第五章「しんしん」
冷静になって考えると、汚い。
ゆりはそう考えながら、どうしてこんなところにいれたのかと考える。
ゴミは散乱し、糞尿も吐瀉物も、なんの虫かわからない死骸も、謎のシミも、腐敗した何かも、もちろんぶら下がる異物も。
もう、「役割」は終わったはずなのに、なんでここにいるのか、ゆりは理解ができなかった。
「ねぇ、いつまでここにいるの?」
それは答えはしなかったが、ゆりは途端に興味が失せたように窓の外に目を向けた。
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晴れた冬の日。
空気は凛と澄んでいて、吐く息は白く軌跡を残して外気と混じり合って消えていく。
一歩、また一歩と歩く度に「ぎゅ、ぎゅ」と新雪を踏み締める音だけが静寂に音をなす。
しんしんと降り頻る雪が頭や肩に積もっていき、時折それを払いながら、ただただ歩いた。
逃げなくては。
とにかく、その一心で、歩いて、歩いて、歩き続けた。
寒さと、疲れと、足の痛み。腹部が重い感覚を思い出すと、何となくそれらは失せる気がした。
そうして、空港を出て、鈍行に乗って、そこからは必死に歩いてたどり着いたのは殺風景な景色に溶け込むようにぽつんと佇む一軒家。
由仁は震える手で必死に呼び鈴を鳴らす。
時刻は朝の7時前だろうか。常識的に考えてこんな早朝の来客などろくな用事でもないと、事実ろくな用事ではないものを抱えながら家主が現れるのを呼び鈴を押し続けて待った。
二重玄関になっている奥側の扉が開き、怪訝そうに眉を寄せた家主がようやく顔を出す。時間にしてほんの僅か数秒、由仁と初老の女性は見つめ合う。
「……おば、さん」
「…………由仁ちゃん?」
おばさん、と呼ばれた女性───岩見美園は、頭にも肩にも雪を積もらせ、頬も唇も冷えて血色が失せた幼い頃の面影が残る顔を見て確認するように名前を呼ぶ。そうして震える唇を結びながら、こくこくと何度も頷く由仁を見て、はっとした顔で家に招き入れる。
美園は由仁を玄関に待たせ慌てて家の中に駆け込むとすぐに両手にタオルを抱えて戻ってきた。由仁の濡れた髪や顔を拭いてやり、そうして暖房の効いた室内に招き入れて炬燵に入れてやる。朝食の途中だったのか、朝のワイドショーが能天気に流行の店を紹介する映像と音声が響き、炬燵机の上には齧りかけのトーストと湯気の立つコーヒーが大きめのマグカップに注がれていた。
由仁は暖かな空気にようやくほっと息を着いてからコートを脱いだ。
美園がコートを預かってやって何か飲むか、と声を掛けようとしたところであからさまにぎょっと目を見開く。そうして何も言わずにハンガーにつるしたコートを鴨居に掛けて干し、隣の台所に消えていく。電子レンジを操作する音が機械的に響き、由仁は悴んで赤くなっていた手を炬燵の中に突っ込んで擦り合わせた。
数分して、美園が由仁の前にことんと音を立てて湯気の立つマグカップを置くと、中には甘い匂いの漂うホットミルクが入っている。いただきます、と小さな呟きとテレビの中のアナウンサーがニュース原稿を読み上げる声と混ざり、美園はリモコンを手にして雑にテレビを消して自分もコーヒーを啜り飲んだ。
「……おいしい、あったかい」
「……由仁ちゃん、アンタ……そんな身体でどこから歩いて来たのさ、東京でしっかり大学生やってるのかと思ってたよおばさんは」
「えへへ……実家に帰れなくて。ごめんねおばさん」
まだ幼さの残るあどけない顔で由仁は笑い、霜焼けになって痒みを伴う指先を熱いカップを包むように握ることで誤魔化した。
「…………おばちゃんが、お父さんとお母さんに連絡してあげるから。……もう産まれるんでしょうそのお腹」
目に見えて明らかに膨らんでいる腹部を見て美園は眉を寄せる。まだ19になるかならないかの、大学進学で上京したばかりの少女は明らかに妊娠していた。
「相手の男は誰なんだ?大丈夫、おばちゃんは由仁ちゃんの味方してあげるから。付き合ってる人がいるの?」
由仁はぎこちなく笑顔を貼り付けて、ふるふると首を振って美園の言葉を否定する。
付き合っている相手ではないとなると、なるほど親には言えないかと美園はなんとなく納得する。それは自分にも覚えがある事で、だからこそ由仁は美園の元に来たのだろう。
