第四十七章「さようなら」
「…あ、あさひ、くん」
不意に繋いでいた左手の繋がりが消えた。
背中に嫌な気配だけを残して、この真っ白な暗闇の影に取り残された。
不安にゆりは小さく旭を呼ぶも、影にその声は吸い込まれる。
ゆりには、この不穏な感覚は覚えがあった。
可愛くて、綺麗で、優しくて、大好きで、愛おしくて、ゆりにとって唯一無二の、大嫌いで怖くて怖くて堪らない、母の「存在」。
ねっとりとした嫌な気配の纏わりを払うように、ゆりは意を決して首だけ振り返る。
記憶にあるままの、若くて美しくて可愛いままの「母」の姿を視認する。
ゆりは小さく喉を鳴らして唾を飲み込むも、喉の閉塞感に嫌な汗が噴き出る。
まだ小さい頃に、力一杯叩かれて痛かった記憶。
ご飯をもらえなくて、いつも空腹で気持ち悪くて力が出なかった記憶。
男に絡んでいた足で、虫ケラのように踏みつけられて骨が折れた記憶。
お風呂を許してもらえなくて、痒いのを通り越して櫛も通らなくなった髪を掴まれて頭皮に裂傷が出来た記憶。
毎回違う男の人に「可愛い」「綺麗」と言われ悦ぶ母の「女」の声が鼓膜に纏わりついて、母が母じゃないように思えて怖かった記憶。
たまに機嫌がいい時に、「世界一愛してる、可愛い私のたった一人の家族」と言って優しく抱き締めてくれた、母の胸の柔らかな感触と母が愛用していた甘いリリーの香水の香りと、暖かな温もりの記憶。
優しく、名前を呼んでくれた、記憶。
「悠理」
そう、まさにこの甘ったるく柔らかく少し高い声。
ゆりは十数年振りに聞くその声に、心臓が嫌な脈打ちを感じながら震える足で一歩下がるように身体を反転させ、対峙する。
母である由仁の、一体どれだけ「喰った」のかわからない影の気配に足が竦む。
「…お、かあさ…」
掠れて震えて思うように声が出ない。
「ふふ、またひとり?」
知ってるのよ、あなたが旭に依存してたこと。あなたが旭に認められたくて、褒めて欲しくて一生懸命「影」を集めてたこと。人の好意に鈍感なフリをして、人の好意を恣意に扱っていてそれを自覚がないように振る舞っていたこと。あなたも私と同じなのよ。
捲し立てるような「母」の言葉は、ゆりの心に、魂に、杭のように深く深く刺さって食い込んでいくようだった。
ゆりは母の顔を直視できず足元に目を落とす。
そこは酷く曖昧で、境界が朧げであった。いつからこうだったのかはわからない。最初からかもしれないし、旭が消えたからかもしれない。ただ、ゆりが「生きていない」ことだけは明確に示唆するようで、苦しくて喉の奥が詰まるような感覚だった。
由仁はそんなゆりを見透かしているのか、くすくすと小さく笑いながら長い髪を風に揺らしながらゆりに近寄る。
馴染みのある、甘いリリーの香水の香りがするようで、ゆりは眉を寄せる。
機嫌が良かった時のように、細く華奢な腕が伸びてきて優しくゆりの身体を包むように抱き締めた。
覚えのある、柔らかな胸の感触と温もり。ゆりは不快感を耐えられずにいるもどういう訳か身体は拒絶の動きをすることができずにいた。
「ね、悠理。やっぱりあなたは私がいないとダメなのよ」
鼓膜に響く甘やかな声に、ゆりは身体が震える。
母を愛さなければいけない。
母だけを、母のために。
呪いのように刻まれた感情にゆりは旭の姿を探す。しかしほんの数刻前、旭は忽然と姿を消したのである。
置いて行かれた。
ネガティブにそんな感情も湧き上がる。
だがここには、由仁の言う通り「一人しかいない」のである。
——本当に?
ゆりは、ほぼ無意識に一歩、後退った。
必然的に、一方的に自分を抱いていただけの細腕がするりと外れる。
「…おかあさんとは、一緒にいれない。いない、いたくない」
「……何を」
震える声で母を否定する言葉を吐いた瞬間、空気が冷えて張り詰めるのを感じた。ゆりにとって覚えのある、世界で一番嫌な感覚。
これはきっと叩かれるだけじゃ済まないな、殴られて、蹴られて、髪を掴まれて浴槽に頭を沈められて、苦しくて水を吐いたら「汚い!」と言ってまた殴られる。そんな記憶が明確な恐怖の感覚として身体は覚えている。ゆりは嫌な汗が吹き出るのを感じるが、まっすぐに見据えた目の奥には光が微かに灯っていた。
「あ、旭は!アンタのこと利用してたんだよ!気付いてないわけじゃないでしょ!?下心があったんだよ!アンタ、私に似て顔だけは可愛いもんね!」
「……あのね、わたし思い出したの。旭くん、わたしがガリガリでお風呂も入ってない洗濯もしてない汚い子供だった時から、「ゆり」のこと見てくれてたんだよ」
「——は、…な、に」
「旭くんがわたしのこと利用してたのなんて知ってるよ、それを言ったら、わたしも旭くんのこと利用…してた、ってことになるのかな…だって、わたしも愛して欲しかったんだもん」
初めての、明確なゆりの由仁に対する「拒絶」に由仁はたじろいだ。
返す言葉が見つからず、だけどそれでも感情の湧き上がりを抑えられずに血が沸騰するような感覚に由仁の手は震えた。
「……ッそれでも!!私はお前の母親で!!」
「産んでくれたことは感謝します、その上で自分もあなたも出自が複雑なのも、あなたが「こう」なってしまったのも…今はなんとなく理解できます。あなたのこと、大好きだった。だって小さいわたしには『母』しか世界にいないから。『母』がいないと、わたしは生きていけなかったから。でも、あなたのこと、怖い。嫌い。一緒にはいれない。いたくない」
「ふざけるな!!」
「ふざけてない」
感情的に由仁が叫べば叫ぶほど、ゆりの頭は冷静に冷えていく。
あんなに美しく可愛かった母は、こんなに般若のような人だったのだろうか。そう思うと過去に自分を叩く時の母はやっぱりこんな感じだったなと他人事のように感じていた。
「……行かなきゃ」
「はぁ!!?行くって、どこに!私を置いて!!何処に行くつもりだ!!!お前は私のものだろうが!!!」
ヒステリックな由仁の叫びは、ゆりには響かない。
「旭くんに、探してもらわないと」
最後に由仁に告げた台詞は、ゆりも我ながら他力本願である自覚はあった。しかし約束したのだ。その約束だけが、今はゆりにとって何よりも大切なものであった。
——さようなら。




