第三十一章「ひみつの気持ち」
「悠理、最近ストーカーに遭ってるんだって?」
学食で手製の弁当を頬張る悠理の前にオムライスの乗ったトレーを置いて級友が声を掛けて座る。
小さなハンバーグを口に運んだばかりのところだったらしい悠理はマイペースにもぐもぐと咀嚼しそれを飲み込んでから小さく首を傾げてみせた。
「ストーカーって?」
まるで自分のこととは捉えていない様子の悠理の相変わらずな様子に友人は「ハァ」と深くため息を漏らし、スプーンでオムライスを一口分分け掬った。そのスプーンの上を口に運ぶ前に悠理に向かって視線を向け直すと、悠理に至っては再度キョトンとした顔をしているので友人にしてみては頭痛がするような思いであった。
「あのねぇ、アンタ顔が可愛くて勉強はできるけどそれ以外のことはほんっとにポンコツ!後ろつけ回されたりとか、公共料金の請求書が郵便受けから抜かれたり!これがストーカーじゃないって一体何!?」
「えー…それはほら、たまたま行き先とか帰り道が同じだったとか?あ、公共料金のやつはちゃんと返してくれたよ。でもそれ持ってコンビニに払いに行ったら『ここ領収印押されてるし支払い済みですよ』って言われてね、わたし払ったやつ勘違いしたのかな」
「………」
友人は呆れてものも言えない、といった顔でオムライスを食べ始めた。それを見て悠理も小さく握ったおにぎりを頬張る。やや暫く無言で食事を進める二人の周囲はガヤガヤと少し騒がしい。
「…で?いつから?」
「え?何が?」
食事を終えた友人が再び口を開くと、悠理は先程の話題などすっかり忘れたかのような素っ頓狂な返答をする。そうして少しばかり考えるように視線を漂わせながら食べ終わった弁当箱を片付けてようやく「ああ」と声を上げて正面に目を向けた。
「帰り道おんなじ人とか、電気代いつの間にか払ってたりとか、風邪ひいた時にみかんの缶詰玄関に掛けてくれたりとか、夜ふかししちゃったら『そろそろ寝ろよ』って非通知で電話くれたりとかそういうやつ?」
半年くらいかなぁ、と悠理が返すと友人は悠理のあまりの危機感の無さに頭を抱えてしまった。
「アンタほんといい加減にしなよ!高校からの付き合いだけど毎回こんなボケボケだったらこっちがヒヤヒヤすんのよ!前見てるはずなのに電柱にぶつかるし、何もないところで躓くし、砂糖と塩間違えるし、麦茶と間違えて麺つゆ飲むし!」
「ひどーい」
「酷くないわ!事実!いいから警察行くよ!」
悠理の友人は彼女を警察に連れて行くべく食べ終わった食器を返却しに立ち上がった。悠理もそれを見て弁当の包みをトートバックにしまい直し立ち上がったところで机に折り畳まれた紙があることに気付く。落ちていたのか、置かれたのか、いつからあったのか。悠理はその紙を拾い上げ周囲を見回すもそれらしい人の姿はなく、なんとなくその紙を広げてみた。
「……!ともこ、ごめん先帰る!」
ともこと呼ばれた友人は食器の返却口付近で振り返り、「はー!?悠理待ちなさい!」と声をかけるが、悠理はそれに構わず学食を後にした。手の中には先程の紙があり、それは悠理によって握り締められすっかり皺になっていた。
────秘密が漏洩する
わたしの秘密、それは大好きで大嫌いなお母さんのこと。
お母さんはとっても可愛い。笑うとお花みたいに綻んで、目がキラキラする。声も優しくて、小さい頃に歌ってくれた子守唄はとっても心地よかった。
お母さんはとっても怖い。一度怒ったら気が済むまで叩くか蹴るかして、痛くて、苦しくて、悲しくなった。
いつだったかお母さんが話してくれた、「お父さん」のこと。
「ゆりのお父さんはね、お母さんのこと毎日可愛いね大好きだよって言ってくれたんだよ」
そう言って話すお母さんの顔はとっても可愛くて、だけどお父さんの話しをしているうちに段々イライラしてしまいには怒って手が付けられなくなった。
最初は怒る意味と理由が分からなかった。
