化を治す術を見つけ、国島ルカたちのロボットを救い出さなければいけない。
だがそのためには今の状況を打開する必要があった。方法は一つだけ、ある。しかし――慎は逡巡の末、シャドウエッガーを見上げた。
「ちょっと考えがある。いちかばちかなんだけど、二人で帰るには多分、これしかない」
一瞬の間があった。数秒にも、数分にも思える間だった。しかし、まるでずっと昔から答えを用意していたかのように、シャドウエッガーは瞳に覚悟を宿し、頷いた。
弾丸のように急迫してくる機械の鳥を、とんぼを切ってかわす。嘴が足を掠め、白い傷跡が走る。攻撃が放たれる度、黒塗りの体に傷跡は増えていった。慎は左手だけでシャドウエッガーの肩を掴むと、攻撃の隙間を縫うように、鉄の腕をよじ上った。肩に乗ると、シャドウエッガーが体を水平にしたタイミングを見逃さず、翼やブースターに巻き込まれないよう注意を払いながら、一気に腰背部まで駆けた。背中のでっぱりに左手一本で掴まる。機体が垂直に戻ると、慎の体はシャドウエッガーからぶら下がる形になった。筋肉が軋み、激痛が肩に走る。奥歯を噛みしめて耐えながら、必殺の呪文を唱えた。
「リミットオーバー、シャドウエッガー!」
シャドウエッガーは速度を緩めると、動きを止め、滞空したまま大きく両腕を横に広げた。その胸部が真っ赤に発光する。慎は半身を揺らすようにして、両足でシャドウエッガーの腰を蹴った。一回、二回、と足裏で叩く。その間にもレイドエッガーはどんどん距離を縮め、手裏剣が横殴りの雨のように襲ってくる。「男ならいるだろ? やむをえず、エネルギー砲を撃たなきゃならない敵ぐらい」坂木の言葉が脳裏を過り、こんな状況にも関わらず、慎は苦笑した。
三度目。つま先が腰を捉えた瞬間、シャドウエッガーの胸に備わった九官鳥の嘴が開かれ、一条の光が撃ち放たれた。手裏剣が一瞬で蒸発する。レイドエッガーは機体を右に傾けるが、熱線をかわしきることはできず、片翼をもぎとられ、その全身は炎に包まれた。
「それは、僕のものだ! この僕が、奪われるなど!」
不安定な足場にしがみつきながら、保田は吠える。影を帯びた目は明らかに正気を欠いていた。レイドエッガーは上半身だけを人型に変形させると、腕を伸ばし、シャドウエッガーに掴みかかってきた。そのまま体当たりを喰らわせてくる。あまりの衝撃にシャドウエッガーはのけぞり、慎の腕もまた耐えることができなかった。掌が滑る感触と、内臓が踊るような浮遊感を覚え、慎の体は空に投げ出された。見上げた先で、シャドウエッガーの瞳から光が消える。ブースターが制止し、レイドエッガーを巻き込みながら真っ逆さまに落ちていく。
慎もまた落下していきながら、重力から解き放たれた世界で、黒く濁った空を見つめた。冴え冴えと輝く星の光を、暗雲の向こう側に見つけることができたような気がした。
8
2歳の頃、慎は父親と別れを告げた。そうは言っても、慎自身は父親の顔さえ覚えていない。昔撮ったという家族写真を見せられても、母親の側に立つ男に、自分と同じ血が通っていう実感は全く沸かなかった。
ただ、慎の頭に一つだけ残されている記憶がある。リビングにおもちゃを広げて遊んでいると、誰かに声を掛けられた。その人物は何かわけのわからないことを捲し立て、慎を抱き上げた。そして今にも泣きだしそうな顔で、それでも笑いながら、最後にこう締めた。
「お前は、価値のある人間になれ」
それが父親から唯一もらった、最低最悪の贈り物だった。
慎は坂を上っていた。歩道と車道がガードレールによって分断された山道で、途中にある公園で休憩をとることが、毎日の楽しみだった。
