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【完結済】懸想の影  作者: 梦月みい


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第四十八章「温度」

旭が消えたことは、音ではなく、言葉で形容のしようがない欠けたという感覚で分かった。

隣にあったはずのものが、最初から無かったかのように世界の輪郭だけが少し歪む。呼びかける名前すら、もう届かないと理解した瞬間、ゆりの足元がふっと軽くなった。

落ちる、と思った。

身体が、引き戻されている。どこかへ。

ゆりは、自分の足元を見る。霊体でも、身体でもない、曖昧な輪郭の自分。


ここにいる理由は、誰かに愛されたいからじゃない。

愛されなくてもいい、とは思えない。怖いし、寂しいし、今でも誰かの手を探してしまう。

それでも。

「……わたし」

声は小さく、震えていた。

「わたし、まだ……」


言葉が詰まる。生きたい、という単語が、うまく出てこない。


生きることは、また傷つくことだ。また拒まれることだ。また、独りになる可能性だ。

それでも。


「ごめんね」

その言葉は、拒絶でも断絶でもない。由仁に向けられた、確かに「愛」を含んだ言葉。

由仁にそれが伝わったかはわからない。


足元の引力が、強くなる。世界が遠ざかる。

ゆりは、最後に一度だけ、旭が立っていたはずの場所を見た。

もう何もない。けれど、胸の奥に、確かに残っているものがある。

それを抱えたまま、ゆりは、落ちていった。

——生きるほうへ。


「生きたい」


そう願った瞬間、ゆりの視界と世界が暗転した。

今までの燻んだ、もやがかった世界から、真っ白な空間へと投げ出された。


「…あ、れ…?」

自分の輪郭がわからない。

ゆりは戸惑いが滲む声でわざとらしく声を出す。

その声はどこへも届かず、白い空間へ吸い込まれていく。

何も見えない。何も聞こえない。

覚えのあるような閉塞感に不安に包まれる。



*********


ゆり、と名前を呼んでみた声は妙に掠れている。誰にも届かない、現実的な音の反響を感じて違和感を覚えた。

旭は少しずつ感覚らしい感覚を思い出し始めた身体の様子を確認する。

開けたての双眸が捉える景色はまだぼやけている。

耳につく規則的な電子音は、自分の身体の拍動と全く同じリズムを叩いていた。

鼻につく消毒の匂いはどこか懐かしい。

身体中に繋がれた管が、まどろっこしい。

身体を起こしたくても起こせない。扉を隔てた先の喧騒が、なんとなく世界とのフィルターのように覚えた。

少し遠くから聞こえてくる話し声が、音としては認識するも言葉として理解ができない。

喉が渇いた。

右手が寂しい。

何か小さくて柔らかくて大切なものを握っていたはずなのに。

ゆり、ゆり。

そう頭で反芻するものの、旭には「ゆり」がなんだかわからない。

ガラガラと何かを引き摺る音が近寄って来て、少し離れた場所にある引き戸が開かれた。

その瞬間、外界の空気と音が一気に空っぽの室内に流れ込む。

騒がしい、単純に旭はそう思いながら、ドアの開いた方向に目を向けた。真っ白な白衣に身を包んだ女性がカートを押してこちらに来るのが視認できる。女性は手慣れた様子でモニターを見て記録を取った後、旭の身体にまるで拘束具のように繋がった管の先にぶら下がる点滴の輸液の残量を確認した。

そこまでをまるで映画のワンシーンでも観るような感覚で無感情に眺めていた旭だったが、不意に看護師とバチっと視線が絡んだ。

時間にしてほんの数秒。

慌ただしく枕元のナースコールが押され、そこからバタバタと数名の看護師や医師が訪れ旭の意識や記憶の確認がてらいくつか問診を重ね、清拭を終えてまた室内に静寂が訪れた。


まだ身体の動きは鈍いが、少しずつ感覚を取り戻し始めたのか幾分かは動くようになった。旭はその感覚を確かめるように右手を握ったり開いたりしてみる。なんとなく物足りないものを感じるが、それがなんなのか思い出せない。

何かとても大切なものが欠落しているような感覚に旭は胸のもやが晴れないでいる。

何かに惹かれるような感覚と、右手に残った温度を感じない温もり。

旭は長らく動かしていなかった為に骨が軋むような音を立てるのを感じながらゆっくりベッドから起き上がる。そして左足をベッド下に下ろして床に足をつけてみる。冷たい。その温度を確かめてから、右足も同じようにベッドから下ろして両足で床に触れる。床の冷たさが、足の裏の皮膚を伝い、血管を冷やし、冷えた血液が巡るようなものを感じてなんとなく「生きている」と感じた。

だけど何かが足りない。何が足りないかわからない。

一年弱「眠っていた」のが、足りない原因か?

自問自答しても答えは出ない。膝が笑うような震えを覚えながら、両足に力を込めて立ち上がる。

当然のように、思った通りの動きをしない身体はあっという間にベッドに引き戻される。

「だ、めだ…行かないと」

壁に手をついて懸命に身体を支え、ぎこちなく生まれたての子鹿のような、歩行したての赤子のようなおぼつかない足取りでなんとか扉のところまでは辿り着いた。

歩き方を思い出すと、そこからは壁伝いに、惹かれるままに廊下を進んでいった。


見つけないと。

探さないと。

自分が、愛さないと。


その感覚だけが旭を突き動かしていた。


「海道さん!?何してるんですか!」


廊下を進んでいると看護師が旭を見て咎め、病室へと戻るよう促す。ほんの数時間前に目覚めたばかりの重傷で1年近く昏睡だった人間が、傷が癒えたとはいえそんなにすぐにうろついていいはずがない。旭はその状況も含め理解はしているが、それ以上に探さなくてはという衝動に支配されている。


ふらついて手をついたドアが、体重に負けて動く。

刹那、旭はハッとしたように病室内に目を向ける。

「見つけた」

誰なのかはわからない。

だけど、見つけたと思った。


旭はそのまま看護師の静止を振り切って室内に入ると、とても可愛らしい人形のような女性が旭と同じようにたくさんの管に繋がれ、微弱な心臓の鼓動を刻んでいた。

「ゆり」

半ば倒れるように旭はその女性の横たわるベッドに駆け寄る。弾みでベッドが軋む音がする。


「ゆり、ゆり!」

見つけた。愛してる。可愛い。起きて。俺を見て。笑って。

ぐちゃぐちゃになった感情を孕んで「名前」を呼んでみるも、言葉は返ってこない。その代わりに、機械的な電子音が無慈悲な知らせをするように一定の長音を奏でていた。

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