第四十五章「渇望と葛藤」
目的地である病院はビルの合間に覗き見える。白い建物が、色の失われた世界の中で、異物のように浮かび上がっている。
近づくにつれて、空気が重くなる。歩幅は変わらないはずなのに、足取りだけが鈍くなっていく。
旭は歩きながら、何度も同じことを考えていた。
────ここに来れば、終わる。
少なくとも、ゆりにとっては。
眠っている場所。それ以上でも以下でもない。それは、旭には分かっていた。
理屈としては、ずっと前から。
それでも、足が止まりそうになる。
ゆりと過ごした時間は、長くはない。けれど、確かに存在していた。誰にも邪魔されず、過去にも縛られず、ただ並んで歩いた時間。
ゆりが笑ったこと。不安そうに名前を呼んだこと。握った手の温度────温度があるはずもないのに、確かに感じていた感触。
それらが、目を覚ました瞬間に、消えるかもしれない。
「……なあ」
旭は、前を向いたまま声を出した。ゆりはすぐには答えなかった。まだ少し距離のある病院を見上げるその横顔は、ひどく静かだった。
「もしさ」
言葉を探すように、間が空く。
「起きたあと……ここでのこと、覚えてなかったら」
それ以上、言えなかった。問いかけの形をしていても、答えを聞く覚悟がなかった。
ゆりはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……覚えてないかもね」
否定もしない。慰めもしない。事実を、そのまま置いただけの声だった。
旭の胸の奥が、じくりと痛む。それでも、言わなければならないことが、まだ残っていた。
「俺さ……」
自分でも驚くほど、声が低かった。
「状況は分かってる。お前を不可抗力とは言え道連れにしたこと、……お前も俺も、ちゃんと死ねてないことも。……でも」
病院が、少しだけ近づく。
「俺は戻れるかどうかは……分からない」
言葉にした途端、現実味を帯びる。自分だけが、ここに取り残される可能性。ゆりだけが、光の向こうへ行ってしまう可能性。
「それでも……」
旭は、そこで言葉を切った。“それでも起こす”と言えば、すべてが決まってしまう気がした。
ゆりは、旭のほうを見た。その目には、怯えも、迷いもあったが、同時に、逃げない意志があった。
「旭くん」
静かな声。
「わたしね」
少しだけ笑う。それは、この世界に来てから、初めて見る種類の笑顔だった。
「ここにいた時間が、消えても」
言い切るまでに、一拍置く。
「なかったことには、ならないと思う」
旭は、何も言えなかった。
「たとえ忘れても」
ゆりは前を向き、病院へ続く道を見据える。
「今度はわたしが、みつけてあげる」
旭の喉が、ひくりと鳴る。それは慰めではなかった。背中を押す言葉でもなかった。
ただ、選択を返されたのだと、旭は理解した。
病院の入口が、もうすぐそこにある。ここから先は、戻れない。
旭は、歩みを止める。そして、ゆりの手を、強くも弱くもない力で握り直した。
「……もう少しだけ」
かすれる声。
「本当に、お前のこと好きだった。小汚い小さい細い身体だったお前から目が離せなくて、一目惚れだった。大学で出会って、お前の状況知って、俺が……────俺が、守らないと、って」
ゆりは、何も言わずに頷いた。
二人は、病院の前に立ち尽くす。眠る身体が待つ場所を前に、生きることと、失うことの境目で。
世界は、まだ崩れていなかった。




