第五十章「可愛い子」
こんこん。こんこん。
何度か、扉を叩く音が室内に響く。
インターホンは故障しており、玄関扉の横に飾りのように鎮座しているがまるで用を成していない。
あまり時間が無いな、と含むようにごくごく小さく口の中で千歳は呟く。
病室を出る際、絶望に色を無くした旭の後ろのモニターは微弱ながら拍動を刻んで、油断するとまた一本の線を無慈悲に描くのを繰り返していた。予断を許さない状況である事は間違いない。
「……由仁。いるんだろう。開けなさい」
ひとつ、ため息混じりに息を漏らしてから、千歳は室内に向けて声をかける。
相当躊躇っているのが、空気感で千歳に伝わる。
────別に叱ったりなんかしないのに。可愛い子。
そんな事を思いながら、由仁が自分からドアを開けるのを待った。時間が無いとはいえ、そこまで早急に由仁のテリトリーに踏み込むつもりは千歳にはなかった。どうせドアを開けるのは、分かりきっていた。
ここは先の病院からほど近い、少し築年数の経過した木造のアパート。外観から、六畳1Kユニットバス、といった間取りであろうと、旭は由仁が観念してドアを開けるまでのほんの数分呑気に考えながら待っていた。この数分が悠理にとっては命取りなんだよなぁ、と、他人事のように顎を撫でながらドアノブを見つめていると、張り詰めた空気を纏ったままゆっくりと沈むようにドアノブが下がった。
控えめな、「カチャ」というラッチの噛み合う音がワンテンポ遅れて奏でられた。極わずかな隙間から覗く、可愛い可愛い由仁の姿。
「久しぶりだね、由仁」
「……千歳」
何年ぶりだろうか、悠理を身籠って逃げてから、今日まで19年。いや、20年か?千歳は曖昧な時間の経過を何となく考えながら、隙間に手を差し込んでドアを少しだけ強引に開いて、中に入り込む。
自分を呼ぶあの可愛い声は、煙草なのか酒なのか薬なのか、妙に掠れて面影を感じない。だが、千歳にはあの時の鈴を転がしたような愛らしい声に変換されて鼓膜を揺さ振る。
「可愛い僕の由仁、こんなところで一人で寂しかっただろう」
千歳は元々華奢だったがさらに骨と皮のようになった由仁の身体をそっと抱き締める。
あの頃とは似ても似つかない、煙草の匂いと酒の匂い。柔らかかった胸や腕は骨ばっていて、所々痛々しい痣さえ見て取れる。艶やかで美しかった栗色の髪はだらしなく乱れていて、若く瑞々しい肌はすっかり枯渇していた。
「か、可愛くない…!今の私は美しくない、こんなの私じゃない!返して!誰からも愛される可愛い美しい私を返して!!」
想像した通りの内装の荒れた室内に響く、由仁の掠れた訴え。
単純な老い。あの可愛かった18〜23歳頃の面影は全くない。今の由仁はまだ40歳にはなっていないものの、荒れた生活と酒・煙草・薬に頼って心を保った結果、色々な所がくすんでいるのは事実である。
────こんなに、自分がいないとダメになってしまうのか。
そう思うと、由仁の荒廃っぷりが千歳にとっては愛おしくてたまらない。
愛を欲し、愛に溺れ、愛を求め、愛を奪った。
想像でしかないが単純に、旭に「愛されている」悠理への嫉妬もあったのだろう。
「若く美しい」悠理への、僻みもあったのだろう。
「母と娘」という、無償かつ絶対的な愛の対象である悠理への、執着があったのだろう。
複雑に雁字搦めになった影は、由仁を強く縛っている。
千歳はそんな愛に飢えた由仁が、堪らなく愛おしくて堪らなく可愛くて仕方がない、といった様子で、喚く由仁のかさかさの唇をそっと撫でて、自らのそれと重ねた。




