縁日の夜に
滑らかな上弦の月が、藍色の夜空にぽっかりと浮かんでいた。
遠くから聞こえてくる祭囃子の音を聞き流しながら、夢乃は慣れない浴衣の裾を整え、手近な岩に腰を下ろした。しっとりとした感覚が手のひらから冷気を伝え、彼女はゆっくりとため息をつく。
月は綺麗だ。いついかなる時でも、新月の夜を除いて、月はその藍色の衣の奥から優しい顔で人々を眺めている。祭りのぼんぼりさえなければもっと綺麗に見えるのだろうが、せっかくの祭りの日にそんな野暮なことを言うほど夢乃は月だけを愛しているわけではなかった。
子供のはしゃぎ声。屋台のおじさんの愛想のいい客引き。中央の広場から流れてくる懐かしさをそそる盆踊りのメロディー。
屋台の立ち並ぶ参道から三歩脇に逸れるだけで、人ごみに埋もれていた視界はぱっと広くなる。そうすると、そこに息づく人々をたっぷりと眺めることができる。それが、夢乃ならではの『祭りの楽しみ方』だった。
無論、十六を迎えた夢乃に恋人と一緒に祭りを見て回りたい、なんていう願望がないわけでもない。けれどそんな願望よりもずっとこの楽しみ方を夢乃は気に入っていた。そこに誰かを入れて、この楽しみを壊されたらと思うと、一人の寂しさなど気にもならなくなってしまうのだ。
しかし、今日は少し、違った。
ぎゅっと胸を締める帯に貰い物のうちわを挟み込み、空いた両手を岩について、夢乃は空を仰ぐ。ざわざわとした喧騒は美しいBGM。彼女を思考の海に放り込むのには実に丁度良いものだった。
目を瞑れば先程目にした光景が鮮明に蘇ってしまいそうな気がして、ただ延々と、月を眺める。
「……整理は、出来てたつもりだったんだけどなぁ」
「……何が?」
ポロリ、と溢れ落ちた独り言に、返事はないはずだった。
びくり、と大きく肩を揺らして、夢乃は上に向けられていた視線を慌てて正面に戻す。
目の前には青年がいた。こちらが驚いたことに驚いたように、青年がぱちくりと瞬きをする。
「どうしたの、こんなところで。暗いところは危ないよ。それとも何、逢い引き?」
短い黒髪に、ハチマキ代わりにタオルをギュッと額に巻いてあった。その間からじわりと汗が滲んでいて、こめかみを伝って首筋まで流れている。手には焼きそばを焼くヘラが握られており、どうやら屋台から抜け出してきたらしかった。
青年の言葉に、夢乃は曖昧な笑みを返した。そんな訳は全くないが、適当に邪推してほうっておいてくれればいい、と思ったからだ。
しかし、青年はむぅ、と口をへの字にしただけだった。何も言わずに引き返していった青年の後ろ姿にほっとしたのもつかの間、片手に焼きそばのパックを携えて、再び青年は夢乃のところまでやってきた。
「ほい」
「……えっと、これは……」
焼きそばのパックを押し付けられた夢乃は、しばし言葉に詰まった。これは何だ。
「食べなよ。俺のおごり。俺が焼いたんだぜ、うまいから食ってみろよ」
「え、いやその、あまりお腹すいてないので……」
遠慮しようとしたにもかかわらず、手元から漂う香ばしいソースの香りに、つい言葉は尻つぼみになった。しょうがないので、夢乃は懐から財布を取り出そうとする。が、青年はそれを押しとどめた。
「金はいいから。どうせ俺んちの屋台、隣の百円安い屋台に客取られてるんだよ。このままだとどうせ売れ残りの廃棄処分だ、残飯処理だとでも思って食ってくれよ。俺も自分の焼いた焼きそばを捨てられるより、誰かに食ってもらったほうがいいからな」
青年があまりにもすすめるので、夢乃は「それじゃ、お言葉に甘えて……」と輪ゴムに挟み込まれていた割り箸を手に取った。パキン、という音を立てて綺麗に割れた割り箸を手に、湯気の立つ焼きそばをゆっくりと口に運ぶ。
少し固めの麺は、口に入った途端に濃厚なソースの香りを鼻腔いっぱいに広げた。噛みごたえのある麺に、カリッとした肉かす、混ぜ込んだ紅しょうがもその味に奥深さを与える。
ただの焼きそばなのに、どうして祭りの焼きそばは美味しく感じるのだろう。ぼんやりとそんなことを考えながら箸を動かしているうちに、気がつけば焼きそばは綺麗に夢乃の腹の中に収まっていた。
「で、なんでこんなところにいるんだ、嬢ちゃん」
焼きそばの余韻に浸っていた夢乃は、その一言で現実に引き戻された。そうだ、そういえばこの人がまだいたんだった。
