第三十二章「蜜の味」
これは俺の持論ではあるが、歪んだモノはどんなに真っ直ぐに伸ばしても決して綺麗な真っ直ぐにはならず、どこかで歪みが生じるものである。
彼女のことを調べているうちに母親の素行その他にも目が向くようになったが、この栗沢由仁という女はわりととんでもなく歪んだ性根をしているようだった。人の不幸はなんとやら、を地で行く女であった。
悠理がこの環境で育って全く歪まずにいるのが不思議なくらいであった。
『いつものように』、どこか抜けている悠理の自宅で今日は締め忘れたガスの元栓を締め、開けっ放しの窓を閉め、どういう間違いなのか食器用洗剤で洗濯をしていたためそれをやり直してやったところでそろそろ講義が終わって学食で昼食を取る時間になるか、とスマホを見た辺りで普段は感じない違和感を玄関先に感じた。
まさかこんな時間にあの真面目な悠理が帰って来た?体調でも崩したか?
そう思いながらなるべく音を立てないように玄関先に向かい、ドアスコープからドアの外を見た。
「……?」
明らかに何者かの気配はあるのに、姿が見えない。
警察か、と警戒しながら室内に戻り窓の外をカーテンの隙間から確認するも、それらしい気配は一切なかった。
この得体の知れない違和感の正体が知れず、室内に目線を戻すとギョッとして目を見開いた。
室内に、女の姿があった。
いつの間に?いや、それよりこの狭いワンルームで音も気配も感じずに侵入を許した?
そして、先ほどから感じていた違和感の正体がこの女であることに気が付いた。
ぼんやりとした輪郭からかろうじて女であることは感じ取れる。
俺は夢でも見ているのか、それともこれは所謂幽霊的なものなのか、ここが事故物件などとは聞いていないがもしそうなら早急に悠理を引っ越しさせないと。と、息をするのも忘れてその異質な光景を見つめていたが、息苦しさから慌てて酸素を取り込むとそのぼんやりとしていた女の輪郭がはっきりとした。
「…ゆ、り…?」
名前を呟いた瞬間に背中から強かに床に倒れた。
「が、っは…!」
強打した背中から肺に衝撃が加わり、息が詰まるような感覚と激痛にせっかく息を潜めて静かに過ごしていたのに無駄に声が漏れてしまう。
仰向けに倒れた俺の身体を跨ぐ様に馬乗りになった女の姿が、窓から差し込む光を背にしているせいか妙におどろおどろしい影を纏っているように見えた。
上に跨られている、挙句首を絞められているのはわかるが、重量は不思議と感じないし首元の痛みも感じない。ただ、じわじわと気道が圧迫されていく感覚だけが苦しさとして残っている。
不思議と、身体が動かせずにいる。声もあれから出ない。
俗に言う金縛りの様な感覚と、影と流れた髪の隙間から覗く仰々しい眼差しが俺に覚えのない恨み辛みを訴えているのだけは、なんとなく理解できた。
こいつは悠理ではない、と、理解できる。そして「生きた人間」ではないということも、なんとなく理解した。
オカルトに興味もないし、幽霊なんて不可思議なものの存在を信じているわけではないが、これはそう言うものなのだろうと理解はできた。
悠理と勘違いする程に、悠理によく似た女。
悠理と同じ色素の薄い髪は、悠理と違い腰まで長く伸びている。悠理に似て全体的に華奢な身体付きではあるが、悠理と違ってふくよかな胸元、対比するように華奢さを強調する腰が悠理と違って艶かしい身体をしている。色白なところは悠理と似ているか。
いや、悠理と似ているのではない。
悠理がこの女に似ているのか。
「…栗沢、由仁」
気道が塞がれまともに声にならなかったが、その名前を無意識に呟いたところ急激に酸素が吸い込まれた。思わず咽せながらも呼吸を整えていると、至近距離に女の顔があってまじまじと自分の顔を覗き込まれていた。
正直恐怖が勝って少しちびるかとも思ったが、不意に「この女が悠理を殺そうとしている」となんとなく理解するとそれどころではなくなった。なぜそんなことがわかったかは、自分でもわからない。ただ、悠理が危険だということはわかったため、無我夢中で身体を起こし、実体があるのかないのかわからない女の身体を押し除けて玄関に向かった。いつの間にか身体が動く様になっていたが、妙な倦怠感とへばりつくような憎悪と嫉妬の感情に嫌な汗が溢れる。
あれはなんだ?本当に栗沢由仁か?彼女は死んでいる?幽霊?死んでいないとして、生き霊とかそう言う類のものか?
