第三十五章「陽気の裏側」
「今日も会いに来ないな…」
小さな呟きが残暑の空に溶けるように消えていく。
時折吹く風が庭木の葉をさわりと音を立てて揺らした。その風は夏の残り香と共に縁側に届き、鼻腔の奥をくすぐった。
目には見えない風を追いかけるように視線を室内へ向ける。
どこかの商店が年賀の挨拶に持ってきたカレンダーが、八月の月を示していた。
ひと月程か、と声にならないごくごく小さな言葉を唇の中に封じ込め、なぞるように日付を目で辿る。
千歳はふう、と少しわざとらしい大きなため息を漏らしてから、痛む膝を押さえながらぎこちなく立ち上がり、敷きっ放しの布団の横に座り直した。
いつもは一週間と空けずに会いに来ては、ねだった菓子を買って貰えない子供のような、お気に入りのおもちゃを取り上げられた子供のような、自分にとっては可愛らしい程度の恨みの籠った目を向けられていたのを思い出し、思わず小さく笑って肩が揺れていた。
欲しいものなら何でも買ってやるのにと天井を仰ぎながら畳に転がり、頭だけ布団に乗せた。
少し昼寝でもしようか、そう思って目を瞑る。
瞼の裏の少し赤っぽい暗闇には、かつて愛してどんなに欲しがっても最後の最期まで自分のものにならなかったモノと、愛した結果自分のモノになったのに零れ落ちたモノの存在が映った。
もう一度手にしたい。
何度目になるのかわからないため息が部屋に響く。
そうして息を吸い込んだ途端、ふわりとリリーの香水の香りを感じて慌てて上体を起こした。
彼女に唯一買ってやった香水の香り。
直接欲しがられたわけではなかったが、珍しく「いい香り」と感情を口にしていたので、買ってやったところ毎日つけていた香水の香りなので間違えるはずがない。
「…由仁、来てくれたのか」
名前を呼ぶも、音も気配も言葉も無い。
「由仁?」
自分の声だけが、情けなく周囲を揺蕩うようで謎の焦燥感に駆られるようだった。
痛み軋む膝を押さえ、千歳はゆっくりと立ち上がって再び縁側に出る。庭木を見回し、風に揺れる草花を眺め、背の高い庭木の奥のまるで刑務所の塀のように高く聳える壁の上に目を向け直す。
ぼんやりと逆光で蜃気楼のように歪むその輪郭を見つけ、思わず表情が綻ぶ。
色素の薄い栗色のロングヘアが風に靡いて、ふわりとスカートが翻る。
記憶にある通りの、細いながらも艶かしいラインの太腿から脹脛が想像され、華奢な割に肉付きのいい胸元と対比するように小さな頭を飾る可愛らしく美しい顔。
その顔を飾り付ける双眸は、まっすぐに千歳を見つめていた。
黄色を思わせる視線は、やはり偽りの色を重ねていた。
冷ややかにも思えるその目の色は、千歳を酷く高揚させる。愛しい、可愛い、抱き締めたい。
こんなに愛しているのに何故彼女にそれが伝わらないのだろうかと千歳には不思議でならなかった。
「……由仁、どうして僕の手の届かないところにいるんだ」
切なげに紡がれたその言葉は、果たして「由仁」には届いたのだろうか。千歳の目に映る由仁はまるで忌々しそうに目を細めこちらを見ているようで、千歳の背筋にぞくりと甘美な刺激が走るようだった。
────私の事、愛してくれないくせに!




