最終章「懸想の影」
読了、ありがとうございました。
ここまでのお付き合い感謝いたします。
意味は特にないが、人差し指が卓上のカレンダーの日付を一日ずつなぞっていく。止まったところは、本日の日付。移動に要する時間は凡そ20分。予約の時間は、今から丁度1時間半後。
ゆりは小さなポシェットにハンカチとリップクリーム、桃味の飴玉を2つ、財布に診察券が入っていることを確認して入れる。パチン、とマグネット式の留め具をかけてから、クローゼットを開けて白のレース素材のワンピースに着替え、機嫌良く鏡の前で髪を梳かす。
———わたしの顔は、可愛いらしい。おかあさんに似ていると、自分でも思う。だからきっと「愛してもらえる」。
ゆりはポシェットを斜めに掛け、「せっかく途中まで気分良かったのに」と吐き出した吐息が、ほんの少し短く感情を纏ったものになった。
「あら、もう出かけるの?今から行ったら少し待っちゃうんじゃない?」
「……ううん、平気」
妙に突き放すような空気を孕んだ言い方に、母は小さく首を傾げた。
「今日暑いし、ママ一緒に行きましょうか」
「大丈夫、一人で行けるよ」
靴を履いて振り返ったゆりは、いつものようににこりと笑みを向けていた。言い様のない違和感を覚えつつも、有無を言わせない雰囲気に母は無理矢理納得するしかなく小さく頷いた。
「…そう、気を付けてね。何かあったら電話してちょうだい」
「うん、ママありがとう。行ってきます」
ほら、いつも通り。
ゆりは少しだけ機嫌が戻った様子で、足取り軽くまるでスキップでもしそうな雰囲気で駅を目指した。まだ二回目ながらも「いつも通り」のルートで駅に向かい、電車に揺られ4駅先の総合病院へ到着する。
前回の診察終わり、なんで寄らなかったんだろうと期待感に胸を膨らませて再診の受付だけ済ますと、一目散に中庭を目指した。
先週来た時とはほんの少しだけ咲いている花が異なる印象だったが、花というのは時期や旬があるものなので前回咲いていたが枯れたものだったり、新しく咲いたものがあるのだろう。ゆりはしゃがんで花壇の花々に目を向け、時折飛んでくる蝶を眺め、青々と繁る草や葉に愛おしさを覚える。指先で花びらに残る雫に触れると、なんだか探し物が見つけられそうな予感にゆりは妙に高揚する。
———何を探すの?
見つけられそうな気がしたのに、何を探すのかわからなくて途端にゆりの内側が沸騰したように感じた。
無意識かつ反射的に花に伸びていたゆりの指先は、簡単に咲いていた花を手折っていた。
実に呆気ない。
ゆりは時計を見て予約の時間だと立ち上がる。
二回目であったため、ゆりは迷うことなく中待合室へ進んだ。ポシェットにしまった番号札を確認すると、丁度タイミング良く自分の番号が表示される。羽でも生えているかのように軽く立ち上がると、第二関節で軽く扉を三回叩く。想定通り、中から「どうぞ」と優しそうな声が聞こえると、ゆりはにっこりと微笑みながら引き戸を開いた。
「こんにちは」
「…、やあ、こんにちは。調子、良さそうだね?」
入室したゆりを見て医師は椅子を指しながら、どこか言葉を探したような微妙な間を作った。
「元気ですよー、この前も少し遠くまで散歩したり、ごはんは…まだたくさんは食べられないですけど、それでも入院してた頃よりはいっぱい食べてます」
「そうなんだね、体調はどうかな?眠れないとか、そういうのはない?」
「はい、とっても順調です。夜もきちんと眠れるし、朝も決まった時間に起きれてます。両親も元気になって喜んでくれてます」
ゆりの模範解答に、医師はカルテに目を移して思わず目を細めた。
違和感がある。だが、どこに引っかかっているのかが掴めない。
モニターの電子カルテを操作し、紹介状のPDFを開く。
『日常生活は問題ないが、時折、感情の欠落や倫理観のズレが見られる。注意深く観察されたし』
——これか。
医師は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
ゆりの貼り付けた笑顔に医師は安心させるためか、柔和に笑い返した。
「まだ君と話すのは二回目だから今日はちょっと雑談をしよう。君のことを教えて欲しいな。そうだなぁ、何か欲しいものとか、好きなものはある?」
「欲しいもの、は…」
ゆりの視線がわずかに揺れる。しかしすぐに笑顔の記号を作ると、「探し途中です」と答えた。
医師は一瞬、言葉を探した。
ほんの僅かな空白を持たせてから、そうなんだ、と一瞬迷いながらも優しい声音で返す。
「どんなの探してるの?女の子だからお化粧品とか、アクセサリーとか?」
「あはは」
からからと機嫌良く笑うゆりに、医師は理由のわからない居心地の悪さを覚えた。
「そんなものじゃないです」
「…そ、か。じゃあ何探してるのかはもう少し仲良くなったら教えてねー、先生はさ、娘が最近指輪を無くしたーって言ってて毎日一緒に大捜索だよ。まあ、お祭りの出店で買ってやったおもちゃなんだけどね。娘なりに大事にしてくれてたらしくて、無くしたってなって大泣きしちゃってさ」
「そうなんですね、早く見つかるといいですね」
「ほんとだよねぇ、どこで無くしたかもわかんないから指輪なんて小さいの探すの大変でさ」
「見つけたら、次は絶対に離さないように、無くさないように、壊してもいいからきちんと捕まえておかないとですね」
「え」
