第三十三章「その手を」
「みーつけた」
静寂に響く女の声に、心臓が嫌な跳ね方をした心地に支配される。声がしたと思わしき方向に顔を向けると、見たことのあるような、ないような女の姿があった。
「約束通り、あなたの事使ってあげる」
使ってあげる、とは一体どこ目線で言っているのかこの女は。
何もない、虚無の空間。
声も出ず、自分が何者なのかも分からず、足も枷がついているかのように重怠く動かない。
ぼやけた視界、フィルターのかかったような音の鈍い世界。
ここがどこだか、分からない。
分からないが、自分を見つけ出したのはこの女であった。
ここがどこかは分からないが、今わかっているのはこの女が自分の前にいる。そしてこの女は、自分を探していた。
ただ、それだけ。
差し出された手を見つめ、本能的に「この手は取ってはいけない」と警鐘を鳴らす。
それはなぜ?
相反して「この手を取らなくてはいけない」と自分の意識が訴える。
それも、なぜ?
どちらが自分の意思なのか分からない。
そうしてほぼ無意識に、彼女の手を取るべく右手を伸ばした。
彼女の手に触れた瞬間、一気に記憶が吹き出すように頭に駆け巡る。
激痛と呼ぶには温いほどの苛烈な痛み。
全身の骨と言う骨が神経が繋がったまま無理矢理引きちぎって断裂したかのような痛みと、頭蓋が割れて砕けたかのような痛み。喉の奥は血の味で鉄臭く、衝撃で断裂したかのような痛み。声を出そうとしても血反吐しか出ない、焼けるような痛み。痛い。とにかく痛い。痛みと表現するのも生ぬるい、痛み。
痛すぎて、もはや痛いのかどうかすらわからない。痛くないのかもしれない。
怖い。死ぬことも怖いが、自分が一番守りたかった、小さな女の子がこれから酷い目に遭うかもしれないと思うと、その心の痛みを想像してしまい、恐怖で視界が白くぼやけていく。
「あーあ、失敗しちゃったじゃない」
意識の外の方でそんな声が聞こえた気がするが、何を言っているのか認識ができない。
「…ま、いっか。あなたのことは私が責任持って使ってあげるからね」
ぼやけた視界が何も見えなくなるまでそんなに時間はかからなかった。
右手だけが、妙に温かく感覚が残っていたが、何故だかは分からなかった。
「あなたにはね、してもらう事があるのよ。そうしたら、あなたの大好きな悠理と一緒にいかせてあげる」
「…ゆ…り」
「そ、あの子と一緒になりたいんでしょ?好きなんでしょ?」
「…………………てめぇ」
「あは、思い出しちゃった?これだから『中途半端』は。仕方がないなー」
そう言って人差し指を旭の額にとんと押し付ける由仁が、唇の中で小さく何かを呟くと旭の意識や神経を支配するように情報が流れ込む。
面食らったような戸惑いの眼差しを向ける旭に、由仁はふわりと悪戯な笑みで返す。
「こ、れ」
「キミにやってもらいたいこと、わかった?」
『心』なんて不確かなモノを形容するのはなんとなくむず痒い、そんな事をぼんやりと意識する旭の『心』と『身体』と『意識』が、黒く影っていく。
自分の『想い』とは裏腹に、『殺せ』と訴える自分の声のような目の前の女のような、自分が愛した女のような声が聞こえてきて、それがどういう訳か堪らなく心地良かった。
黒く塗り潰されていく感覚に酔い、声に酔い、ぬるま湯のような揺蕩う温度に酔い痴れる。
怖い。ただただ、目の前の女に対しての畏怖の感情が膨れていく。
黒い感情が集まると、それが人の手には負えないような膨大なものになった時。一体、何がどうなるのだろうかと、そんな事を考えたところでなけなしの意識のようなものの最後のピースが、塗り潰されるのを感じた。




