第四章「フェイク」
切り取られた笑顔。
誰に向けたものなのかわからず、腹立たしい。
切り取られた雨に濡れた姿。
下着が透けていて、誰に見られるともわからず腹立たしい。
切り取られた涙を浮かべる切ない顔。
自分ではない誰かに泣かされたようで、腹立たしい。
切り取られた、寝顔、拗ねた顔、驚いた顔、むずがる顔、怒った顔、眠そうな顔。
それらは全て自分に向けられたものではなくて、腹立たしい。
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
こんなに自分に憎まれていて、愛おしい。
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早朝のぬるい空気にうんざりと息を漏らす。
眠い、という感覚はとうに忘れてしまったような気がするが、眠りに似たような行為はすることが出来ている気がする。
その行為のお陰で、まだ「自分」を保てているような気がする。
少し距離を空けた隣で無防備に寝息のようなものを立て始めた、寝顔は一層幼く感じさせるゆりのそれを眺め、旭はその頬を撫でようとそっと手を伸ばしてはみるも、それをする事もなく留まった。目的を失った無骨な手はそのままぎゅっと握られ、主の元に戻っていく。
旭はそのまま立ち上がると、ゆりの眠る部屋を後にする。
「……少し動くか」
誰に告げた訳ではない呟きは、湿度の高い室内で響く事もなく消失する。
旭はまだ目覚めたばかりの世界を、久方ぶりに一人で濶歩する。目的地は財力を示すように大仰な日本式の豪邸。
敷地内の本邸から少し離れたところに、隔離するようにぽつんと離れが存在している。
窓から室内を覗くと、目的としていた人物の姿はなかった。不在であることはもちろん承知の上ではあった旭は、家主に断りもなく室内に入り込む。玄関の役割をする飾り気のない引き戸、上り框から少し年季の入った板張りの床。玄関からすぐ右手には簡易的な台所と、単身用の小さな冷蔵庫。冷蔵庫の横に置かれた食器は本邸とこの離れを結ぶ渡り廊下へ出るための扉が設けられているが、それを塞ぐように食器棚が置かれている。
廊下を挟んだ向かい側、玄関から左手にはトイレと洗面所、その奥には簡素な浴室があり、廊下を進んだ先には襖がある。襖を開いた先には広い畳敷きの和室があり、儀式に使うような祭壇と、異臭を誤魔化す為の線香が焚かれている。祭壇で隠された隠し戸から中に入ると、ご丁寧に防音施工された扉が二重にそこへの侵入を阻む。
扉の奥にはこぢんまりとした板張りの防音部屋で、壁一面には愛おしそうに写真が張り巡らされ、元の壁紙の様子も見て取れない。一部だけ切り抜かれたように縁どりされた箇所を見れば南京錠の下がったドアが確認出来、そこから中に入ると更に狭い、四畳半程の部屋にベッドだけがぽつんと置かれている。部屋の奥には申し訳程度のトイレとシャワーブース。いずれも、この部屋にいる人物を監視する為のものと思わしきカメラが設置されているが、空っぽの部屋では今はそれも用を成していない様子である。
旭はぐるりとその室内を見回してから、珍しく不快そうに瞳を細めた。小さく舌打ちを漏らし、床に点々と滲んだどす黒いシミを睨みつけ、深く溜息を漏らす。
「随分とまぁ、いい趣味だこと。俺も人のこと言えねぇけど」
ここを見つけ出す前の事を思うと、胸が張り裂けそうな気持ちを抱える。相変わらずしんとした室内を再度睨みつけてから、旭はこの軟禁部屋と呼ぶに等しい部屋を後にする。
ふと、何者かの気配を感じる。
旭は「しまった」と小さく漏らすも、既にそれは遅かった。
「…よもやここまで短期間でご丁寧に気配を消すまでになってくれるとはな、いや…それともこないだは敢えて気配を消さずにいてくれたのか」