「あ、ごめんなさい変なこと言いましたね」
「ううん、そんなことないよ、とりあえず先生は娘の指輪を次会えるまでに見つけられたらいいなー、ははは。じゃあ次の外来は…」
かち、とマウスをクリックする音と共に、モニターの電子カルテは閉じられた。
違和感までは閉じきれず、ゆりの退室した後の真っ白な引き戸を見つめた。
「失礼しまーす、あ、起きてた!今日は検査とかないし、一緒にお散歩行きましょ」
「…散歩?」
「そ、散歩〜!天気いいぞ〜!」
看護師がそう言うから、行くか。旭はそう判断して椅子から立ち上がる。
以前、中庭で今までとは違った反応があった事から、旭の状況が良くなるだろうかとここ数日積極的に散歩と称して看護師は誘い出した。ある時は売店、ある時は図書コーナー、またある時は併設のカフェ。ただし、どこへ連れ出しても、「あの時」のような反応は返って来なかった。ただ、「看護師が言うからそうした」と言うような言動しか見られない。
聞けば答えるし、お願いすれば動く。ただし食事は食べたフリをして吐いて、栄養剤の点滴は油断すると自己抜去した。仕方がないので、夜間は睡眠導入剤と睡眠薬を投与し、就寝中に点滴を行うという処置が、親権者の同意のもとで実施された。
「今日は天気もいいし、中庭でも行きますか!車椅子、いる?」
「いや、歩ける」
「そかそか、じゃあ行くぞ〜」
妙に明るい看護師と旭の温度差が著しい。旭自身も、意識の外側で「気を使わせているな」と言う自覚はあるが、だからと言ってどうすればいいのかわからない。
無機質にしんとした廊下に、看護師のハイテンションな声が控えめに響く。一応は、周囲に気を配っているらしい。
「今日仕事終わり合コンで〜」なんて他愛もない話を旭を退屈させないように交えながら、エレベーターに乗り込み1階へと降りていく。
1階に降り立ってエレベーターを降りると、外来や検査室、受付などがある関係か、今までと異なり急にざわざわと騒々しくなった。無意識に顔を歪めた旭だったが、看護師は「ほらほら」と廊下へと促した。
一歩、また一歩と、病棟から中庭へ続くガラス扉へ近付くにつれて、旭は言いようのない不安感に包まれる。
行くべきではない、そう頭の中で警鐘を鳴らしていたが、なぜそう思うかの理由が明確にならない。
守らないと、何を?
探さないと、何を?
だけど、「行きたくない」とは訴えられなかったし、言いたくなかった。
きい、と軽い音と共に外の風と温度が室内に流れ込む。
出てみると、意外となんてことない景色に、旭は無意識に安堵する。
看護師に誘われるままに、庭をゆっくりと一周する。特に何か琴線に触れるものはない。しきりに話しかけてくる看護師に当たり障りなく返答しながら近くのベンチに腰を下ろす。
外に出たのは、一週間ぶりくらいかもしれない。
旭は深呼吸するようにゆっくりと息を吸い込んだ。
抜け落ちた何かが、香りと共に満ちるような感覚に、鼻の奥をくすぐる独特の香りに目を瞑った。
「…ちょっと、すんません」
「うん?」
旭は不意に立ち上がると、花壇に近寄りしゃがみ込んだ。先週教えてもらった百合の花が咲いた一角で、「さっきの匂いはこの匂いか」と納得したところで、無惨にも手折られた一輪の百合に目が止まり、反射的に右手が伸びた。
外来診療を終えると、ゆりは上手にできた満足感に満ちた様子で機嫌良く受付へ向かった。ポシェットから取り出した飴玉を頬張り、会計を終える。
目的が済んだゆりはそのまま踵を返し、中庭を目指した。
———絶対に、見つけなきゃ。絶対探さなきゃ。
根拠はないが、探し物が見つけられそうな予感に胸が弾む。
先程も訪れた中庭では、同じように花々が咲き乱れている。
周囲を見回すも、特に何かの目新しさはない。急に何を探そうとしていたのかわからず、無性にイライラする。
なんで見つからないの。なんでいないの。なんで一人にしたの。なんで、どうして、なんで、なんでなんでなんでなんで!
苛立ちに任せて、ゆりは口の中の飴玉を噛み砕く。がり、と口の中に破砕音が静かに響く。
旭が、折れた百合を一輪右手で大切そうに持ちゆっくり立ち上がる。
ゆりの視界の端の端、視野のギリギリのところに旭が紛れ込んだ。その瞬間、ゆりは何か雷に打たれたような胸の高鳴りを感じた。
初夏ではあったが、ゆりの心に一斉の春が訪れる。蕾だった感情が、音を立てて花開く。頬を撫でる風までもが、甘い綿菓子のようにふんわりと纏う。
息もするのも忘れるとは、このことかもしれない。
今まで感じた不穏な心臓の跳ね方にも似ているけれど、拍動と共に流れるのは甘い甘いソーダ水のようで、ゆりは身体の内側がしゅわしゅわと満ちていくのを感じる。
花や草が纏う水滴も、まるで星のかけらか宝石を散りばめたように輝いている。
世界で一番、幸せな魔法をかけられた瞬間だった。
ゆりはそのままふわりと一歩足を向けた。
———ああ、やっとだ。やっとわたしを愛してくれる。ずっと待ってたんだから。
一歩、更に歩を進め、完全に「視認」した。
その瞬間、ゆりは嬉しそうに、幸せそうに表情を蕩けさせた。
ゆりの幸せに惹かれるように、陽に照らされた足元の影がじわりと濃くなった。
もう、逃さない。どこへも行かせない。だって約束したじゃない。旭くん。これからはゆりのこと、ちゃんと愛してくれないと、どこへも行けないように壊してやるんだから。ね?
「みぃつけた」
〜完〜