物事がほんの少しだけ理解出来るようになった頃の記憶にあるのは、「なんであの女を」と怒っていたので、父は母ではない誰かを愛したのだろうと幼心に察してはいた。
その頃辺りから、色んな男の人が代わる代わる出入りするようになり、裸で母と肌を重ねていたが、この行為の意味がわかるようになるまではただただ母とその男の人が何かの動物みたいでものすごく怖かったのだけは覚えている。
毎日お腹が空いていたし、身体も頭も痒かったし、服はボロボロで嫌な匂いもしていたけど、学校に行けば給食も食べられたしわたしが臭かったからか遠巻きに嫌なことを言われることはあってもお母さんみたいに叩いたり蹴ったりしてくる事はなかったから、学校は好きだった。
とにかく、お母さんを怒らせないようにしないと。いい子でいないと。毎日そんな事を考えて過ごしていたのは覚えている。
お母さんに、褒めて貰おうとしないこと。褒めてもらうようなことがあったら、「当てつけか」って叩かれるから。
お母さんを、見ないようにすること。「アイツに似た顔で私を見るな」って、髪を引っ張られるから。
お母さんに、不満を言わないようにすること。「誰のおかげでこんな生活になってると思ってるんだ」って、ご飯を食べさせて貰えなくなるから。
お母さんを、否定しないこと。「お前まで私の事を蔑ろにするのか」って、お腹を蹴られるから。
お母さんを、ちゃんと見つめること。「なんで私の事を見ないのよ」って、血が出るまで殴られるから。
お母さんの機嫌をしっかり見ること。「お前の血で部屋を汚すな」「お前が私を見るな」「お母さんは悠理の事愛してるよ」「悠理、大好き」「近寄るな」「一緒に掃除しよう」「今日のご飯は何が食べたい?」「こっちにおいで」「視界に入るな」「アンタなんて生まれてこなければ良かったのに」
そんな『日常』が突然終わったのは、小学五年生のある日だった。
知らない大きな男の子が、白いお花で作った冠をくれて、お姫様になれたような気持ちで、久しぶりに嬉しい気分で家に帰った。家の前に、知らない男の人と女の人がいて、「悠理ちゃん、一緒に行こう」って言われて怖かったのを覚えている。
「迎えに来たのよ、もう大丈夫。何も怖いことは無いわ」
女の人が、わたしと目線を合わせるようにしゃがんで優しい声で話しかけてきた。
「…お、お母さんは?お母さんも一緒?」
「お母さんは行かないよ、大丈夫」
何が大丈夫なのか、これっぽっちもわからなかった。
痩せぎすの身体は軽々と女の人に捉えられて抱き上げられてしまったが、今日は学校が午前で終わる日で給食がなかったから、昨日のお昼に給食を食べて以来何も食べていなかったからあまり力が入らなかった。
「やだ、お母さん、お母さんっお母さん助けてっおかあさーんっ」
自然とぽろぽろと涙が出て、必死にお母さんを呼ぶ。
玄関のドアが少しだけ開いて、チェーンが見える。その隙間からお母さんの顔が見えた。
お母さんは、笑っていた。
ああ、お母さんに捨てられたんだ
そう理解するまではほんの一瞬で、怖くて切なくて悲しくて涙が止まらなかった。
女の人が優しく抱き締めてくれたが、お母さんと違う柔らかい匂いがした。お母さんのお気に入りの香水の匂いがしないのに、お母さんに似たふっくらとした胸の感触が柔らかく、余計にお母さんが恋しくて堪らなくなった。
捨てるなら、最後に抱き締めて欲しかった。
お母さん。
走馬灯のように駆け巡る記憶と、これは過去の思い出と理解すると同時に視界が赤く滲んでいく。
いたい。お母さんに叩かれた時よりもずっとずっとずっと痛い気がする。腕が痛いのに力が入らない。足も痛いのに立ち上がれない。お腹も、頭も、腰も、色んなところが痛くて、音がくぐもっている感じがする。わからない。
「女の子はまだ息があるぞ!」
「こっちの男は……ッおい!早く救急車!!」
痛いのに、怖いのに、どうしてか安心したような気持ちになっている。




