第三十八章「魂の訴え」
「くそ、すぐ帰るつもりだったのにな」
旭は忌々しげに舌打ち混じりに呟きを吐き捨てる。
薄暗い、「不幸な事故」が続いて工事が頓挫している廃墟。周囲には何のシミかわからない赤黒い痕跡と、持ち込まれた工事用のパイプと工具。割れたガラス片に、長らく放置された埃と蜘蛛の巣に塗れた小汚い調度品。通常の神経であればこんな場所に長いこといるとおかしくなってしまいそうだな、と旭は自嘲しながら埃だらけのベッドに凭れ掛かり直す。
由仁に閉じ込められた訳ではない。
旭は「自ら望んで」この場に留まっていた。
その様を見て由仁は大層満足そうにしていたが、疲れたと言って眠りについた。おそらくあと二日は起きないと思われる。
自分が自分では無くなる感覚に苛まれ、身体を満足に動かせずにいる。意識と身体がリンクせず、感情と意識が水と油のように『自分』を形成するのを拒んでいる。ごくごく一部だけ運良く乳化出来たような箇所が、辛うじて『自分』を保っているようなものだった。
「……気持ち悪ィ…」
自分ではないような何かは間違いなく自分ではあるものの、その自分ではない何かが身体を動かし、思考し、感情を抱くのが酷く不快で堪らなかった。
これは間違いなく、由仁から強制的に取り込まされた『影』のせいに他ならなかった。
気を抜くと『愛されたい』という自分本位な渇望に支配される。
愛されたい、その反面、「愛されたい由仁を愛さなければ」と心がざわつく感覚に、どのくらいぶりなのかわからない吐き気に旭は口元を覆ってえずいている。
「…あの女…タダじゃおかねえ…」
由仁に支配され、企みに気付いた時点でいずれこうなるであろうことは予見してはいたが、自分の中の感情が必死に争おうとすればするほどに言いようのない嫌悪感や焦燥感に身体が思うようについていかない。旭は辛うじて動く口先だけで必死に由仁への恨み辛みを吐き捨てながら何とか自我を保っていた。
気に掛かるのは、やはり悠理のことだった。
待っていろと告げてシゴトを片付けに来たはいいものの、ここで由仁が仕掛けてくる事が想定外であった。
「………いや、待てよ」
焦っているのか?
旭は一つ何かに対しての確信を掴みかけてはいるものの、内に取り込まれた「由仁」がそれを阻む。
思考がまとまらない。
考えれられない。
考えようとすると、吐きそうになる。
楽になるためには由仁のことを考え、由仁のことを思い描き、由仁のことを、由仁、由仁。
そこまで思ったところで旭は再度ハッとした様子で、苦しさに喘いで汗だくの顔を上げ正面を見据える。
「…あんまこういうことはしたくなかったんだがな」
これをすることで、「戻れない」可能性もある。元よりこんなことをしなくても戻れない可能性もある。だが、一番最悪な事態は避けなければならない。
旭は覚悟を決めた様子で立ち上がると、ふらついてまるで自分のモノではないように言うことを聞かない足を叱責するように落ちていたガラス片を拾い上げ、そして力一杯太腿にそれを突き立てた。
思っていたような痛みはさすがに感じず、どくどくと拍動を覚え「生きている」ような感覚を植え付けられた。
後から痛みそうだな、と呑気に考えながら同じようにガラス片が食い込んだ手のひらを眺め、原始的な方法ながらも一応は「返してもらった」ことに安堵した。
ただこれもいつまで持つのかはわからないと、旭は目的の場所へ急ぐ。
本当なら一目散に悠理の元へ行きたいが、現状自分にはそれに対抗する術がない。それどころかその対抗策の一部は敵の手中である。
旭は何度か足を運んだ場所へ、覚束無い足取りながらも懸命に向かう。魂の擦り切れるような感覚に息が切れつつも、今ここで踏ん張らなくてはと意識が逸れそうになる度に走る足にガラスを突き刺す。
「────やぁ、待っていたよ」
旭が来るのを最初からわかっていたかのように、初老の男は声を掛ける。
旭はその様子に少し警戒しつつも、一歩ずつ男───墨田千歳の元に、歩み寄った。




