第三十七章「デジャヴ」
雨の匂い。
独特の湿気を帯びた埃のようななんとも言えないかおりに、ゆりは思わず空を見上げる。
鈍色の空が間もなくの雨を知らせるようで、なんとなく、無意識な様子で軒下に入り込むとほぼ同時に、ぽつぽつと雫が地面にシミを作って数分も経たないうちにざあっと雨足が強くなっていた。
こんな事をしても、意味が無いのに。
頭では理解していても、身体がそれを拒んでいた。
ほんの少しだけ軒から手を差し出すと、ゆりの指先に強かに雨粒が突き刺さる。冷たいとも、その勢いに痛いとも感じない。ゆりはそっと手を引っ込めると細く溜息を漏らしながら再び空を仰いだ。
少し遠くの空は曇天の隙間から光が差している。通り雨らしいと理解し、正面に視線を戻す。雨から逃げるように人々は散っていき、傘を持っていない人が無駄な足掻きのように鞄を頭上にやって道を走っていく様子が見えた。
先程雨に差し出したのと逆の手を持ち上げると、回収したての真っ黒な影がこの世への恨みを誇張するように闇を深めており、その光景はゆりのぽっかりと空いた隙間を埋めるようで心地良かった。
「……寂しい」
ぽつりと呟いた言葉は、雨粒が地面を打つ音に掻き消された。数日旭が不在にしている。
何日経過したかはわからないが、旭が「出かけて来る」と言って、挙句無駄に外出禁止などと言って出てから、何回か空は暗くなりまた明るくなって、暗くなってを繰り返していた。おそらく感覚的には4日程経過したかと思われる。
空腹感に耐えられずに出かけたはいいものの、やる事も無く旭の姿を探すでもなく、たまたま見掛けた影をいつものように解放したところで通り雨に遭ってしまった。
「…さて、と」
まだ止む様子の無い雨を眺めながら、ゆりは小さく呟いて
壁に体重を預けるように寄り掛かりしゃがんだ。そうして手の中にある小さな黒い闇をしげしげと見つめ、小動物を愛でるように手のひらでそっと撫で回す。
影を撫でるゆりの手元から、感情がせり上がるような感覚に思わず眉尻が下がった。
────悲しい、悔しい、辛い、死にたい
そんな負の感情が流れて来るようで、ゆりはきゅっと唇をへの字に結ぶ。
影は一様に負の感情を抱えており、負の感情が漏れ出た結果が影となっている。
ゆりは慈しむように影を抱き締めたところで、ようやく通り雨が少し弱まったようだった。
小降りになったところでゆりはおもむろに立ち上がり、影を雨から守るように身を屈めて『家』に駆けて行った。
────私がいなきゃ、この子は死ぬ
ゆりは心の内のその呟きになんとなく既視感を覚えながら、小さな小さな闇を抱えて走った。
どんなデジャヴなのかわからないが、どういう訳か記憶にあるその光景と行動。
小さな何かを、抱えて、走って、とにかく無我夢中で逃げて逃げて逃げ回って、全身が痛くて辛かった。
ような、気がして、誰もいない部屋に入り込んで言いようの無い不安と安堵に涙が溢れて、わんわんと子供のように大声で泣きじゃくった。
誰もいない不安と、誰もいない安心。
屋根がある安心と、見知らぬ家の不安。
自分が産んでしまった小さな闇への不安と、確実な繋がりを感じる安心。
現状の不安と、未来の不安。
生きることの不安。
死ぬことの不安。
死ぬことの、安心。
相変わらず、自分がどうしてここにいるのか、自分が本当は何者なのかわからないゆりは、誰もいない室内で小さな身体をより小さく丸めて蹲り、その胸の内に影を大切に大切に抱き締めてじっと旭が帰ってくるのを、ただただ待ち続けていた。




