第四十一章「ながく幸せでありますように」
「はーい、栗沢さん今日から母子同室ですよー」
カラカラと軽いキャスターの音と共に小さな生き物が部屋に運び込まれた。由仁は寝起きで微睡んでいた意識を生き物に移し、ゆっくりと身体を起こす。全身の筋肉痛と浮腫、それ以上の激痛に満足に眠ることも出来ない身体は、まだこの生き物を産み落としてほんの数日ではあるものの既にズタボロのボロ雑巾のようであった。
呑気な看護師にイラつきを感じながら、小さな透明なゆりかごのようなベッドに横たわる「我が子」。自分でも驚くほど母性のようなものは感じず、ただただ不安と恐れが強くなっていく。
カンガルーケアと生じて産み落とした直後に胸に抱かされた赤ん坊はふにゃふにゃで小さくてただただおぞましかったのを覚えている。
ドラマでよくあるような、「会いたかったよ」「生まれてきてくれてありがとう」だなんて綺麗な感情は、全く湧かなかった。
そんな自分が「母親」?そも、何故産もうと思ったのか今となってはわからない。
家族が欲しかった?そんなのいらない。
見返したかった?多分あの女は何も感じない。
欲しかった?きっとあの男はあの女しか興味が無い。
愛されたかった?
────この子は、私を愛してくれる?
恐る恐る、小さな身体を眺めるため身を乗り出す。
直後は血や羊水に塗れたシワだらけの小汚い生き物だったものが、ほんの数日で一体どうしたものかきちんと「赤ん坊」になっている。
由仁はそっと赤子に手を触れてみると、柔らかくて、小さくて、とても暖かかった。由仁の手が触れた瞬間、小さく身動ぎしたのが、堪らなく愛おしかった。
そうだ、身篭った時は、不安よりも嬉しくて嬉しくてしかたがなかった。日増しに大きくなるお腹も、得体の知れない不安よりも、大好きな、愛してるあの人との子供なのだと思うと、堪らなく愛おしかったんだった。
そんな事を考えながらぎこちない手つきで赤子を抱き上げる。腕の中にすっぽりと収まる小さな命。この子を守らなくてはという、使命感。
「……かわいい」
病室に、由仁の小さな呟きとすすり泣く声がほんの数分だけ響いた。
柔らかな乳児特有の匂いに、由仁は生まれたての娘の身体に顔を埋めた。
逃げなくては。守らなくては。
由仁がそう決意するまでは長くはかからなかった。
幸いにも、由仁の戸籍上の父はそれなりに資産家であった。
由仁の手癖の悪いのはこの際さておいて、元実家に連れ戻された時にこっそり盗み出したいわゆるタンス貯金と戸籍上の母が出産直後に持ってきたへそくりであろうそこそこの金額の入った預金通帳。2、3年は贅沢をしなければ二人でなんとかやっていける程のまとまった金銭が由仁の手元にあった。
そうして、退院する前日の夜。
由仁は子供と共に荷物をまとめて病院を抜け出した。
その後出生届を出し、子供の名前は「ゆり」とつけた。
────自分が一番愛した人に、唯一もらった大好きな香り。
それから、「筋道を通してながく幸せにありますように」と、漢字は「悠理」とした。
幸いにも、見目はそれなりにいいと自覚していた。そんな自分に顔立ちはよく似ていて可愛らしい顔をしていた。色々な面で苦労はしなそうだが、様々な面で苦労はするだろう。
病院を抜け出した件は、世間体を気にする戸籍上の父親がどうにかするだろう、しなかったところでどうでもいい。
とにかくこの子を、悠理を守らなければ。
それからなんとか母子での生活を送っていた由仁。
想定していた通り、贅沢はできない。満足に働きに出ることも、大学を中退して高卒で10代の未婚の母で未就園児を抱える由仁にはできなかった。
地獄が始まったのは、悠理が2歳半頃。由仁はまだ二十歳になったばかりであった。
今にして思えば、イヤイヤ期というものだったのかもしれない。
その日は悠理が妙に癇癪が酷く、「ままいや!きらい!」と言ったことが由仁にとってのトリガーだった。
気が付いたら由仁は、まだ小さな悠理のふくふくとした頬を力一杯に張っていた。
痛みに一層泣き叫ぶ悠理に苛立ちが募る由仁は歯止めが効かずに悠理の口を塞いだ。
「うるさい!泣くな!なんで、なんで私ばっかりこんなに苦労して…!」
小さな娘の、「ままごめんなさい」「ままだいすき」「きらいっていってごめんなさい、まますきだよ」は由仁にとっての呪いであった。
こんなに愛してるのに、こんなに大好きなのに、こんなに可愛がっているのに、あんなに苦労して痛い思いをして産んだ娘の「愛」は、取ってつけたようにしか聞こえなかった。
「もう嫌…!なんで、私ばっかり!どいつもこいつも嘘つき!嫌い!死んじゃえよクソが!!」
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少し遠くから、聞き慣れたハイヒールの音がこちらに向かってくる。そこに被さるように、「また違う」足音も聞こえ、無意識にそちらに意識を集中している間に玄関の錠前を厳かに開く音が重なったところで、悠理はびくりと肩を震わせた。
「なぁリリィちゃんほんとにいいの?」
「へーきだって、ね、リリィのこと好きなんでしょ?」
由仁は数年前からキャバクラで働き始め、源氏名はリリィと名乗った。見目が人並み以上に整っているためかそれなりに売れて生活は潤った。身なりはどんどん派手になり、生活も荒れた。反面、娘の悠理は年齢の割に小さく痩せこけていて、どこからどう見ても立派なネグレクト児である。
「おい、お前いつものように私がいいって言うまでそこで大人しくしてな」
由仁はいつものように無言で頷く悠理の襟首を乱雑に掴むと、そのまま押し入れに追いやる。「はは、かわいそ」と笑う男に早速しなだれかかり、まだ幼い娘の前で行為に耽る。
「あー、かーわい、リリィちゃん」
「んっ、可愛い…?好き?ねぇ、私のこと好き?」
「好き好き、だーいすき、あー可愛い。おっぱいでかいし腰細いし、身体エロくて最高」
「あ、っんん…!」
好きと言われ、可愛いと言われ、由仁は満足そうに喘いで男に足を絡ませる。
そんな生活と悠理の身なりから、何度も通報され児童相談所の職員が面会に来る。
その度、悠理は「わたしが好き嫌いするから食べたいご飯がない、だから食べたくない」「お風呂嫌いだから入りたくない」「このお洋服が気に入ってるから」「お母さんは、何も悪くない。わたしが悪い子なの」と訴えていた。
────ずきんずきんと、頭の奥が拍動のように痛みを訴え、由仁は目を薄く開いた。
「………嫌な夢」
吐き捨てるように独り言を呟きながら、由仁は痛む頭を抑えて再度目を瞑り深い深いため息を漏らす。
もう一度「眠ろう」と、意識を真っ黒な影の淵に預ける。
旭を手懐ける為に色々と酷使して摩耗しているせいだと何度目かわからないため息を漏らすと、由仁は次の手筈を考えながら再度寝息を立て始めた。響いていた。




