第三十九章「可愛い可愛い愛してる」
「ぐ、ッう……!」
自分の中に蔓延る由仁の存在が、由仁の影が、まるで『勝手な事をするな』とばかりに心臓の辺りを締め付けてくる。嫉妬深い女だな、と旭が小さく舌打ちを漏らしながら嫌な汗を滲ませ、目の前の千歳に目を向ける。
まるで全てをわかっているような千歳の目に言い様のない苛立ちが募る。物静かな風貌をした初老の男は、その場に立つ旭をしげしげと見上げてにっこりと人の良さそうな笑みを浮かべる。その笑みに嫌悪感に似た何かを覚え、旭は思わず目を背けた。背けた視界の端で、千歳が文机の上に置かれたガラス瓶を手に取るのを見ると恐る恐る視線を千歳に向け直した。千歳の手にあるのは少し古びた、多少中身が入った香水瓶。何となく見覚えのあるそれに、旭は眉間に皺を寄せた。
「……これはね、由仁が僕に唯一オネダリしたモノさ」
とは言え自分で買い直した何本目かだけどね、と笑いながら付け足したところで、千歳はシュッと空間に瓶の中身をプッシュした。たちどころに香る香水の香りは、どこかで嗅いだことのあるような優しいリリーの香り。決して不快感は無い、甘さと儚さを纏う香りだった。記憶にある香りに引っ掛かりを感じながら、旭はこの匂いの記憶を辿る。それは確か、『愛した女の匂い』。
旭は訝しげに千歳の顔を見遣ると、恍惚とした顔で香りの発生源を眺めていた。
「……僕は性癖が歪んでいると思うんだ」
「否定はしねぇ」
「あはは、ということは君は全部知っているんだね?まぁ、知っているからこそ……か。何度も僕の家に足を運んでくれたね、秘密の部屋も覗かれてしまったし。可愛い可愛い『娘』と一緒に、ね」
「……『見えて』んのか、やっぱり」
旭の核心に迫る物言いに、ようやく千歳は瓶から旭に目線を向け直した。
「君は────海道旭くん、だったね。僕の後輩みたいなものだ。旭くん、君は『愛』の種類はいくつあると思う?」
「……は?」
旭は千歳に投げられた質問の意図がわからず、警戒心を強めた眼差しを向けて乱雑に言葉を返す。
「……それはてめぇのストーカー故のレイプを肯定しろって話しか、それとも」
「僕は由良を愛してる。でも、愛した由良との間に出来た由仁の事も愛してるよ、とても可愛い僕の愛娘だ。目に入れても痛くないし、多少のわがままなんて可愛いもんだ。『愛して欲しい』なんて可愛いじゃないか」
はは、と楽しそうに笑う千歳に旭は思わず後退りした。
この男の一番危ないところはこんな所では無いことを、旭は知っているからだった。
「愛してる由仁と愛し合った末に出来た娘だって、可愛くないはずがないだろ?僕は娘には幸せになって欲しいんだ」
「…………」
その先の言葉を、聞いてはいけない。旭の頭の中で警鐘が響く。それは旭はその続きをしっているからこそで、それを知っているのも旭がこの男と同じ事をした結果で知り得た事実であった。直接聞いてはいけない。そう思うのに、まるで蛇に睨まれた蛙のように旭は歪んだ『愛』を纏った千歳から目が離せず、動くことも出来ずにいた。
「君は僕と、僕が愛した由仁との最愛の娘の悠理のことを愛しているんだろ?だからその歪んだ愛を向けて、悠理のことを付け回し、部屋に侵入し、生活の面倒を見るあしながおじさんごっこをして、悠理の下着にその歪んだ愛をぶちまけていたんだ。僕と同じだね!」
にこにこと楽しげに笑う千歳の声に耐えられず、旭はその場にしゃがみ込む。嘔吐感はあるものの、吐くことも出来ない。この男の命を屠ることも出来ない。
おそらくこれは同族嫌悪というものに違いないが、旭はこの男よりは歪んだ嗜好はしていないと自負している、つもりであった。ただ、千歳の言う通り悠理に対し純朴ではない歪んだモノを抱いてぶつけた自覚もあり、苛立ちを隠せずいつになく盛大な舌打ちを漏らす。
「……まぁ、とは言えだよ。僕は僕で自分が相当にイレギュラーである自覚はあるんだ。歳を取ったもんだね」
「…………何が言いたい」
「君の望む事だと思うよ」
そう言うと、千歳は痛む膝を押さえながら『よっこいしょ』と大仰にゆっくりと立ち上がる。千歳は自分よりも背の高い旭を目を細めて見上げながら、手に大切そうに握った香水瓶を旭に差し出した。
「……」
「由仁の事、持て余してるんだろう?僕が引き受けてあげよう。あんなワガママないい女、愛してやれるのは僕だけさ」
「……それ、は……どういう」
「由仁の事を愛してやれるのは僕だけだ。この世で一番愛おしい由良との間にできた愛の結晶、僕の可愛い由仁。僕の可愛い由仁との間に出来た愛の結晶の悠理は、僕以外にも愛してくれる男はいるからね。言っただろう?僕は性癖が歪んでいると自覚しているんだ。歳を取って自分がした事と今言っている事が世間一般には通用しない事も理解しているし、だからこそ悠理の事まで『愛してはいけない』んだ。まぁ愛してるんだけどね、だって可愛い可愛い由良と、可愛い可愛い由仁と血の繋がりがある可愛い可愛い娘……だからね」
千歳は旭の質問に被せるように饒舌に語ると、一息つくように「ふう」とわざとらしく声を漏らして肩を竦めた。
「旭くん、僕の可愛い娘を頼んだよ。あ、悠理の方ね。うーん、でも娘を君みたいなストーカー男にくれてやるのもものすごく気に入らないなぁ。あ、それとね、……────」
掴み所の無い千歳の言葉を聴きながら、旭は致し方なく頷いて踵を返す。
────早くしないと、『戻って来れなくなるよ』。
その言葉を背中に受けながら、旭は千歳の屋敷を後にした。




