第二十九章「ご褒美」
閉塞感に息が詰まる。息の仕方がわからない。吸って、吐いて、本能で刻まれたその行為すら意識しないとままならない。
霞む視界にはぼんやりとした輪郭がうっすらと赤く滲む。赤く滲んで、ぼやけて、また赤くなって、そうして見えなくなる。
まるで水の中にいるように、耳の奥が詰まったように外界の音が何重ものフィルターを通して届くように聞き取れない。そも、音がしているのかすらわからない。
「ねぇ、あなたここで何してるの?」
多分、女だと思われる声。妙にはっきりと聞こえたその声に惹かれるように振り返ると、朧気な視界の中でそこだけ切り取ったようにぽっかりと人型にクリアになった。
だが、自分にはそれが「なに」かは分からない。認識が出来ない。どことなく不安に支配される心中を察したかのように、その人物の口元だけが孤を描いたような気がする。
「ね、何してるのって聞いてるの」
「……わ、…………わか、らない」
絞り出した声は妙に掠れていて、長らく声を発することをしていなかったような心持ちだった。声の出し方が分からない。でも知っている。そんな不可思議な状態で絞り出した声は、まるで自分のものではないような感覚だった。
「あなた、自分の名前はわかる?ここはどこか知ってる?どうしてここにいるか、知ってる?」
畳み掛けるような問いかけに多少たじろぎつつも、務めて冷静に状況を考える。
先程まで感じていた気道の閉塞感が薄れたのを確認するように深く深呼吸をしてから周囲に視線を投げる。
現実離れしたように荒廃した、褪せた景色。そこに所々浮かぶ黒い影が妙におどろおどろしい。自分と目の前の「女」しか存在は確認できないが、気配としてヒトの存在は感じ取ることが出来る。
自分の名前?一体なんだったか。
ここがどこか?見覚えはある気がする。
どうしてここにいるか?
「……引っ張られた」
ぽつりと呟くように発せられた言葉が、鈍く周囲に留まる。
時間にしてほんの数秒にも満たない時間ではあるが、そこだけ時が切り取られたかのような絶妙な沈黙が支配する。
「ふ、ふふ」
堪らず、といった様子で女が笑い出す。不穏な空気に思わずたじろぐと、ずいっと女は身を乗り出すように身体を寄せてきた。
「大正解、私があなたのこと引っ張ったの。でも半分失敗しちゃった。ごめんね?」
何に対しての謝罪かわからないながらも、女が頬に恭しく触れて来た刹那まるで電撃が走ったように「走馬灯」のように景色がぐるぐると見える気がして思わず目眩がしてよろめいた。
「……お前……あの子に何しようとした」
掠れた声で恨みの籠った眼差しを女に向けたところで、先程よりも女の輪郭がより鮮明に形を取る。
腰まで伸ばした長い髪は色素が薄く、相貌は認識出来ないが楽しげに笑う口元だけは視認出来る。あの子に、よく似ている。そんな印象だけが強烈に焼き付いて離れない。
「お前、あの子を引っ張ろうとしたな。あの子に何をするつもりだったんだ」
「あの子って、だぁれ?誰のこと?」
とぼけたような声でちょこんと首を傾げる仕草に、無性に腹立たしさを覚える。
「……殴ったのか。飯も食わせないで、部屋に閉じ込めて、泣いたら口塞いで、部屋に男連れ込んであの子の前でそう言うこともしてたのか」
「…なに……」
雰囲気で面食らったような顔になったのがわかった。
この女に触れられ、小さな女の子が感情任せに殴られたり食事を抜かれるだけじゃ飽き足らず、性行為を見せつける悍ましい光景が流れてきた。これはあの子の記憶なのか、この女の記憶なのか、それは定かでは無いしどうでもいい。
「…ははは、驚いた。「半端」な状態だと無駄な自我なんか持っちゃって」
