第四十二章「灼熱と極寒の果実」
何か言葉を発すると「うるさい」と叩かれた。
うるさいと言われると思って黙っていると「バカにしているのか」と蹴られた。
目を向けると「こっちを見るな」と殴られた。
下を向くと「当てつけか」と食事を抜かれた。
とにかく癪に障らないように機嫌を伺うと、良くて無視。良くない時は、髪を掴まれて殴る蹴るの暴行に加えて締め出し。特に寒い日と暑い日の締め出しは空腹も相成って地獄のようだった、と、空腹に耐えながら空を見上げて思い出した。ゆりはかさかさに乾いた内側の飢えを感じながら力が入らずにまともに動かない身体を投げ出して深い息を漏らした。
「…おかあさん」
自分の造形に良く似た女の人が、母親と認識できない。ただ、意識の端の方で「おかあさん」と理解していた。
ただ、愛して欲しかっただけなのに。湧き上がったそんな気持ちと共に、ゆりは微睡に溶けていくように目を瞑った。
全身がくまなく痛い。痛みが激しすぎて熱さすら覚える。食べ物に溢れたこの飽食の国で、食品ロスやら廃棄やらが当たり前のように蔓延るこの世の中で、ひもじいだなんて、自分が惨めで哀れでたまらなかった。
ゆりが痛みに喘ぎ、空腹に意識を溶かしていた頃、旭は釈然としない何かを抱えながら、手を合わせた。黙祷を捧げ、何に対してかわからない謝罪を呟く。
「…もらってくぞ」
道端に手向けられた花と共に供えられた桃に手を伸ばすと、恭しく頭を下げて立ち上がった。後ろ盾がある安心感と、後ろ盾に対する不信感のような嫌悪感のようなものを同時に抱き込んだ感覚。
選んでいる余裕もなくそんな状況にないことは旭には充分過ぎるほどに理解できていたため、なんとなく仕組まれた何かのような不信感を感じながらもゆりを残した家に戻った。
当初の予定よりも大幅に1人にしてしまった。「空腹」を耐えられているのかわからない。
本当の、本当に、死んでしまう。言いようのない恐怖感に支配されて、旭は胸の辺りをぎゅっと抑えた。
ゆりがひとり残された家は、人の気配もなく、ただ影の気配はあり、生の気配は感じられず、死の気配だけが蔓延るように漂っていた。
「ゆり…!?」
旭が慌てて室内に上がり込むと、愛しくて仕方がないゆりの姿を探し回る。探し回る、というほどの広さはなかったものの、無意識に「そこで死んでいるかもしれない」存在を避けていたのかもしれない。
しかしすぐに旭は床に力無く横たわる正気のかけらもない華奢な肢体が目に留まる。
ひゅ、と息の詰まるような感覚と同時に、旭は膝から崩れ落ちる。恐る恐る、まるで死んでいるようなゆりの真っ白な「生」を感じない頬に触れる。そこは相変わらず冷たく、改めて感じる事実に旭はそっと顔を寄せる。細く細く、文字通り辛うじてまだ繋がっている。
それを確認するや否や、旭は顔を上げ先程から気配のある影の存在を探す。探すまでもなく、ゆりのことを心配しているかのように比較的すぐそばを漂っていた。抵抗する様子を見せる影をもろともせずに力でねじ伏せるように掴み取る。
「おかあさん」
「うるさい!話しかけるなグズ!」
今日は取り立てて機嫌が悪かったらしい。
ゆりは「ただ呼んだだけなのに」力一杯に」頬を張られ、華奢を通り越して肉気のない身体は簡単に倒れ込んだ。母の右手で張られた左頬は、母の爪と指輪が当たって傷になって熱い。キン、と響くように耳鳴りがして、ジワリと血が滲む感覚にゆりは「また失敗しちゃった」とまるで他人事のように考えていた。
また給食費もらえなかったな、先生になんて言い訳しよう。今日はお風呂に入れるかな、お腹も空いたな。おかあさん、今日は何時に出かけるのかな。
「ごめんなさい」
それだけ端的に伝え、痛いのか熱いのかなんなのかわからない身体を引き摺っていつものように隣の部屋の押し入れに入り込んだ。狭くて、暗くて、どうしようもなく落ち着いた。襖をほんの少しだけ開いて明かりを取り込み、学校の図書室で借りてきた本を読んで暇を潰した。
隙間から入り込む明かりが心許なくなってきた頃合い、睡眠をとって多少酒が抜けたらしい「母」が襖を開けた。
「悠理、おいで」
言われるがままに押し入れから這い出ると、母である由仁は娘の悠理の小さ過ぎる身体を抱きしめた。
「おか、あ、さん」
時々こういうことがある。急に、「母」になる。
ゆりは滅多にない「母」の存在に、おずおずと服を握るように抱き返して母の香りを堪能する。温かくて、柔らかくて、甘い百合の匂いの香水とそこに混じって酒の匂い。
この時だけは、言いようのない何物にも変えられない安心感のようなものに包まれる。
そんな夢を、見たような気がする。




