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【完結済】懸想の影  作者: 梦月みい


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第五十二章「再拍」

雑然とした室内に、ほう、と、安堵の息が漏れる。

「……私、は…可愛い…? 綺麗……?」「うん、僕にとっては何よりも誰よりも可愛くて美しいよ」


由仁は、胸の奥に絡みついていた何かが、ほどけていくのを感じた。何年か振りの落ち着いた呼吸で、肩から力が抜ける。


まだ、誰かは私を愛してくれる。私は、可愛い。美しい。


一方的に身体を抱き締める千歳の背中に、ようやく由仁の腕が回る。子供のようにしがみつかれたその瞬間、ぽろぽろと由仁の双眸から熱い雫が溢れ落ち、千歳の胸元に染みができる。

千歳は、その重みを拒まなかった。むしろ、抱き留める腕に、わずかに力を込める。


「大丈夫、由仁」もう壊さないから――生きていれば、それでいい。


その言葉は、甘やかで、毒のようだった。

由仁は心地よさそうに表情を緩め、やがて腕の力を抜いて身を委ねる。


「さ、あとは自分次第だよ」


千歳は荒廃した空間に目を向け、慈愛に満ちた表情で由仁の頭を撫でながら呟いた。



―――じぶん、しだい



意味を剥がされ、輪郭を失った言葉だけが、真っ白な空間へと、静かに落ちていく。まるで、何かを起動させるための信号のように。


「……わたし……」


声はあるのに、身体がない。思考はあるのに、感情が、薄い。

「わたし……どこに行くんだっけ」

何を探していたのか。どこへ向かっていたのか。それらは白に溶け、形を失っていく。


――本当は、わかっているのに。


行くべき場所も、戻るべき場所も。

それでも、ゆりは無意識にそれを拒んだ。戻ったところで、また傷つくだけだと、知っているから。


胸の奥が、どくどくと痛む。苦しくて、熱くて、息が詰まる。


『自分次第』


その声だけが、空虚な白に反響する。


「……痛い……苦しい……」


無意識に胸元を押さえ、ゆりは喘ぐ。そして、気づけばその名を呼んでいた。


「……旭くん……」


その瞬間、ただ真っ白だった空間に、ひびが入る。


ゆり、ゆり


名前を呼ばれる気がする。それは、懐かしくて、怖い音。

ぼんやりと滲む景色の向こう、真っ白な部屋で――蘇生を受ける“自分”の姿が、映り込んだ。


――あれは、わたし……?

左手を見る。さっきより、輪郭がはっきりしている。

胸が痛む。拍動に合わせるように、内側から叩かれる感覚。

それと重なるように、目の前の「わたし」が受ける、胸骨圧迫。


いやだ。苦しい。寂しい。

そう思う度、モニターの波形が、かすかに揺れる。


生きるのは、痛い。

苦しくて、愛されない。


それでも。


頭を撫でる、見えない手の感触がする。優しくて、甘くて、思わず、身を委ねそうになる。

でも、その瞬間、胸の奥が、ひどく冷えた。

だって――こんなふうに、わたしを「大丈夫」なんて言ってくれたこと、一度もなかった。

この温もりは、

愛された記憶じゃない。

愛されなかった記憶が、形を変えてまとわりついているだけだ。


「…今更、こんなふうに、甘やかさないで」


身体に纏う思念のようなものが、たじろぐような感覚を覚える。


「痛いのは嫌。お腹が空くのも嫌。おかあさんじゃなくて、女でいたかったあなたのことが嫌い」


――ゆり


「わたしには、わたしのことを愛してくれる人がいる。見つけてくれるって、約束した」


ふわりと身体が軽くなる。

生きたい、死にたくない、愛して欲しい。

そう思った瞬間、視界が一気に赤く染まる。

痛みが熱となり、どくどくと脈を打つ。喉の奥が痛い。呼吸が苦しい。耳元が、うるさい。

眩しい。


「自己心拍再開!」

「自発呼吸は!?」

「あります!血圧測って!」


「ゆ、り」


喧騒の中で、「ゆり」という名前を呼ぶ声だけが、妙にクリアに聞こえた。

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