第六章「おかあさま」
ヒュッと息の詰まるような音がしんとした室内に響いた。
どうして、と小さく震える声をようやく絞り出した由仁の視線の先、縋るように頼った叔母はバツが悪そうに視線を逸らし、その隣には激昂した父と、相変わらず無感情な母の顔が見えた。
おばさんの、嘘つき────
「母さんには言わないで」
そうお願いしたのに、約束したのに。
美園は由仁の母である自分の姉に連絡をした。
由仁の父である、栗沢栄は憤怒に顔を染め、家主である美園に断ることも無く玄関からズカズカと家に上がり込んで由仁に近寄る。由仁は咄嗟に「叩かれる」と目を瞑り頭を庇うような仕草をするも、衝撃と痛みは頭や顔では無く腹部に響いた。
与えられた衝撃からほんの僅か遅れて鈍痛に由仁は呻き、腹部を押さえて蹲る。それでも動じることも無く、由仁の母、由良は相変わらず無感情に由仁を遠巻きに見下ろしていた。
思っていた展開と異なる、と慌てたのは叔母である美園であった。玄関先で姉と義兄を出迎え、一言二言会話を交わしたところで目覚めたらしい由仁が顔を出し、青ざめ、義兄が上がり込んで由仁の腹を殴りつけるまで僅か数分のこと。
美園は由仁を庇うように抱き締め、栄を怯えた顔で見上げる。
「に、義兄さん!!何するの!?由仁は身重なんだよ、さすがに腹を殴るのは────」
「うるせぇ!」
「……ッわ、わかる、わかるけど義兄さん…!由仁が学生でこんなお腹大きくして、怒るのもわかるけど、けどさすがに…!」
見た事のない義兄の剣幕。こんな状態なのに感情の無い姉の顔も見たことがない。助けを求めるように、美園は由良に目を向けると、首元をマフラーで隠してはいたが隙間から鬱血した痕が見えぞっとする。その鬱血痕はどう見ても、指の痕。よくよく見てみると、丁寧に化粧で隠されてはいるも、あの綺麗だった姉の顔には所々痣が見て取れ、コートの袖から僅かに覗く手首にも痛々しい傷や痣が見て取れた。
尋常ではない程に怯えて肩を震わせ、痛みに喘ぐように小さく呻いた以来泣くことも叫ぶことも痛みを訴えることもない由仁と、姉の明らかに暴力を振るわれた痕跡、人でも殺すのではと思わんばかりの異常な目をした義兄。
この違和感だらけの姉夫婦一家に、美園は「間違えた」と察した。
由仁の味方をしてやりたかった自分と、由仁を不幸にしたかった自分。しかし、実際に願った不幸の形よりも数倍以上に大きかった結果に、美園は今更ながら姉に連絡した事を後悔した。
この一家はいつからこうだったのだろうか、由仁が親を頼らなかった本当の理由はなんだったのだろうか、頭のいい由仁が、一時の感情や快楽で孕み、ここまで腹が膨らむまで病院にまで行かなかったのは、一体何故なのだろうか。どうして、由仁が自分を尋ねてきたのだろうか。なぜ、由仁の話しを聞いてやらなかったのだろうか。
なぜ自分の娘と顔も見たことが無い産まれたばかりの小さな孫が殴り殺され、どうして自分と違って金に苦労する事もなく大きな家で姉は団欒を手に入れ、なんであの可愛かった姪を憎むようになったのか、どうして、なんで、なぜ────
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美園は呆然と、玄関で座り込み、ぴったりと閉ざされた扉を見つめていた。
あれから由仁は、栄に髪を鷲掴みにされ文字通り狭い廊下を引き摺られ、由良もその後を追いかけるようについぞ一言も発すること無く立ち去った。一瞬、何かを訴えるような眼差しと何も出来ずにただ得体の知れない恐怖に押し黙った美園の視線が絡み合うも、まるで言葉を交わす事を拒絶するごとく、隔てるように玄関扉が静かに閉められた。
