第三章「記憶の音」
産まれたての、力の無い、でも生命力に溢れる力いっぱいの泣き声。赤子特有の乳臭さを感じるも、嫌悪感は無い。柔らかく、片腕でもすっぽりと収まる小さな小さな身体。関節も自立しておらず、自分の力だけで立つことも、起き上がることも、ましてや座ることもままならない小さな存在。
ほやほやと、か細くか弱い、庇護対象と知らしめるような泣き声。
それが、一番古い記憶であった。
────こんなにも、可愛らしいものなのか。
愛らしい、愛おしい、可愛らしい。
初めて知った愛という感情に、胸の奥底が幸福で暖かなものに浸かる感覚を覚える。
この子を、生涯をかけて守りたい。
自分が守らねば。
守るのは、自分でなければいけない。
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真新しい畳が青々と陽の光に照らされている。縁側から吹き抜ける、初夏のぬるい風が仏間に供えられた花びらを揺らす。窓際に吊るされた風鈴が、ちりんと涼やかな音を奏で、線香の灰がほんの僅かに零れる。
梅雨明けの初夏らしい、澄んだ空には久方振りに雲は視界の限りは見当たらない。
縁側の先には、鬱蒼とした長らく手入れは施されていないであろう雑草まみれの庭があり、ところどころに小さな花が咲いている。
旭にはその花の名は分からなかったし、興味もなかった。
ぷちぷちと花を摘んでは、器用に結んでいくゆりの後ろ姿を、何をするではなくぼんやりと縁側に腰を下ろして眺めていた。適当な長さに編まれたところでぐるりと輪にして冠にすると、ゆりは得意気に頭に乗せて旭を振り返った。
正直、可愛いなと素直に思いはした。が、旭は「ガキかよ」とだけ小さく返す。
不貞腐れたように頬を膨らませたゆりを一瞥し、面倒そうに溜息を漏らす。
虫の声が響き、風が草を撫でる音がさわさわと響く。
────刹那、空気が止まったような気配に包まれる。
音が止み、静寂の世界。
「来た」
風鈴のような軽やかで涼やかなゆりの声だけがそこに響いた。
「……そうだな」
短い会話を交わして二人は立ち上り、後ろの仏間を振り返った。
チーンとりんの音が鳴り、空気に混じって音の余韻が消えたところで、仏壇の前で影が揺れた。
ゆりが旭に倣って影を祓い始めてから、半月と少し。あれから何度かシゴトを共にし、ゆりの成長はまるでスポンジのようであった。
旭の想定していた以上に上手に事を進めることができているゆりに、自分の目の狂いの無さに満足そうに笑みを浮かべる。
「ゆり、一人でやれるか」
「んー、…多分。できると思う」
なら任せるか、と旭は縁側に座り直す。
アレから、少しずつではあるがゆりにも見えている様子であることを悟り、柱に寄りかかって珍しく目を瞑った。
一方のゆりは、目を瞑った旭の顔を眺め、存外睫毛が長かったらしいことを知り、興味深そうにまだ長いようで短い、でも長い、生活をともにする男の顔を見つめて小さく微笑んで躊躇いもなく影に近寄っていく。
「…おんなのこ」
影に紛れるように、影の中に少女の姿が見える。衣替えをしたばかりの白地に半袖のセーラー服。
髪は顔を隠すように顎先で切り揃えられたボブヘア。
ゆりは、影の中に人が囚われていることに気付いた。影が、人を飲み込もうとしている。
旭がそれを「取り払って」、人を守ろうとしているのだと理解した。以前、「俺が守ってやる」────そう呟かれた、旭の低く力強い決意の声を思い出した。
そんな素晴らしいことを考えるような風貌には到底見えない旭に、数日前ゆりは「もっと優しい顔をしたらいいのに」と、見た目だけで誤解を与えかねない顔つきを指摘した。旭はそんなことはどうでもいいとばかりに相変わらず窓の外を眺め、わざとらしく溜息を漏らしながら「持って生まれた顔の作りはどうにもなんねーよ」とだけ返した記憶は、まだ新しいものであった。
仏壇の前からゆらりと立ち上がった影、もとい少女。それが移動するのを見て、ゆりは慌てて追いかける。
移動した先は少し古い作りの浴室。少女は浴槽に溜まった水を確認すると、浴室に無造作に置いてあったカミソリを手にした。
何をしようとしているのかは、誰の目に見ても明らかである。
影が、少女にそうさせようとしている。
ゆりはそこまでは理解できるのに、何故か動けずにいた。
少女もそうすることを躊躇うかのように少し手が震えているのが確認できる。
そうしたところで、ゆりの身体はようやく一歩踏み出せた。
そっと少女の背後にしゃがみ込むと、細い双肩に両手を置く。刹那、少女は何かに気付いたようにびくりと肩を跳ねさせ、恐る恐る振り返る。そこで初めてゆりは少女の顔を確認する。
まだ高校生になったばかりであろう、あどけなさの残る顔。年相応に丸い頬にはいくつも涙が流れた痕跡が見て取れた。正気と気力と光を失った双眸からは、怒り、恐怖、悲しみ、切なさ、悔しさ、困惑といった負の感情を訴えるようにゆりに向けられた。
それを受け止めるようにゆりは優しく微笑み、彼女の耳元に唇を寄せる。
「だめじゃない。早く、こちら側にいらっしゃい」
慈愛に満ちたような、甘やかで優しい声色が少女の鼓膜を揺らし、それを受け止めたのかそれまで緊張で震えていた乾いた薄い唇はふわりと可憐に微笑んだ。
「旭くん、終わったよ」
風鈴の音が響く縁側に音もなく戻ったゆりは、片手に影を携えて目を瞑る旭に声をかける。
片目だけ開いてゆりの姿を確認した旭は、見慣れた醜悪な笑みを浮かべて喉の奥で楽しそうに笑った。
「その気持ち悪い顔と笑い方がみんなを誤解させるんだと思うな」
「構いやしねーよ」
旭は欠伸を一つ溢してから、ゆっくりと立ち上がって両腕を突き上げるように背筋を伸ばした。
「帰るか」
端的にそう呟いて、ゆりの髪に先程まで彼女が花冠を作っていたのと同じ花を一輪刺す。そういうことをするような男だとは思っていなかったゆりは酷く驚いた顔を見せてから、すぐに嬉しそうに顔を綻ばせた。
機嫌良く来た道を軽やかに進む華奢な背中を数歩先に見つめながら、旭はゆりが先程回収した影を手に同じように機嫌良く眺めている。
初夏の、晴天の昼下がり。
先程、旭達が滞在していた古めかしい家屋は、今も縁側が不用心に開け放たれたままであった。
風が室内に吹き込み、先と同じように仏壇に供えられた花が揺れ、一枚の花弁が散り落ちた。
再度吹き込んだ風は少し強く、少女のものと思わしき乱雑に放り投げられた鞄から散らばったノートや教科書がパラパラと何枚か捲れる。
表紙や中にはびっしりと、消えろ・死ね・ブス・貧乏人などと罵詈雑言が羅列されている。そして、手帳から一枚飛び出たノートの切れ端には、恨みつらみが切羽詰まった文字で記されていた。
おそらくその紙切れは遺書であろうと、ゆりを待つ間に旭はそれを眺めていた。ゆりにはそれは告げていない。
告げる必要はないと判断してのことである。
先程まで少女がいた浴室には、既に人の姿はない。
ゆりは少女を影から解放出来たことにご満悦そうな様子で歌を口ずさんでいる。
浴槽に張られた水は、すっかり赤黒く染まっていたが、少女すらもそれを気に留めてはいなかった。