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【完結済】懸想の影  作者: 梦月みい


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第四十四章「おはよう」

『まずは目を覚ますこと』


旭は小さく息を吸い込み、胸の奥でそっと気合いを入れた。深呼吸と呼ぶには短すぎる、ほんの一瞬のことだったはずなのに、その反動で、無意識のうちに握っていた手に思いの外力が篭もってしまう。自覚したときにはすでに遅く、すぐ傍らで、小さく擦れるような、か細い声がした。

「……いたい」

旭がはっとして慌てて振り返ると、小動物のように眉を下げたゆりが、不安を隠しきれないまま旭を見上げていた。その視線はどこか怯えを含んでいて、向けられた瞬間、胸の奥がちくりと刺されるように痛むのを感じる。

「……わ、悪い」

咄嗟にそう口にした途端、自分の声がひどく乾いて聞こえた。謝罪の言葉一つで済ませていいのか分からず、握ったままの手から、自分の不安や、どうしようもないバツの悪さが伝わってしまう気がする。旭は落ち着かない気持ちを抱えたまま、ゆりの手を引いて歩き出した。

この道は、何度も、何度も一人で通った。記憶が薄れないように、忘れてしまわないように、確かめるように繰り返し辿った道だ。足取りも、曲がり角の位置も、目を閉じても思い出せるほど体に染みついている。

一歩進むごとに、否応なく直視せねばならない現実へと近づいていく。実際に手汗をかいているわけではない。それでも、握った手の感触が妙に曖昧で、旭はそれが汗のせいなのか、それとも自分の心が揺れているせいなのか、だんだん分からなくなっていた。

「……旭くん、緊張してる?」

ぽつりと投げかけられたその言葉に、旭は一瞬言葉を失う。足は止めず、視線を前に向けたまま、少し間を置いてから答えた。

「……そりゃ」

短く、素っ気なく返したものの、相変わらずバツが悪いのを拭えない。ゆりは小さく息を吐くように「フゥン」と相槌を打った。

身長差のある旭に追いつこうとして、ゆりはちょこちょこと小走りでついてくる。その足音が、やけに軽く、頼りなく耳に届き、振り返らずにはいられなくなりそうだった。

やがて、ゆりがふと足を止める。引かれていた手に気付くのが一拍遅れ、旭は軽く後ろに引き戻された。

「……?」

不思議に思って振り返ると、ゆりはその場に立ち尽くし、周囲を見渡していた。どこか呆然とした表情で、足元と、前方と、そして空気そのものを確かめるように、視線をあてもなく彷徨わせている。

「……ここ」

絞り出すようなその声は、疑問というより、確信に近かった。

外の景色は相変わらず、色を失ったように褪せている。人影はほとんどなく、遠くに見える影も輪郭が崩れ、まるで黒い闇が形だけ人を真似ているようだった。薄く靄がかった光景は、どこまで歩いても変わらず、逃げ場のない閉塞感を与えてくる。ただ、見える影は確実にそれを「闇」として構成していて、言いようのないおどろおどろしさを纏っている。

ゆりは無意識のうちに息を詰めた。胸の奥が重く沈み、冷たいものに触れたような感覚が広がる。理由は分からない。ただ、この場所に立っていること自体が、決定的に間違っている気がした。

「ここ……」

言葉を探すように、ゆりはもう一度、小さく呟く。

「ここ、わたしが死んだ場所」

「……は────」

旭の喉から、かすれた音が漏れる。その先の言葉が続かないのは、初めて聞いたからではない。ただ、その事実を、ゆり自身の口から聞く覚悟が、まだ整っていなかっただけだ。

「わたしと、旭くんが、一緒に死んだ場所」

淡々と告げられたその言葉は、否定の余地もなく、静かに空気へと溶けていく。ゆりの目には、もう迷いはなかった。だが同時に、生きている者が持つはずの光も、そこには宿っていない。

思い出したのだ。忘れていたのではなく、心の奥にしまい込んでいた記憶を――。

旭はその横顔を見つめながら、何も言えずに立ち尽くしていた。ここまで連れてきたのは自分だ。それでも、こうしてゆりが思い出してしまった瞬間を目の当たりにすると、胸の奥が鈍く、重く痛む。

「……ごめん」

声にならない謝罪が、唇の内側で消える。ゆりの目は、相変わらず光を灯していなかった。

早く、目を覚まさなければ。一体どうやって?起きられる?

不安に駆られた旭は奥歯を噛み締め、再度、目的地に向けてゆりの手を引いた。

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