普段の自分では考えない様な意味のわからない思考に支配され妙な混乱に胸の奥がざわつくような感覚を覚える。これが不安感というのならばそうなのかも知れない。
とにかく悠理が、危険な気がする。杞憂で終わればそれでいい。取り返しのつかないことになればそれでいい。
何年か振りの全力疾走をし、大学に向かう。悠理のアパートから大学へは徒歩10分。全力で走って5分程度。校内に入ってから悠理の取得している授業と現在時刻から考えて学食にいるだろうとそちらへ向かう。案の定悠理は手製の弁当を広げて食べ始めたところで、いつも一緒にいる友人と談笑していた。ここまで来たはいいが、何をどう伝えたものかとそこまでは考えていなかった為少し考えるように会話が聞こえる位置に座って上がった息を整えた。
「悠理、最近ストーカーに遭ってるんだって?」
そんな会話が聞こえてくる。ストーカー?自分がそんな目に合わない様にこんなに目を凝らしているのに、その目を掻い潜ってこいつをつけ回しているやつが?そう思って苛立ち握った拳に力が入る。そいつのことは後々始末するとして、それよりも悠理の心の安寧のために「母親」をどうにかしなくてはならない。
たまたま近くにいた生徒に「ルーズリーフ一枚くれ」と断って、返答を聞く前に半ば無理やりパッケージを開いて中から一枚拝借する。ついでにペンも借り、紙に端的に内容を走り書いて乱雑に折り畳んだ。
悠理の友人が「警察に行くよ!」と息巻いて食器を片付けに立ったタイミングを見計らい、メモを悠理の手元に置いた。その手紙を見つけた悠理は少し周囲を見回してから遠慮がちにそれを開いて、一気に顔色が変わった。怯えたような、絶望したような、戦慄したような、恐怖に支配された顔だった。堪らなく可愛い。
その恐怖は、果たして手紙の内容についてなのか、その内容の事案が露呈することなのか、はたまた両方なのか。流石にそこまでは悠理の心の中は図れないが、悠理にしては珍しく後先を考えない様子で学食を飛び出した。
『母親が君を狙っている』
書いたのはそれだけだが、悠理には充分意図は伝わったようだった。
だが、後先を考えていないのは自分も一緒だったと後悔した。このまま悠理が帰宅すれば、悠理は母親の亡霊のようなものと対峙してしまうかもしれない。そうなれば、悠理は殺されるかもしれない。
悠理は俺が守ると決めた。悠理に悲しい顔はさせたくない。俺以外に泣かされたくない。俺以外の手にかかって欲しくない。
悠理に害をなそうとする存在が憎い。
悠理に悲しい顔をさせる存在が疎ましい。
憎悪、憤怒、嫌悪、言い様のないドス黒い何かが自分を取り巻くような感覚に、まるで自分が自分ではなくなっていくような恐怖にも似た何かを感じる。
悠理が学食を飛び出して数十秒だけ遅れて後を追いかける。意外にも足は早かったようで、また知らなかった彼女の一面を知れて少し嬉しく感じる、自分の感情の振り幅が忙しい。
不安からか走りながらも頻りに周囲を確認する悠理を数十メートル先に視認し、ほんの少し安堵した。走り疲れたのか、横断歩道を渡り切ったところで足を止め、トートバッグを肩に掛け直しながら再度周囲を見回す悠理と視線が絡んだ。一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。目が合っていたのは時間にして数秒程度ではあるが、点滅していた信号が赤に変わり、隔てるように車道で待機していた車が走り出した。
とにかく、悠理に害をなそうとする存在は排除しなくては、そう思ったところで肩に何かが触れた気がした。慌てて振り返ると、肩越しに悠理に似た女の顔があった。
「そんなに憎いなら、殺しちゃえばいいのに」
くすくすと笑う女の声は、理屈はわからないが鼓膜を直接震わせるように脳内に響いた。周りの喧騒を無視したその声に、ゆっくりと瞬きをする。一回、目を瞬いただけなのに、たった今まで至近距離にあった顔は無く、思わず周囲を見回すと少し離れた場所に女の姿があった。
状況がわからず困惑したのを見てか、女は楽しそうに口元に手を当てて笑っていた。
「ね、私の事殺したい?悠理にご飯食べさせないで、気分で殴って、悠理の前でセックスしてた私のこと憎い?ねぇ、嫌い?それとも好き?」
「な、に…」
