第四十三章「証明」
生きている、そのことを定義するには────『細胞で構成されていること・代謝を行うこと・子孫を残すこと・そして進化すること』。
そんな定義を、旭はどこか遠い場所から眺めるような気持ちで思い出していた。何かの授業で聞いたはずの言葉。黒板に書かれて、ノートに写して、それで終わったはずの知識。それが今になって、意味を伴って胸の奥に落ちてくる。
視線の先には、横たわるゆりの身体がある。まるで時間から切り離されたかのように静止したその姿。触れれば体温というものが存在しないように、相変わらずその肌は冷たく冷えきっていた。
「……これは、死んでいるのか」
呟きは独り言にもならず、室内の空気に吸い込まれて消えた。返事などあるはずがない。それがわかっているからこそ、言葉にしたのかもしれない。
怖い。
旭は自分がここまで怯えていることに、遅れて気づいた。日頃は飄々として、どこか達観したように振る舞ってきた。だが「死」というものだけは、どうしても他人事にできなかった。今まさにそれに直面しているという事実、自分が立っている場所、そしてゆりの「死」。
そのすべてが、重なり合って胸を締めつける。
無意識に指先に力が入る。何かを掴みたくて、けれど掴めるものは何もなく、虚構に向かって手を伸ばす。空を切る指先が震え、そのまま握りしめられた拳は、ひどく頼りなかった。
意味のないその動作を何度か繰り返し、旭は深く息を吸い込み、吐いた。吐息は震え、ため息になって床へ落ちる。再びゆりの顔に視線を落とし、そして耐えきれず、現実を直視しないようにぎゅっと目を閉じた。
閉ざされた闇は、かえって死を連想させる。それでも目を開ける勇気はなく、旭はどちらにも逃げ場のない恐怖の狭間で立ち尽くしていた。
「……ん、うう……ん」
小さな、かすれた唸り声。それは幻聴ではなかった。
ゆりがゆっくりと瞼を持ち上げる。呼吸に混じる微かな声を聞いた瞬間、旭は弾かれたように目を開いた。張り詰めていた胸の奥が一気にほどけ、思わず息を吐く。
「ゆり、起きたか」
声は震えていたが、そんなことを気にする余裕はなかった。ゆりがのそりと身体を起こそうとするのを見て、慌てて背中を支え、そのままそっと撫でる。まだ夢と現の境目にいるような、ぼんやりとした表情。
旭は用意していた桃を手に取った。丁寧に皮を剥き、一口大に切り分けたそれを、ゆりの目の前に差し出す。ゆりは重たそうな双眸を桃に向け、ゆっくりと瞬きをしたあと、旭を見上げた。
どこまで理解しているのか。意識の上での言葉なのか、それとも本能的なものなのか。ゆりは静かに口を開いた。
「……これ、食べたら……『起きれる』?」
────核心を、突かれた。
旭は息を呑み、観念したように額を押さえて俯いた。小さくため息を漏らし、こくりと頷く。
するとゆりは、一欠片の桃を手に取り、今度は旭へと差し出した。
「ゆり」「ちょっとだけ、わかってるから。一緒に食べて」「……ごめん。ごめん、ゆり……ごめん」「でもね、わたしも全部はわかんない。ちゃんと、お話しして」
旭の目から、堰を切ったように涙が溢れた。何に対する謝罪なのか、自分でもわからない。ただ言葉にしなければ壊れてしまいそうで、謝ることしかできなかった。
ゆりは桃の汁の香りを纏った指先で、旭の涙を拭う。そのまま、旭の口元へ桃を運んだ。口の中に広がる甘さと、少しだけ残る青臭さ。桃特有の芳醇な香り。季節外れのせいか果肉は固く、噛みしめるとシャキッとした歯応えがあった。
――生きている、という実感。
『まずは目を覚ますこと』
墨田千歳に言われた言葉が、脳裏に浮かぶ。旭自身も、それが正しいのだとわかっていた。
二人で黙々と、供え物だった桃を食べ終える。ゆりが「ふう」と小さく息を吐いたところで、旭はそっと視線を向けた。
「……『空腹』の度合いはどうだ?」「んー……うん。なんか、前にもあったよね。旭くんが桃、食べさせてくれたの」「あー、あったな」
ゆりは少し気恥ずかしそうに顔を背ける。あの頃の、獣のようだった自分を思い出したのかもしれない。旭は立ち上がり、ゆりに手を差し出した。
ゆりが小さく息を飲む。おずおずと取ったその手は震えていて、そして────冷たかった。
「ゆり。俺は、お前のことを愛してる。ずっとだ。初めて会った時から」「……小学生の時から?」「……、……お前、いつから」「ふふ」
最初から。そう告げたゆりの笑顔は、いつになく美しくて。
旭は目を覚ましたいような、覚ましたくないような葛藤に苛まれながら、その華奢な身体を強く、しかし壊さないように掻き抱いた。