青年は夢乃が焼きそばを食べている間、ずっと傍の岩に腰掛け、こちらの様子を眺めていた。そして食べ終わった頃を見計らって声をかけてきたわけだ。
「ちょっとはあったかいもん食って、落ち着いただろ」
「私は最初から落ち着いてますよ。ここから月を見るのが趣味なんです。ほっといてください」
ずっと見られていた、ということに今更ながら羞恥心が湧いてきて、つい返答はつっけんどんなものとなった。手元に視線を落とすふりをしながら、ちらり、と青年に視線を向ける。
大学生だろうか。完全な成人ほどの隙のなさはないが、高校生ほどの甘さも感じない。まるで妹か何かを見るようなぬるい視線は、夢乃をひどく居心地悪くさせた。
青年は腕を組むと、にやりと笑みを浮かべる。
「ほー。最初あんたを見たとき、俺はあんたが今にも泣き出しそうに見えたけどね」
かぁっと、一気に頬に熱が集まった。
「放っといてください。私がどこで泣いてたって、関係ないでしょ!」
「あるなぁ。あんたがこんな人気のないところにいて、万が一なんかの事件に巻き込まれでもして、明日の朝刊のお悔やみ欄に載ってたら俺の寝覚めが悪い」
それに焼きそばの恩もあるだろ?なんてちゃっかりと笑う青年に、そんなこと知るか、と小さく呟きながら、ぷしゅう、と自分の中で何かが抜けていくのを感じた。
彼の意見は一理ある。つまり彼は夢乃の身を案じてくれているわけだ。
で、どうしたの。もう一度同じ言葉を繰り返した青年に、夢乃は小さくため息をついた。もう相談に乗る気満々なこの人は、きっと言わない限り、絶対に引き返してくれないのだろう。
それに夢乃自身、誰かに話してみたい、という気持ちがあった。今までは、話せそうな相手は学校の友人ばかりで、彼らには間違っても話せない相談で、モヤモヤとした気持ちを一人、ここまで抱え続けてきたのだ。
「……吹っ切れなくて、ちょっとね。気持ちの整理をし直してたんです」
絡み合わされていた一組の腕。楽しそうな笑い声。弾けるような笑みと、それに応えるとろけるような甘い笑み。
整理はついていた。ただ、心の奥に残っていたものが小さく疼いただけ。
夢乃は脳裏に染み付いたその光景を思い返しながら、自嘲じみた笑みを浮かべた。
「……好きな人がね、いたんです。一方的な片思い。でも、その人には恋人がいて、今は幸せいっぱい。羨ましいですよ。相手に嫉妬とかもします。でもね、それ以上に幸せでいて欲しいんですよね。だから私はその恋はなかったことにしたんです」
その人の、作り出す空間が好きだった。
朗らかで、柔らかくて優しい空気を自然と作れる人だった。そこにいると自然と肩の力が抜けて、笑みを浮かべることができた。
けれどそれがいかに儚く、脆いものかを、私は知っていた。人間関係は脆い。特に人付き合いの苦手な夢乃にとっては。
だから、それを壊すぐらいなら、たとえ特別でなくても、そこそこの距離に居られればいいと思った。
整理をつけたのは、半年も前のこと。
「でもまだ、吹っ切れないなぁ。どうあがいたって勝算なんてないことぐらい、もう理解してるはずなんですけどね」
ギュッと浴衣の裾を握りながら、夢乃は顔を落とした。
涙はもう出ない。ただ昔の恋心が奥で疼いている。それさえ静まれば、きっといつもの日常に戻れる。
「大人だねぇ」
青年の声が、静かに耳朶を打った。僅かに視線を上げると、ぽん、と頭の上に手が置かれる。
「でも、人間の心はそんなすっぱり割り切れるもんじゃないな。見せたかったんだろ、それ」
夢乃は歯を食いしばった。バレバレだ。
せっかく結い上げた髪も、大人っぽく見せるための藍色の浴衣も、全部本当は、彼に見せたかった。
友人としてでもいい。似合うでしょ?なんて冗談めかして言ってみたかった。本当は、そんな勇気すらないのに。
結局は現実を突きつけられて、一人泣きたがってるシンデレラ気取りだ。最低にも程がある。
悔しくて、悲しくて、ポロリ、と涙がこぼれた。
想われてるねぇそいつ、と呟く声を聞きながら、私はそのまま、何度も何度も涙を拭った。人前では泣きたくない。負けを認めた気がして、悔しい。
ゴシゴシと乱暴に拭っていた手を、不意に取られた。代わりに柔らかい布地が目元に当てられ、思わずギュッと目をつぶる。
