第五十七章「同じ時間」
病院の待合には、決まった音がある。
空調の低い唸り声と、案内放送の残響。
雑誌をめくる音、椅子の軋む音。
それらの音は、誰かの感情を映すことはなく、ただ時間が進んでいるという事実だけを、淡々と伝えていた。
ゆりは、その音の中にいた。
外来の順番を待つため、壁際の椅子に腰掛けている。
膝の上には、診察券と、折り目のついた紹介状。
それを何度か指でなぞりながら、呼ばれるまでの時間をやり過ごしていた。
同じ時間、同じ建物の別の階で、旭もまた、待っていた。
予定された検査までのわずかな空白を、廊下の椅子で過ごしている。
何かを考えているわけではない。
ただ、そこにいる必要があったから、そうしているだけだった。
———外来患者様へご案内いたします。受付番号、3233番から3238番までの患者様は、中待合室にてお待ちください。繰り返し、ご案内いたします……
ゆりの手元にある番号札には、3235と記されていた。
アナウンスを聞いて立ち上がり、中待合室を探しながら廊下へ向かう。天井からぶら下がる案内表示を見つけると、ゆりはそこを目指して進んだ。
「お待たせしました、海道さんどうぞ」
名前を呼ばれ、旭は廊下の椅子から立ち上がる。
それは、呼ばれたからそうしただけの動作だった。
促されるままに旭が検査室に入っていくと、その背中はすぐに扉の向こうへ消えた。その少し前、ゆりの視界の端に、人の動きがあった。白い廊下の中で、特別な意味を持たない景色の一部として、ただ通り過ぎただけだった。
けれど、数拍遅れて、足が止まる。既視感とも違和感ともつかない、名前のつかない感触が、遅れて胸の奥に引っかかった。
何かを思い出しかけた気もしたが、その輪郭は掴めないまま、すぐに水の中に滲んで消えた。
その引っ掛かりの正体がわからず、ちょこんと首を傾げるとそのまま近くの椅子に座った。
呼ばれるまではもう少しかかるだろうかと、トートバッグから教科書を取り出す。休学中の大学への復学に向けて、自習のつもりで文字を追いかけた。けれど、拭えない引っかかりのようなものが残り、集中できないまま教科書を閉じてしまった。
ページを閉じる音は、周囲の物音にすぐ紛れた。
空調の唸りも、誰かの咳払いも、等しく意味を持たない。
それでも、胸の奥に残った感触だけが、うまく馴染まなかった。
ぼんやりと正面の診察室の扉を眺めていると、ドアが開いて中年の女性が「ありがとうございました」と頭を下げて退室して行った。受付前に続く廊下へと消えていく背中を視界の端の方で捉えていると、診察室前のモニターにゆりの手元にあるものと同じ番号が表示される。自分の番が来たと、ゆりは手に持ったままの教科書をトートバッグにしまい、スカートの皺を直しながら立ち上がる。
やや緊張した面持ちでこんこんこん、と扉をノックすると、中から少しくぐもった声で「どうぞー」と優しそうな男性の声が聞こえる。
ゆりはそろそろと扉を開け、ぺこりと頭を下げてから室内へ足を踏み入れる。ゆりの身体が完全に室内に入ったところで、引き戸がゆっくりとしまっていくタイミングで検査を終えて検査室から出た旭は診察室の前を無感情に歩いていた。
病室に戻るように言われたから、言われた通りに戻るだけ。
廊下の表示灯が視界を流れていく。
それだけのはずだった。
けれど、ほんの一瞬、足が止まる。何かを見落としたような感覚が、遅れて胸の奥に触れた気がした。
ほんの一瞬、重心の置き場を失ったように立ち尽くし、廊下を行き交う音の流れだけが、旭を追い越していった。
旭は立ち止まった理由を確かめようとはせず、そのまま歩き出す。どうせ、意味のあるものではない。そう判断することさえなく、ただ病室へ戻っていく。