静かな夜だった。自分自身の足音と、重たいものを引きずる音だけが、大気を震わせている。空気は冷たく、半袖では肌寒く感じるほどだった。今は夏なのに、と思う。まるで体の真ん中に穴でも開いて、そこを風が吹き抜けているかのようだ。心配になって腹をさするが、当然そこに穴などない。
慎は左腕に籠手をはめ、ロープを握っていた。先端にはロボットの残骸がくくりつけられている。両手足はなく、頭部もどこにあるのかはっきりとしない。慎が通った後のアスファルトは削れ、坂の出発点から真っ直ぐに浅い溝ができていた。
息があがる。ただ上るだけでも一苦労なのに、荷物があるため余計だった。肩が痺れ、ふくらはぎが痛んだ。まるで修行僧か、罪人にでもなったような気分だった。シャドウエッガーの背中に乗って、公園まで運んでもらった頃が、遠い昔のようだ。
今度は慎が運ぶ番だ。あそこはシャドウエッガーにとってもお気に入りの場所だから。シャドウエッガーと初めて会った場所だから。きっと公園に行けば、元気な姿を取り戻してくれるはずだった。
意識が揺らぐ。慎は足を止めた。もうすぐそこに公園が見えているのに、あと一歩が前に出ない。そのうち体に力が入らなくなり、気付けば坂の途中で倒れ込んでいた。
ひどい眠気が肩にのしかかってくる。慎はたまらず瞼を閉じた。心のずっと奥底の方に意識が吸い込まれていく。指先から徐々に熱が逃げて行き、やがて全身が冷たくなった。
次に目を開けた時には、慎は白い部屋に寝かされていた。壁、天井、床に至るまで純白に染め上げられ、うっすらと幾何学模様のようなものが描かれている。体が動かない。首から下に至っては感覚すらなかった。
「ここは?」
慎は尋ねた。心の中で思っただけなのか、それとも声にだして質問したのか、自分でもよく分からない。
「卵の中ですよ」
男の声が返ってくる。視線だけを左に向けると、意外と近くに人の姿があった。その人は赤いレンズのサングラスをかけ、壁や天井と同じ色のスーツを着ていた。どこかで見覚えがあったような気もするが、思い出せない。全ての記憶が曖昧だった。
「あなたはこれから、人類史上初めて、過去の世界にタイムスリップするのです」
「過去、に……?」
「未来からやってきた成功例を繋ぎ、このエッガーシステムはついに完成しました。過去に戻ることを望んでおられるスポンサー様のためにも、これから試運転を行います。ちょうどあなたは適合値も高い。おそらく実験は成功するでしょう」
この人物が一体何を言っているのか、慎は半分も理解できなかった。霞がかったように頭の中がぼんやりとしており、まともに物事を判断することさえ難しい。こうしている間にも、自然と瞼が落ちていく。細まった視界の中に、白い歯が見えた。
「眠っていてください。起きた時には、もうあなたは過去の世界にいます」
倦怠感が酷く、慎は再び目を閉じる。今起きていることが夢なのか、現実なのか分からないが、もうどうにでもなれ、という気持ちが強い。ただ母親に連絡を入れなかったことと、夏休みの旅行までに帰って来られるかということだけが気がかりだった。
「そうそう言い忘れましたが、この装置では生物を過去に送ることはできません。なのでまことに勝手ながら、あなたの体を機械に改造させていただきました。どうせもう普通の生活はできないような体でしたから、よろしかったですよね?」
男の声が闇に溶けていく。
今年はきっとこれまで味わったことのない、最高の夏になるだろう。知らず知らずのうちに頬が緩み、心が温もりで満たされていく。心地よい気分を纏いながら、慎は眠りにつく。どこからか漂ってきた潮の香りが、鼻の中いっぱいに膨らんで弾けた。
9
