前
寿司が流れてくる。
それはおれの寿司だ。他に似たようなものは幾つもある。だがしかしそれはおれだけの寿司だ。
静かに流れてくる寿司ネタは切りたてなのだろう、鮮やかな色の光を放っている。ここまでツメの甘い匂いが届きそうだ。
おれは口の中にいた小肌を緑茶で流し込み、次のネタに備えた。
寿司が食いたかった。
そう言うと会社の先輩はヘラヘラと笑いながら「いいな、赤酢のシャリを食いたいね」と言ったがおれには赤酢が分からない。
猛烈な恥ずかしさに躊躇いながらも「開かず……とは硬く握ったシャリですか?」と己の間違いをほぼ確信しながら聞いてみた。
先輩は一瞬だけ動きを止めた後、少し笑って「お前は、寿司を食ったことがあるのか?」と言った。
ここで見栄を張っても仕方ない。
「ありません。ウチは貧乏だったもんで、スーパーの半額になった寿司しか知らんのです」
だからこそ、店の寿司が食いたい。食ってみたい。コンビニのおにぎりみたいに硬いシャリじゃない寿司を食べてみたい。
自分でもびっくりするくらいに寿司に対する願望をするすると喋るおれを、先輩は黙って見ていた。
だがおれを馬鹿にはせず、少し間を置いてから「じゃあ、お前に寿司の食い方を教えてやろう」と言った。
「それは、光り物から頼むとかいったマナーのやつですか?」
なんとなくの知識で精一杯の意地を見せてみたが、当然そんなものは通用しない。
先輩は柔らかく笑いながら「それもあるが、そもそも店の等級だな」と言った。
「いいか?まず寿司屋にもピンキリ、色々ある。おれがさっき言ったような、赤酢でシャリを仕込んでいるような寿司屋は、もしかしたら値札が無いかも知らない」
「値札がない?」
「あぁ、まぁ価格を気にせず食う客向けってところだな。おれも流石に値札が無い店に入ったことは無い」
そんな事が許されるのだろうか。
何らかの法律に抵触しないのだろうか。
おれの知らない高級寿司屋は、なぜか薄暗いアンダーグラウンドな雰囲気で脳内に開店し始める。
ダウンライトの光が大将を闇に浮かび上がらせる。無音の店内はその大将が放つ殺気で張り詰めており、無口な客たちが大将の寿司と真剣に向き合おうと緊張している。
南極に沈む群青色をした氷塊のような、太陽が放つプロミネンスのような緊張感の中で、下駄みたいなあの寿司を食う専用の足つき俎板に置かれた寿司を客は指で……。




