第四十章「空腹」
「……仕事?」
「そ、おシゴト。頑張れる?働かざる者食うべからず、だよ」
寝起きのような微睡みの中、急に「シゴト」を振られた旭は怪訝そうな顔で由仁を見遣る。
それは旭と由仁が「出会って」数日の事だった。
「お腹、空いたでしょ?お前は中途半端だからね」
由仁にそう言われ、旭は自分の空腹感を自覚する。
中途半端、と無駄に罵倒された事は意図と理由が分からずなんとなくムッとしつつも、現状旭は意識や記憶が混濁し、自分が自分ではない感覚に微睡み、目の前の由仁という絶対的な存在に抗うことも出来ず、何より反抗する意思も生まれず、付かず離れずぬるま湯に浸かるような感覚で目覚めから数日を共にした。
そうして不意にシゴトと言われ、従う以外の術を持たずに頷いてみせると、由仁は大層満足そうに可愛らしく微笑んだ。
誰かに似ているようで、旭は心臓が跳ねるのを感じる。
────これはときめきなのか、動揺なのか、一体なんなのか。
そんな事を考えながら、さっさと進んでいってしまう由仁の華奢な後ろ姿を追いかけた。
相変わらず、視界はモヤがかったような褪せたような物寂しい景色に、時折ぽつりぽつりと点在するヒトとすれ違う。
アレはヒトというより、
「…………幽霊……?」
そんな旭の呟きに、由仁は足を止めて振り返る。その顔は丸い目を驚きに更に丸くし、旭の発言の意図を探るようにまじまじと視線を絡ませてくる。
「ゆーれいって、なにが?どれ?」
有無を言わさないような、謎の強制力のある由仁の言葉に、旭は一瞬言葉を探す。もしかして、由仁にあの「ヒト」は見えていないのか。そんな非科学的な事を言ってバカにされでもしたら、否、元より「中途半端」と散々バカにされているような気がするので、嘘をついても仕方がないかと覚悟を決めた旭は肩を竦める。
「……たまにぽつんと人っぽいのがいたり、それと擦れ違ったりする。由仁に見えてるのかどうか知らねーけど」
大笑いされる覚悟で、旭の視界の端にいるヒトらしきものを目線で追いながら端的に返すと、案の定由仁は笑った。
「ふふ、大丈夫。私にも見えてるよ」
まるで子供をあやすような妙に優しい物言いで返答をしたところが、旭にとっては意外だったような顔をする。そうして、「そうか」とだけ短く返すと、再び歩き出した由仁に着いていく。
そこからややしばらく歩いたところで、黒い黒い塊が少し遠くに確認出来た。
「…………アレは…」
塊、と称するには形状は不安定であった。もやもやとした、霞のような、雲のような。ただ色は闇の色を纏っていて、輪郭がハッキリしない。境界はあるようで、くっきりと線引きされている訳ではなさそうであった。
「……影……?」
「んー、まあ似たようなものかな。旭のおシゴトはね、たまに現れる『影』を……そうだな、引き剥がす……いや、解放してあげること」
ろくな説明も無いまま、背中を押されて影に近寄る。
傍によると感じ取れる、寂しさや恨めしさ、憎らしさ、嫌悪、憎悪、嫉妬、憤怒────様々なマイナスの感情のようなものが流れてくるような感覚に、旭は思わずふらつく。なるほど、これは正しく影だな、と頭の片隅の冷静な箇所で考えながら、誰に教わった訳でもなく影に手を伸ばした。
単純に、こちらに来るようにと語りかけるように。
そうすると影はほんの少しだけ躊躇ったような気配を纏わせながらも、存外素直に旭の方に近寄った。その次の瞬間には手で抱えられるくらいの塊になって、旭の手の中に収まっていた。
由仁が酷く満足そうに声を上げて笑っている、奥の奥の奥の方で聞いたことがあるような電車の警笛に似た音と、人の悲鳴のようなものが聞こえた気がしたが、旭は「ご褒美」と言って由仁に渡されたりんごに食らいつくのに夢中でそれどころではない様子であった。
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夜が更けた。
とっぷりと暗くなった東京の空は、地上のネオンが眩く照らすのと対照的に漆黒の闇にぽつりぽつりと星の瞬きを散らす程度の『星空』であった。
「……北海道の星の方が、綺麗に見えたな…」
ゆりは力無く小さな声で呟きながらベランダから狭い夜空を見上げていた。ゆりの傍にはふよふよとより真っ黒な影が漂い、追い縋るようにまとわりついていた。
まるで小動物の戯れのような様相にゆりは小さく笑いながらその場に座り込んだ。
ゆりの飢餓感は、限界に近かった。
唇が乾く。喉も乾く。心も、身体の内側も、『命』を求めてかさかさに乾いていた。
「……おなかすいた……」
どこかに出かける元気はもう無い。
このまま死んでしまうのかと少し恐怖したが、それはそれで悪くないかもしれないと思い返す。
そも、死ぬとは────ああ、そんな事どうでもいい。とにかく、お腹が空いた。お腹空いた。お腹空いた。お腹空いた、…………おいしそう。