「由仁ちゃん……由仁。おばちゃんもね、アンタのおじいちゃんとおばあちゃんに言えなかったよ。でも代わりにアンタのお母さんにはしこたま怒られたけどね、……由仁、今日だけおばちゃんが匿ってあげるから、明日は一緒に姉さんに会いに行こうね」
姉さん、と呼んだ相手は美園の姉。そして由仁の母。
由仁は何を思うのか、相変わらず張り付いた笑顔でいるだけで大きく膨らんだ腹をそっと撫でた。美園はその光景を見て目を細めると、遠慮がちに手を伸ばし同じように腹を撫でると、ぽこんと胎動を感じる。
「……予定日はいつ?」
「わかんない、病院に行ってないの」
その言葉に美園は泣きそうになるのを耐えてコーヒーを啜った。腹の大きさの具合から、出産はそう遠くは無さそうである。
まだ20歳前である。美園は東京からここまで自分を頼ってくれた存在を受け入れて甘やかしてやろうと、姪である由仁の身体をそっと抱き締めた。
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数時間後、由仁は美園に対し「母さんには絶対言わないで」と念押しして、美園が用意した風呂に浸かり敷かれた布団に横になって寝息を立てていた。
言わないで、との要求は後暗い相手なのか、単純に未婚で、未成年であるこの状況での妊娠が単純に親に言い難いのか。美園にはそのどちらも心当たりがあった。かつて自分が少女時代に同じように孕んだ時も、親には決して言えず、少し歳の離れた当時はまだ独身だった姉を頼ったものだった。もちろん姉には懇々と説教をされ、それでも産みたいというのならば味方になるしサポートもしてやると背中を押され、姉と共に両親に打ち明けた頃にはとうに堕胎を出来る週数を過ぎていた。親には頬を張られ、親子の縁を切るとまで言われ、姉の制止を振り切って当時付き合っていた男と駆け落ち紛いの事をしてこの地に来たものの、まだ若かった2人では障害も多く結局相手の男は美園が子供を産んで数年してからふらりと居なくなってしまった。相手の親にも当然のように可愛い一人息子を誑かしたクソ女のように思われていた為、関係は良くない。挙句そのクソ女が産んだクソ娘など、義両親にとって可愛くもなんとも無いのはまだかつての夫が隣にいた時にも十二分に美園には理解出来ていた。
なので、夫が突然いなくなっても美園は誰にも頼れず、この片田舎にてひっそりと生活をしていた。それでもたまに、少し離れた市から姉が様子を見に来ており、最低限の交流はあった。夫がいなくなる少し前に結婚した姉はまだ幼い由仁を伴ってこの町の外れの簡素な平屋の一軒家まで足を運んでいて、由仁も美園と年上の従姉妹である美園の娘にはよく懐いていた。
姉と、姉の夫によく似た、とても綺麗な人形のような顔立ちの由仁。当時は姪の由仁がとても可愛く、憎らしかった。
自分の娘にはない愛らしい顔立ち、自分の娘にはない、愛情を精一杯注いでくれる両親の存在、自分がいくら働いても、由仁が着ているような可愛らしい服も綺麗な服も娘には買ってやれない。
自分の娘も、明らかに生活水準の異なる従姉妹である由仁を幼い頃こそ甲斐甲斐しく面倒を見て可愛がっていたが、成長するにつれてやれピアノだ、やれバレエだと好きな習い事に興じる顔も声も性格すらも可愛い由仁を次第に妬ましくなった様子であった。思春期の折より自分の生活のレベルの低さも相成ってか荒れるようになり、いつしか悪い仲間と平気でつるむようになって、そうして美園と同じように若くして妊娠して家を飛び出し、数ヶ月後に産んだばかりの息子と共に相手の男に殴り殺された。
「赤ん坊の泣き声がうるせぇ、面倒を見ろとやかましい」
ただそれだけの理由で、美園の娘はたったの17歳でこの世を去った。
だから、美園は由仁が可愛くて、守れなかった娘の代わりに守ってやりたくて、そして、娘に与えられなかったものを全て持っていて憎くて憎くて仕方がなかった。
美園は由仁が深く眠っているのを確認し、二つ折りの携帯電話を開いてたった数件しか登録されていない、長らく連絡を取っていなかった自分の姉の名前を洗濯して発信ボタンを押した。
「────姉さん?美園です、久しぶり」
機械的に変換されたような音声が、携帯電話の向こうから聞こえる。聞き慣れないような、聞き慣れたような姉の声が聞こえる。
それは今から18年前の、空の大粒の柔らかな雪が降り頻る冬のとある日の出来事であった。