この女の言っていることが、何一つ理解出来なかった。しかし、この女を悠理と会わせたくない。そう思って振り返ると、まだ歩道側は赤信号で向こう側とこちら側を隔てるように車が往来している。時折行き交う車の隙間から悠理が不安そうな顔でこちらを見ているのに気付き、ともかく場所を変えようと再び女の方を振り返ると、その姿はなくなっていた。おかしい。そう思って姿を探すように数歩踏み出し横断歩道から離れると、少し先の交差点で壁に凭れながらこちらを見て笑っている女の姿が見えた。
「早くこっち来ないと、悠理の事男に犯させて殺しちゃうから」
距離が離れているはずなのに、女の声が脳内に響くなんとも不快な感覚と本気で殺してやろうかと思うほどの憎悪が自分の中に駆け巡る。車道側の信号が黄色になったのか、速度を上げて無理に直進する車と右折レーンにいる車以外は停車をし、数秒の後に信号は赤になり、歩道が青になると、きっとあの子は理由もなくこちらに来るのだろう。よく分からないが、そうする気がしてならない。とにかく場所を変えねば、と思い再び女に目を向けると、数メートル先の交差点からまた移動しているので、無我夢中で追いかけた。
「旭君、そこの建物なら誰も来ないよ」
甘い誘惑のような言葉と、直接瞼の裏に映像を投影されたようにここから少し先の建物が見えた。要はここに来いと誘われているのだろう、これが漫画やアニメならば明らかに罠だろうと視聴者目線ではわかりはするものの、どういうわけか「ここに行かねばならない」という強制力が働いているような感覚に支配される。
行きたくない、行かなくては、そんな相反する感情を無視してその建物に向かって足が動く。
行かなくては、殺さなくては、愛してる、好きだ、殺す、死ね、今行く、自分の中で感情がぐちゃぐちゃにかき回される気持ち悪さに吐き気を催す。
そうこうしているうちにほぼ無意識に由仁が指定した取り壊し寸前の建物に到着すると、指定されたわけでもないのに勝手に足が屋上に向いていた。
重い鉄の扉には南京錠が取り付けられていたが、何か強い力で無理矢理捻ったかのように歪んで壊れている。錆びた音が耳につき、嫌な音で思わず肌が粟立つ。
扉を開いた正面に、何が楽しいのかずっと笑っている女の姿が映り、不快感と嫌悪感、謎の焦燥感と慕情の気持ちにおかしくなりそうだった。
「私の事、愛してくれる気になった?」
何をどうしたらそうなるのか、全く分からない。
どちらにしても逃げ場はないので、女に歩み寄る。
「ね?悠理なんかより、私の方がずっといいでしょ?私の方が女として魅力的だと思うけどなぁ、いっぱいイイコトしてあげれるのにな」
わざとらしく胸元を引っ張り、その服の中の膨らみを見せつけてくる女。確かに女の身体としては出るところは出て締まるところは締まった良い身体をしているとは思う。だがそれとこれとは話が別であり、自分にとってはそれが悠理か悠理でないかでしかなかったのでどちらかと言えばどうでも良かった。そんな気持ちを見透かしたのか、心の声が漏れていたのかは分からないが、女は突然不機嫌そうに眉を寄せた。
「何よ!悠理悠理悠理悠理って!!どいつもこいつも!!!」
突然の激昂に思わずたじろぐが、同時に本来の目的を思い出した。この気狂い女と、悠理は絶対に会わせてはいけない。
「…あ、そっか。悠理のことさっさと殺しちゃえば、アナタも私の事愛してくれるのよね?」
「…何を勘違いしたらそんなおめでたい答えになんのかは知らねーが、そんな間違いは絶対に起きねーよ」
「そ?なら悠理のこと、殺してみる?」
────それが嫌なら、私のことここから突き飛ばして殺しちゃえば?
そんな囁きが頭に直接響く。何度目か分からない、直接脳を揺さぶり支配するような声に、自分が自分ではなくなるような感覚とそれを俯瞰して見ているような自分とそれに抗おうとする自分が拮抗していて、楽になりたくなる。
殺さなくては。
殺す。この女を。少し力を入れて身体を押すだけ。
そうすれば楽になる。早くしないと、悠理が、悠理を、悠理に────
「────ッ、だめー!!だめだよ!!」
ああ、楽になれる。この高さから飛び降りるのは、いくらなんでも流石に怖い。だけどそのほんの少し踏み出す勇気のかわりに、手を引いてくれる存在がいて、その手に引かれるままここから飛んだらもうあとは楽になる、そう思ったのに、世界で一番愛しい女の声が聞こえて、どうしてか、どういう訳か、強い未練の様なものを感じて反対側に引っ張られる感覚に右手が包まれた。
『中途半端』に、堕ちた。
それがわかるのは、もう少しだけ後になってからだった。




