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【完結済】懸想の影  作者: 梦月みい


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第五十五章「いない」

「命綱」が外れた腕が軽い。

なんで生きているのかはわからないけれど、「何かを探さなきゃいけない」ことは無意識に理解している旭は、逃げるために生きるフリをすることに徹底した。

口にした食事は、回診が終わったあとに我慢できず吐いていた。食べている、と見せかけるためだけに嚥下したそれは、旭の中に留まる理由を持たなかった。

吐けば楽になるわけでもない。ただ、点滴に戻されないため。管に繋がれないため。それだけの理由で、旭は食べているふりを続けた。

うまくやれているつもりだった。そう思っていたのは、きっと自分だけだった。

だけどそうまでして「生きているフリ」をしている、理由が旭にはすでにわからなくなっていた。

「…俺、何『探して』たんだっけ」

寝たフリをして、食べたフリをして、生きているフリをして過ごす時間。


無理矢理朝食を口に押し込み、胃の中に一時的に押し込む。

数十分後にいつもの主治医と看護師が回診に来ると、医師がまだ下げていない、空になった食器の乗ったトレーを確認した。

「うん、全部「食べて」ますね。はい、胸の音聞きますね……うんうん、はい、口開けてね。喉見るよ」

形式的な「診察」をしてから、医師は旭の担当看護師に目を向ける。医師と目が合った看護師は小さく頷くと、聴診器を耳から外した医師が近くの椅子に静かに腰を落とした。

「海道さん、今少しお話しいいですか。今後の治療方針についてなんだけどね」

初老の医師は、顎の整えられた髭を軽く撫で付けながら話の切り出し方を考えているようだった。旭は「さっさと吐き出したい」のを耐えながら、力無く顔を上げた。

「…あー、退院っすか」

「身体の方は順調に回復しているね。でもね、食事……摂れてないよね」

ぎくりと旭の肩が跳ねる。ばつが悪そうに視線を泳がせると、看護師とばっちり視線が絡んでしまった。旭を見つめる看護師の視線は厳しくも優しいもので、覚悟を決めて医師に目線を戻した。

「睡眠も取れていないようだし、気分の波も僕たちは懸念しているんだ。何より、きちんと食事が摂れていないのは、医師としては退院なんて認めてあげられないよ。だからもう少しだけ、治療の『場所』も含めて違う方向からの治療に切り替えてみようか」

「違う、治療」

無意識に、逃げ道を塞がれているかのような不穏さに旭は咄嗟に看護師を見た。

「そう。ここは身体の治療が中心の病棟だからね。でも今の海道さんには、身体よりも――もう少し丁寧に“気持ち”を診る必要があると思ってる」

旭の視線に気付きながらも、医師の言葉に看護師は何も挟まなかった。

それが、旭には一番はっきりした答えに思えた。

「転院を考えています」

「え?」

「精神科のある病院だよ。環境を変えて、専門の先生に診てもらおう」

「せい、しん…か」

「自傷の兆候があるわけじゃない。

でもね、“生きる意欲が著しく低下している”状態は、放置できないんだ。今日中に、具体的な話が進むと思ってほしい」

眠ることを無意識に拒絶していたことも、意図的に食事を摂ったフリをしていたことも、自分が何かをなくしてしまったことも、生きていたいという気持ちを手放したことも、全て見透かされていた。

ただ、旭自身も死にたいわけではなかった。だけど、何の為に生きていたいのかも、全くわからなくなっていた。

大切な、何かを忘れている気がする。大事な何かから、手を離してしまった気がする。それが何かわからなくて、思い出したくて、思い出せなくて、———そうして思い出す努力を止め、“考えないこと”が一番楽と気付いてからはそっと蓋を閉じてしまった。


「これは、君を守るための判断だよ」

「怖いよね。でも、ちゃんと一緒に行くから」

「……わかりました」

そう答えた自分の声が、やけに他人事に聞こえた。



「ふんふんふーん」

窓辺で外気を浴びながら、機嫌よく鼻歌を口遊む。

「ご飯、食べられた?……7割か、大分食べれるようになったね茅部さん」

食事を下げに来た看護師が、いつものように食事量を確認し、ここ数日安定して食べられるようになってきたゆりの様子を確認して安心したように声をかけた。

栄養の点滴、外してもいいか先生に確認してみるね、と看護師が告げるのを確認し、ゆりは嬉しそうに無垢な笑みを浮かべた。

数時間後には今までゆりを繋いでいた点滴はすっかり外され、ようやく身軽になったゆりは売店へ向かおうと廊下を歩いていた。

「ん?あれ、ここ」

ゆりはとある病室の前で、その歩みが止まった。少しだけ周囲を見回してから、そっと部屋の扉を開けると、中には空っぽの空間が広がっていた。

懐かしいような残り香に誘われ、一歩中へと踏み出す。

「茅部さん?どうしたのこんなところで」

「…ううん、ここ、知ってる人いたような気がして」

巡回していた看護師に声をかけられたゆりは室内の綺麗に整えられた無人のベッドを眺めた。

「…旭…くん…?」

「あら、知り合いだったの?」

「もう、ここにいないの?このひと」

口から出た「旭くん」がよくわからなかったが、しばらく昏睡していた影響か記憶が乱れていると医師から言われていたゆりは、「きっと忘れていて思い出せないパーツのひとつ」くらいにこの時は思っていた。

「数日前に転院されたのよ。ここより、もう少し気持ちの方を専門的に診られる病院へ」

そう聞かされた瞬間、ゆりは言いようのない喪失感を覚えた。

なぜ、「知らないひと」がいなくなっただけで、こんなにも胸が空いてしまったのか、今のゆりにはわからない。ただ、「置いて行かれた」ような気がして、ぽろっと涙が溢れ、空っぽの病室の床に落ちた。

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