ややあって、美園の携帯がけたたましくメロディーラインのみの着メロを奏で、肩がびくりと震える。その着信は美園の職場からのもので、やっと「仕事行かなきゃ」と意識が現実に戻る。電話に出なければ。そうは思っても身体が石のように動かない。そうこうしている間に電話は切れた様子で、再度静寂に包まれる。冷えた玄関の空気が全身に寒さを伝え、それを訴えるように身体が震えたところで美園はようやく立ち上がる。ポケットに入れていた携帯電話を開くと、表示された不在着信の文字。そのままリダイヤルを押し、応答した社員に「今日は休む」と伝えたところ、「そうですね、声が震えてる。熱あります?上がってる途中なのかな、寒気は?」と色々聞かれた気がするが、なんとかその場をやり過ごして通話を終える。玄関先のサンダルを引っ掛け、ドアを開く。降ったばかりのふわふわの雪は、美園の自宅玄関前だけ酷く踏み荒らされていた。タイヤの跡と、三人分の足跡。うち一つは先ほどの光景に重なるように、引きづられた痕跡を残していた。
「由仁……ごめん、ごめんね…」
美園は、かつて何もしてやらずに死なせてしまった娘と姪を重ね、その場に蹲って静かに涙を流した。
こうしたかった訳では、もちろんない。ただ、こうなって欲しかったのもまた美園の中では事実であった。
美園は家の中に戻り、簡素な仏壇に飾られたまだ自分に笑顔を向けてくれていた頃の、少し幼い娘の写真を眺める。娘が好きだったりんごを添え、手を合わせてから引き出しを開け少し褪せたて皺になった新聞を取り出す。新聞には、義理の息子とすら呼びたくもない、厳密に籍は入れていなかったらしい娘と産まれたばかりの孫を殺した男の所業と逮捕の旨が記された記事。何度見ても忌まわしい。美園は何度目かわからないドス黒い感情を思い出し、新聞を何度目かわからない様子でぐしゃりと忌々しげに握りしめる。
娘の為に用意した仏壇は、金のない美園にとっての精一杯のもの。簡素ではあるが、この家で一番日当たりのいいところにあった。
その前に佇む美園には、影がかかっている。
自分の影で暗がりになっている手元の携帯電話を操作し、美園は姉の由良の携帯に電話をかける。ほんの数時間前には通じて会話を交わすことができた姉の携帯は、機械的な音声で姉には通じないことを告げた。
────お客様のおかけになった番号は、ご都合によりお繋ぎできません
おそらく着信拒否か、思わず眉を寄せた美園は同じように由仁の携帯に電話を掛けてみるが、こちらは「現在使われておりません」のガイダンスが流れた。由仁の場合はおそらくここに来る前に解約でもしたのだろう。義兄である栄の番号も知ってはいたが、掛ける勇気も度胸もなく、そもそも由良の携帯のことと先ほどのことを考えればこちらから掛けたところで出ないだろう。
警察、とも思ったが、義兄の職業を考えると恐らく警察では機能しないだろう。
自分に何ができるか、いや────何もできない、なぜなら美園は由仁を、見殺しにしたも同然だったから。
それから数日して、美園の携帯が簡素な着メロを奏でた。サブディスプレイに表示されたのは、公衆電話の文字。普段であれば出ないが、美園はその電話に反射的に出た。
「…もしもし」
「……美園、ごめんね」
その一言で、姉からの電話だと確信し無意識に携帯を持ち直した。
「姉さん、大丈夫なの!?」
「…あまり長くは喋れない、ごめんね。…由仁、赤ちゃん産んだよ」
とても妊婦にするものとは思えない義兄の所業を思い出し、姉のその言葉で僅かばかりホッとする。それを悟ってか由良も端的に「ちゃんと由仁も赤ちゃんも無事」と伝えられ、ようやく安堵のため息を漏らした。
「…姉さんは大丈…、」
大丈夫なのか、と問おうとしたところで、被せるように由良が要件を捲し立てる。
「由仁が、赤ちゃん産んだばかりなのにいなくなったの、赤ちゃん連れて…そっちに行ってない、ってことだよね。来てもこっちには電話しないで貰えるかな」
殺されちゃう、それだけ言って、小銭の落ちるような音と終話時間を告げるブザー音が鳴って電話は切れた。
ツーツーと無機質な音だけが聞こえる。
美園はもう応答がないのを分かりきった電話を、切ることができずにいた。
それが姉である、栗沢由良と交わした最期の言葉となった。
半年後、由良は木箱に入った由仁の臍の緒を懐に入れ、橋から飛び降りて自死したらしい。
葬式も何もかも終わってから、由良はそれを知って酷く絶望したのを覚えている。