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【完結済】懸想の影  作者: 梦月みい


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第五十四章「空白」

「誰?」


その言葉が落ちた瞬間、旭の中で何かがずれた。音が遠のき、代わりに、耳鳴りだけがやけに大きくなる。

誰、というただの二文字の問いかけだったが、旭にはそれが問いだと理解することすらできなかった。


ほんの一瞬の出来事だったはずなのに、体の感覚だけが、遅れて戻ってくる。


「えっと、あの、大丈夫ですか?……誰か、呼んできたほうがいい?」

「………いや、…大丈夫。…大丈夫だから」


半端に開けたペットボトルが床に転がり、中身が溢れた。たまたま廊下を歩いてきた看護師が、旭とゆりを見てギョッとした顔で近寄り旭に声をかけた。

「海道さん、部屋に戻りますよ。茅部さんも、まだ本調子じゃないんだから」

「はぁい、…でも、このひと」


ゆりの「このひと」という言葉に耐えられず、旭は立ち上がり小走りで病室に戻った。

数分遅れて追いかけてきた看護師が、入口に立ち竦んでいた旭を半ば誘導するようにベッドへ向かわせた。

言葉を選ぶように、僅かに視線を泳がせているのが旭にもわかった。


「海道さ、」

「大丈夫です」


看護師の言葉を遮る。

そのやりとりをしているうちに朝食の時間になったらしく、看護助手が食事を配膳に来た。見た目はそれなりに整った旭と話せると普段は何かしらか雑談を持ち掛けてくる職員だったが、室内の重苦しい雰囲気を感じたらしくこの時に限っては「こちらに置きますね」と声をかけるとそそくさと病室を出て行った。

「……何かあったら、ナースコール押してくださいね」

「わかってます。大丈夫」

個室に一人残されると、扉一枚向こう側の気配が、まるで別の世界のもののように遠ざかる。


しんとした無音が、耳の奥に突き刺さった。


いつも以上に震える手が、箸を持つことを拒む。

朝食は、おにぎりと味噌汁と副菜が数品。箸が持てないなら、とおにぎりを手にする。

じんわりと温かなおにぎりを、一口齧ろうと口を開いた旭だったが、ほんの一齧りだけして嘔吐感にそのまま皿に置き戻してしまった。

心臓の鼓動が、覚えのある嫌な拍動を刻んでいるのがまるで他人事のように感じ取れる。

もう、食べられない。

僅かに米粒をほんの少しだけ齧っただけの朝食を終えると、旭は無感情にベッドに転がる。

数十分後に食事を下げに来た先ほどの看護師が、摂取量を確認する。

「…もう少し、残しておきます?」

「いや…下げていいです」

摂取不良、と記録した看護師が朝の検温等の測定をし、妙に冷えた旭の手にそっと触れる。脈を測ると、明らかに顔色の優れない旭に目を向けた。

「…お腹空いたら、ゼリーとか出せるから声かけてくださいね」

「………だいじょうぶです…」

力無く頷く旭に、看護師はそれ以上の声をあえてかけずに食事のトレーを持って退室した。


そこから昼食、夕食と配膳されたものはほぼ食べられず、その日のうちに旭は栄養剤の点滴が処方され、また管に繋がれることになった。

強制的に「生かされている」命綱が、点滴スタンドにぶら下がる輸液パックから、旭の腕に繋がっている。

ほぼ完了していたリハビリも中断せざるを得ず、旭は管に囚われたまま気力なく窓から空を眺めていた。曇天の空は、今にも雨を落としそうに重く沈んでいるのが見える。

行動しなくても、進んでいく時間。食べなくても、死ねない状態。

「…死んでるみてぇ」

旭は何を探して、何を見つけなくてはいけないのか、全くわからなくなっていた。


同じように、別の病室でもゆりの細腕に点滴の管が繋がっていた。

内出血で腕にはいくつか痣が出来ており、看護師は処置のためにトレーをベッド脇に置いた。

「はい、点滴の針刺し直しますね」

「えーまたぁ?」

「ご飯、もう少し食べられるようになったら点滴から栄養入れなくても良くなるわよ」

「…もも」

「ん?」

「桃なら、食べたい。食べれる」

「そう、わかったわ。生の果物は院内食で出すの難しいから、ゼリーとかで桃のがあるか確認してみるわね」

「うん!」

子供のように屈託なく笑うゆりを見て、看護師は少し安心したように微笑み返す。

元々食が細く、満足に食事を取れないゆりの為点滴用のルートを確保し、看護師は医師や栄養士へ相談するために処置を終えて退室して行った。

その日の食事で桃のコンポートがデザートとして配膳され、食事はほどほどにゆりは嬉々として桃にフォークを刺す。一口に切り分け、口に運ぶ。

果汁と甘さが口に広がり、ゆりは自然と懐かしさに頬が緩んだ。


「…あら、半分くらいは食べられたわね。よかったわ」

食事を下げに来た看護師が、ゆりの食事摂取量を確認し安堵したように声をかけた。

「うん、桃おいしかったよ、」

———旭くん、とゆりの喉元から出かかる。しかしその名前は口から出ることは無く、言いようのない「違和感」にゆりは首を傾げた。

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