「一応、汗を吸ってない今日洗濯したばっかの手ぬぐいだから。あーあ、真っ赤だなぁこりゃ。明日腫れるぞ」
別に夏休みだから良い、と夢乃は小さく唇を尖らせた。涙さえ止まれば、それで。
もう一人にしてください。そう言いたかったのに、勝手にしゃくりあげる喉のせいで言葉がうまく出なかった。しゃくりが収まるのを待ちながら、言葉をなんとか紡ぐ。
「も、だいじょうぶですから」
「そお?そいじゃちょっと、遊びに行かね?」
「……、は?」
どこへ。というか何故。何度か小さくしゃくりながら、夢乃は頭の中に疑問符を浮かべ、本気でこの男危険かもしれない、とまで思った。どこかに連れ込まれそうになったら逃げなければ。
しかし、月明かりに照らされた無邪気な横顔は、柔らかい笑みを浮かべて、曲がりくねった参道の上、木々に埋もれてここからは見えない、神のおわします場所を指差した。
「お参りに行こう。せっかくの祭りの日なんだからさ」
すっと差し出された手に自分の手を重ねると、そのまま自然に立ち上がらされる。
彼の手は優しく、まるで夢乃自身が参拝に向かいたいと思っているように錯覚させられるぐらい、自然に彼女を参道へと引き戻した。
足元がふっかりとした土から固いコンクリートに変わった瞬間、薄い膜を隔てて感じていた縁日の空気が肺いっぱいに広がった。ぶるり、と夢乃は小さく身震いをする。
ふと、隣にあった焼きそばの屋台の店主が青年を見て目を大きくした。それからにやりと唇を曲げ、青年に親指を立てる。
「あの、屋台の方は大丈夫なんですか?」
屋台の前にずらりと出来た行列を見て、夢乃は眉をひそめる。しかし青年はどこ吹く風で、「おっちゃんが頑張ってるからなんとかなるだろ」などと言って再び歩き出した。
綿菓子の甘い匂いや金魚すくいの濃厚な水の香りを流しながら、のんびりと石段を上がる。やがて屋台の少なくなるにつれて人通りも減り、社の前に着く頃にはほんの数えるほどの人影しか見えなかった。
やや古び、質素ながらも厳かな空気を生み出すその社を仰ぐのは、いったい何年ぶりだろう。年を重ねるにつれて信仰心も薄れてしまった夢乃にとって、実に久しぶりのことに感じだ。
「ここの神さん、願い叶えるのうまいんだよなー。小さい頃から何度もお世話になってんの。雨乞いから合格祈願まで全部ここだぜ、俺」
「こんな地域の小神社に頼むことですか、それ」
夢乃が呆れたように言うと、「大忙しの神さんより、暇な神さんの方が願い聞いてくれると思わねぇ?」と笑った。
財布から賽銭を取り出して、作法もなにもなく適当に放って適当に手を合わせる。それでも叶うんだからここの神さん寛大で俺大好きだわー、なんて呟きに苦笑しながら、夢乃もつられて手を合わせた。
何を願おう。彼のこと、綺麗さっぱり割り切れるように?それとも。
心の中で小さく願い事を呟いて目を開くと、青年がちらり、と夢乃に視線を向けた。
「終わったか?」
「はい」
「んじゃー、戻りますかねぇ。入口の鳥居のあたりまで送ってやるよ」
「無理に送ってもらわなくても大丈夫ですよ?」
「俺のぽりしぃに反するの」
青年と肩を並べて、ゆっくりと石段を降りる。不思議な気分だった。
「ねぇ、お兄さんなんて名前なんですか」
夢乃が問いかけると、青年はひょい、と眉を上げて、「そういや名乗ってなかったなぁ」と呟く。
「俺は上條誠。昔からここらに住んでんの。下手すりゃ嬢ちゃんの中学の先輩とかにあたるかもな。嬢ちゃんは?」
「夢乃です。朝霧夢乃」
「そうか、夢乃ってのか。いい名前じゃん」
そう言って笑う青年に、夢乃も柔らかな笑みを返す。
ねぇ神様。もしも願いが叶うなら。
全てをふっきれるような新しい恋を、私にひとつ、恵んでくれませんか。
とあるボカロ曲を聞いてたら荒ぶって和風が書きたくなった。→迷った末に縁日にした。→しかしそれは失恋ソングだった。→オワタ
恋愛小説って、書いててものすごく小っ恥ずかしいです。
というか、本当は冒頭あたりの月の雰囲気とかを書く練習がしたかったんです。恋愛なんてこれっぽっちも書きたくなかったんです。でもオチがなかったんだよ仕方ないじゃないか!!
しかもオチてない気がする。これは重大な問題だ。
恋って難しいですよね。私にゃ無理だ^p^