天然と養殖
今日でいよいよ定年だ。
佐藤幸雄、六十五歳。
朝、会社のビルを見上げたとき、ガラスに映った自分の姿が思ったより小さく見えた。
仕事終わりに部署のみんなが慰労会を開いてくれた。普段は静かな総務部の面々が今日はやけににぎやかだ。
若い新入社員もいる。ほとんど話したことのない顔ぶれがわざわざ時間を割いて集まってくれた。
ありがたいことだと幸雄は思う。
ある時期から幸雄は昔で言う窓際族だった。席はある。肩書きもある。だが大きな仕事は回ってこない。任されるのは資料整理や備品管理。誰にでもできる仕事ばかり。
それでも会社は自分を切らなかった。窓際でも椅子はあった。それだけで十分だ。定年まで置いてくれたことに幸雄は密かに感謝していた。
宴もたけなわ。ビールが三本目に入ったころ、長年胸に引っかかっていた疑問がふと浮かび上がった。
「あいつ天然だよな」
「もう、天然なんだから」
いつの頃からか若い社員たちがそんな言葉を笑いながら使うようになった。
天然。
自然のままという意味だろうか。ならば反対は養殖か?
あいつが天然なら自分は養殖なのか。
会社といういけすで与えられた餌を食べ、与えられた環境でしか生きていけない。そういうことなんだろうか。
聞く勇気もなく年月だけが過ぎていった。
だが今日は最後だ。どう思われようともう明日からは関係ない。幸雄は向かいに座る三年前入社の若者に声をかけた。何度か世間話をしたことがある話しやすい青年だ。
「最近の若い人ってさ……養殖と思ってるの?」
青年はきょとんとした。
「え? 洋食ですか?」
そう言ってテーブルに視線を落とす。焼き鳥、刺身、だし巻き卵。
「いや、和食でしょ。さすがに洋食とは思わないですよ」
「え? わしょく?」
予想外の返答に幸雄は言葉を失う。
養殖とは思ってない?
わしょく?
どんな字だ? 和殖? 輪殖? 倭殖?
頭の中で漢字がぐるぐる回る。
「あ、そうか……養殖とは思ってないんだね」
とりあえず、そう言ってみる。
青年は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐ隣の同世代との会話に戻った。
笑い声が弾む。天然だの、やばいだの、エモいだの。
幸雄はグラスの底に残ったビールを見つめる。
誰かを天然だと言い、でも自分のことを養殖とは思っていない。
“わしょく”だと言う。
また新しい言葉が出てきた。だが、いまさら聞き直すのも野暮というものだ。窓際で過ごした年月のように、自分は少しずつ会話の中心から外れていったのかもしれない。
(いやぁ……本当に若い人たちとは会話ができなくなったもんだ)
そう思いながらふと胸の奥が軽くなる。明日からはもう無理に合わせなくていい。天然でも養殖でもなくただの佐藤幸雄として生きていけばいい。
今日で定年でよかった。
拍手が起きる。
「長い間お疲れさまでした!」
その声を聞きながら、幸雄は小さく頭を下げた。
終