一筋の光が視界を両断すると、目の前に夜が広がった。長閑な景色だ。風のさざめきと、蛙の鳴き声が静寂をさらに際立たせている。見下ろす町の光は、さながら星空を映し出す鏡のようで、澄んだ空気を通すと一層輝いて見える。
あたりを見渡すと、錆びたジャングルジムと鎖の切れたブランコが目に入る。ここが公園らしい、ということは情報としてすんなりと頭の中に入ってきた。
長い旅をしてきた後のような、疲労感が肩にのしかかっていた。旅路の途中で、たくさんのものを落としてきてしまったような気がする。それがかけがえのないものなのか、それともくだらないものなのか、今となっては確かめる手段さえない。金属でできた、冷たい自分の腕を見つめていると、胸が張り裂けそうになる。その意味さえ、見当もつかない。
草をかき分ける音が足元の方で聞こえる。向けた視線の先に、脅えた表情を浮かべる少年の姿があった。学校の制服を着ている。顔立ちはよく言えば純朴。悪く言えば野暮ったい。眉毛は太く、髪に整髪料の類はつけていないようだ。
不思議な感覚だった。この少年と初対面のような気もするが、その一方で、昔からの友人のような気もする。彼の存在が、まるで紙が油を吸うように体の中に沁みこんでいく。
思考を巡らせているうちに、少年は悲鳴をあげて逃げ出していった。途中で何度も転びそうになりながら、公園の出口を目指して駆けていく。
こんな光景を前にも見たような気がしたのと同時に、不安が胸の中で膨れ上がっていった。何かとんでもないことが起こるような予感が、心をざわめかせる。いてもたってもいられず、前に飛び出すと、自分の想像よりもはるかに速く景色が後ろに流れていった。公園の出口にはほんの二秒足らずで到着した。どうやらこの場所は、坂の途中に位置しているようだ。坂の上から赤いワゴン車が勢いよく下りてくる。そして必死の形相で走る少年はそうとも知らず、道路に飛び出してしまう――
考えるよりも先に、体が動いた。手を伸ばし、少年を抱えて高く跳ぶ。少しジャンプをしたつもりだったのに、見る見る高度は上がっていき、公園を見下ろすまで到達してしまった。自分が空を飛べるという事実に、その時初めて気が付いた。
何はともあれ、両腕の上に少年の体を横たえると、安堵が胸に零れ落ちた。少年は頭を起こすと、困惑した様子でこちらを見つめてくる。何か声でも掛けてやりたいと思い、喋ろうとするものの口が開かない。口を開けたとしても今度は声が出なかった。焦る自分をどこか遠くの方から冷静に眺めている、もう一人の自分の存在を感じる。
とりあえず脅えさせないよう口元を緩め、微笑む。視線を交わし合ううち、やはり昔からの友人というのは勘違いではないような気がした。まるで生まれた時から知っているような、そして一生寄り添って生きていくような予感がする。
この少年を守りたいと思った。困っている時には手を差し伸べ、間違いを侵しそうになった時には正しい道に導いてあげられる、そんな存在になりたいと願った。それが自分の価値。そして生まれた理由であるという確信が心に芽生えていた。
「お前……名前は?」
少年がおずおずと尋ねてくる。少し考えた後で、口を開く。考えたことが声に載るまでがじれったく、時間を要する。他の言葉は結局声にならなかったのに、今回はすぐに舌までせり上がってきた。嬉しくなって、胸奥から浮かんできた自分の名を高らかに叫ぶ。
「アイアム、シャドウエッガー!」
「そっか……俺は九条慎。助けてくれて、ありがとう」
そして少年は出会ってから初めて、笑みを浮かべた。どうやら心を許してもらえたらしい。九条慎。そのなぜか懐かしい響きを、シャドウエッガーは頭の中に刻み込んだ。