いずれにしても、旭は現れた気配…「この趣味のいい部屋」の主と対峙するつもりは、今は毛頭持ち合わせていない。端的に言って分が悪い自覚があった。ゆりを一人残している状況も気がかりである。
しかし、仕掛けてくるつもりであれば気配を消している以上奇襲をかけるつもりがあれば、無論そう易々とやられてやるつもりはないにせよとっくに何かしらかのアクションはあって然るべきかと考える。
いずれにせよ、この場は離するに限るなと判断した旭は、件の部屋の換気用に設けられた天井付近の小さな窓に手を掛け、そこから身を捩らせて脱する。外壁の凹凸を睨み、軽々と屋根に上がりこの珍妙な離れの構造を眺める。
無理矢理増築したのか、屋根の色と外壁の色が絶妙に合っていない。それでもこれだけの大きさのものを誂えても、まだ余る日本式の庭園。この離れを本邸から隠すように鬱蒼と木が茂り、敢えてなのかそれらを手入れしているような様子は見受けられない。
音も、風も、人ですらも、この場所からは隔離されている。
旭は屋根から近くの木の枝に飛び移ると、背後から隠すつもりもない嫌な気配にぞわりと背筋が粟立つのを感じ、挨拶くらいはしてやるかと本日何度目かわからないため息を漏らして肩越しに見下ろす。
窓からこちらを見上げる影、その双眸はしっかり木の枝に佇む旭を捉えている。
癖のある栗色の柔らかそうな髪と、一見すると人当たりの良さそうな柔和な笑み。背丈は旭とほぼ変わらない程度ではあるが、旭と決定的に異なるのは害が無さそうなほどに細身の体つき。殴り合いなら旭の圧勝であろうなという体格差、しかし旭が睨んで視界から離さないその人畜無害そうな男は、さぞ楽しそうに笑って呪いの言葉を呟く。
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「ん、んーーーーっ」
黄昏に空が染まった時分。ゆりは大袈裟に身体を伸ばして欠伸を漏らす。眠い目を擦りながら周囲を見回し、小さく首を傾げて身体を起こす。
比較的片付いていた部屋を出た先は雑然としており、ゆりは無意識にそれらを跨ぎ、潜りながら小さなバルコニーを目指し、やっとの思いで旭の隣に立つ。
「起きたのか」
「……どこか行ってたの?」
すん、と鼻先を寄せてゆりは問いかける。
「血の匂いがするよ」
旭はそう呟くゆりを見下ろし、目を細めた。
誰かと重なるようで、今日何度目かわからないため息を漏らす。
「ね、旭くん。どこ行ってたの?」
「……いかがわしい店だよ」
あまり意味のない誤魔化しをして、旭はバツが悪そうに目を逸らす。
あからさまに拗ねたような顔をするゆりを視界の端に留め、世界に目を向ける。
「……ゆり」
「なぁに?」
「………悪い、ちょっと眠てぇかも」
返された言葉にゆりが目を丸くする。
ゆりは、旭が眠った姿は見たことがない。
いつも眠ったふりをして、目を瞑っているだけだったのを知っていた。
そんな旭が眠いと訴えている、ゆりはなんとなく母性本能に似たものを覚え思わず小さく笑いを溢し、一足先に散らかった室内に入り込んでソファに腰を下ろした。
「特別だぞー」
ぽんぽん、と膝を叩いて旭を促す。いわゆる膝枕の姿勢であるが、旭がそれを拒むことも照れる素振りも見せないまま天井からぶら下がる邪魔でしかないオブジェと化したものを暖簾のように潜り、ゆりの華奢ながら柔らかみのある太腿に頭を乗せる。
見上げると、見慣れた童顔が何故か得意気な顔で旭を見下ろしていたため、旭は忌々しそうにゆりの栗色の髪に手を伸ばしそっと一房を指先に絡ませた。そのまま目を瞑ると、旭の意識も感情も、真っ黒な影に飲み込まれるように意識を溶けさせていった。
眠りにつく瞬間は、これが酷く不快で、怖くて、嫌悪し、そして快感が伴う。
「ゆり」
「うん?」
アイシテル、その言葉は音として紡がれることはないまま、旭は久しぶりに闇に意識を溶かした。
『必ず、自分の元に帰ってくる』
それは一種の呪いである。自覚は、まだない。




