第五十六章「近い場所」
朝は、いつも同じ音で始まる。
ドアの開く音。廊下を転がるカートの音。
旭は、名前を呼ばれる前に目を覚ましている。
ここに移ってから、彼は意識して触れない記憶があった。
出来事ではない。人の輪郭だけが、そこにある。
誰だったのかは思い出せない。思い出せない状態を保っているほうが、日々は静かに過ぎていく。旭は、そのことを知っていた。
だからそれでいいと楽観視して、出された食事を機械的に体内に取り込む。眠る時は処方された薬を、言われるままに飲んだ。
意に反して、意識は深淵に沈んだ。
そうして、意識が覚醒してしばらくすると朝を知らせる声かけと共に名前を呼ばれ、また機械的に食事を口に押し込んだ。
日常生活は、何ら問題はない。
記憶齟齬もない。たまに親が見舞いに来ると、当たり障りのない対話をすることも出来るし、歩行も運動機能も何も問題は無い。
何を忘れたのか、自分でもわからない状態で旭はただ生かされていた。
「海道さん、失礼します……あ、ご家族様もいらっしゃったんですね」
旭の主治医の女医が、看護師と共に回診にやって来た。いつものように会話を重ねるようなやり取りで何が図れるのか、旭には理解ができないまま、聞かれたことには無感情に返答していた。
最後ににっこりと笑いかけながら、「じゃあ、また明日」と立ち上がる医師は、看護師に目配せをする。視線で指示を受け取った看護師は、小さく頷いた。
「ご家族様、いま少しだけお時間よろしいでしょうか」
面会の時間が終わったわけではない。
それでも、そう言われた理由を、旭は考えなかった。
何となく不穏なものを感じた家族は、「じゃあ旭また来るね」と言い残して、差し入れをいくつか置いて看護師について行った。
一人になった室内は、先日までいた病院よりもずっと静かで、まるで世界から切り離されたかのようだった。
「今のところ、生活の動き自体は大きな問題はありません。食事も、こちらで用意すればきちんと摂れていますし、会話も成立しています」
カンファレンス室に通され、医師と向かい合った状態で告げられた言葉に旭の母親は安心したように息を漏らす。
「ただ……感情の動きが、全体的にかなり平坦なんです」
安堵した刹那、上げて落とされたような心持ちに表情が強張った。返答も出来ない状態なのを確認した上で、医師は下手に隠したりぼかすよりは現状をしっかり伝えた方がいいだろうかと小さく咳払いをしてから机の上で指先を組んだ。
「こちらから何かを尋ねたときの反応はあります。でも、ご本人にとって意味のあるはずの話題になると、反応が薄くなることが多くて…思い出せない、というよりは、そもそも引っかかっていないような印象ですね」
「意味の…ある、話題……ですか」
少し考えるような素振りを見て、
家族自身も、旭に対して抱いていた「違和感」を否定できなくなっていた。
「ご家族から見ても、どこか“遠い”感じがしませんか?話は通じるのに、大事なところが共有できていないような……」
医師の話を聞いた母親は、無言で視線を少しだけ外した。
思い当たる節、といえば、たまに旭がうわごとのように呟く「ゆり」という名前のように思えたが、旭はその名前について聞いても全く反応を示さない。
「はっきりした診断名を今ここでお伝えする段階ではありませんが、抑うつ状態が続いているのは確かです。それに加えて、心を守るために感情や記憶への反応を一時的に切り離している可能性も考えています」
「…はい」
短く返事をして頷いた母親は、泳がせた視線を医師へと戻した。それ以上のことは、言わずとも何となく察したようであった。
「あの、私や主人は息子とどう接すれば」
「ありがとうございます。ご家族には無理に思い出させようとするよりも、いま目の前にいる彼と淡々と関わっていただければ十分です。反応が薄くても、それは無関心とは違いますから」
その言葉を聞き、再度小さく頷いた。安心はしてはいないようだが、状況の理解はしたようだった。
「いまは、心が身を守っている時期だと考えています。安易に「大丈夫」とはもちろん言いません、ですが見守ってください」
「…わかりました、息子をよろしくお願いいたします」
最後に深々と頭を下げ、帰っていく母親の後ろ姿を医師と看護師は共に見守っていた。
その病院に、ゆりが通うことになるのは、もう少し後のことだった。
「いまの状態なら入院は必要ありませんが、念のため、しばらく外来で経過を見ましょう」
個室から大部屋へ移り、リハビリも順調。
回診に来た医師からそう告げられ、ゆりは単純に、退屈で「何か足りない」この場所から抜け出せることが嬉しくて、顔が綻んだ。
「わ、よかったー!退屈だったんだもん」
「ははは、そんなに元気になって安心だよ。じゃあ、外来についての話を詰めていこうか」
ゆりは外来についての説明を受けるため、医師と共に別室へと移動した。
外来についての説明は淡々としていた。週に一度、もしくは二度。診察と、必要に応じた検査。
「通院先なんだけど、今住んでいる場所は?」「……いまは、仮で。退院したら探す予定です」
医師は「そっかー」と、一瞬だけ考えるような間を置いてから、資料の一部を指で示した。
「それなら、ここが通いやすいかもしれない。系列病院で、外来も落ち着いているしね」
示された病院名を見て、ゆりは特別な感情を抱かなかった。近い。それだけの理由だった。
「……じゃあ、そこにします」
そう答えた自分の声が、ほんの少しだけ遅れて耳に届いたことに、ゆり自身は気づいていなかった。
その後は順調に退院へ向けて手続きをし、「茅部」の両親が迎えに来てくれた。荷物を持ち、迎えの車に積み込む。
母となった女性と共に後部座席に乗り込むと、運転席に座る父となった男性とルームミラー越しに目が合った。
「パパ、ママ、心配かけてごめんなさい」
茅部の両親のことは、あえて「パパ、ママ」と呼んでいた。
「おかあさん」と呼ぶ人は、ゆりにとって一人しかいなかった。
隣に座った母は「ほんとよー、びっくりしたんだから」とゆりに不安感を与えないように柔らかく微笑んだ。
由仁とは違う、母の姿にゆりははにかんだように笑いかける。
「少しして落ち着いたら、前話した通りに悠理ちゃんの大学の復学の手続きもして…新しく住むおうちも一緒に探しましょうね」
見放された訳ではなく、最大限ゆりに寄り添った言葉であった。
入院中に両親には「帰っておいで」と打診はされていたが、ゆりはそれを断った。本当の家族では無いから、ゆりの気持ちの逃げ場がなくなりそうだったからだ。両親もゆりのその気持ちは充分すぎるほどに理解していたので、「身体が落ち着くまでは実家に帰ること」という条件でゆりの願いを承諾した。
——早く、「元気」にならないと。
ゆりはそう心に決めながら、流れる車窓の景色を、感情の置き場が分からないまま眺めていた。無感情に眺めていた。