目の前に大きく黒い影のようなものが膨らんだのが見えた。影はそのまま目の前の女を飲み込むように包み込んだかと思ったが、女が影を飲み込んだかのように影が吸い込まれて見えなくなった。
鮮明になった視野。目の前の女は、30歳前後かとは思うが、風貌は可愛らしく美しい顔立ちをしていた。色白の肌に、艶かしいボディライン。色素の薄い栗色の髪は、腰まで長く伸びてはいるが緩いウェーブを描いて綺麗に整えられていた。
「……栗沢、由仁か」
「あら、驚いた。私の事も知ってるんだ?そうだよねぇ、君ぜーんぶ調べてるんだもんね」
くすくすと楽しげに笑う姿は実年齢よりかなり幼く見える。その姿は悠理によく似ていた。いや、悠理がこの女に似ているのか。そう理解すると吐き気がする心地であった。
「旭くん、君が知ってるように私もあなたの事知ってるの。あなたが何をしたいのか、何が好きなのか、何をしたのか、何をしようとしたのか、全部知ってるの。この意味、わかるよね?」
「…脅す気か。この状況でてめーは一体何を脅すつも…」
「わかってないな、私が最初に何をしようとしてこうなったのか」
「……ッ…て、め…」
「うふふ、お利口さん」
言いようのない恐怖心に似たものが脳髄を駆け巡る。
強烈な服従心と、相反するような庇護欲。しかし植え付けられたこの女に対する服従心に抗う術はなく、状況を鑑みて一応は従う素振りは見せることにしてみた。
「いいこ。いっぱい可愛がってあげるわね」
屈託のない笑顔でそう告げた女の顔は、自分が一番愛した女の顔と瓜二つで、思考に影が差してマーブルのように混じるのを感じた。
「じゃあまずは適当に、あそこの男でいいわ。連れてきて」
由仁が人差し指を向けた先。今にも死んでしまいそうな程に正気のない顔で、駅のホームに佇む男。本能で、どうすれば連れて行けるのかが理解できた瞬間、男の背後に近寄っていた。
そっと肩に触れると、途端に流れてくる負の感情。
自分にはどうでもよく興味のない事由ではあったが、この男が借金苦でこのまま特急が通過するタイミングで飛び込もうかと悩みに悩んで、件の特急電車を2本見送ったところ…というところまで無駄に理解できた。ならば話は簡単である。文字通り背中を押してやれば、互いに楽になれるだろう。
そこまでわかってやることができると、死にたいのに死にたくないと決断力のない男の耳元に口を寄せた。
「飛べばいいじゃん、死にたかったんだろ」
男ははっとしたような顔で足元に目を落とす。今更何を躊躇うことがあるのか。まどろっこしい。
「ほら、電車来るぞ。これ逃すと今日の通過特急はお終いだぞ」
「ひっ…」
カチカチと歯のなる音が小さく耳に届く。
それを掻き消すようにホームにアナウンスが響いた。
『間も無く特急列車が通過いたします。大変危険ですので、黄色い点字ブロックの後ろに下がってお待ちください』
終電間近で、それなりに混雑したホーム。
「ほら、一歩だけ踏み出せ。手伝ってやるから」
そう囁きかけると、男は足を震わせながら一歩踏み出す。周囲の人間はこの男の所業に気付いたかのようにようやくざわめき始めたが、そんな言葉をこの男の耳に届かせてはまた決心が鈍る。俺はこいつをあの女のところに連れて行かなければならない。そうしなければ。由仁の為に、こいつを。
そうしている間にホーム上の異変に気付いたらしい特急電車の運転士が警笛を鳴らし、そのけたたましい異音に周囲に悲鳴が上がる。今更押しても手遅れな非常ボタンのベルが鳴り響き、その信号を受けた列車は甲高い金属の擦れる音を鳴り響かせながら急ブレーキをかけたようだったが、もう遅い。
震える名も知らない男の背中をとんと優しく押してやると、男の身体はホームの下に吸い込まれるように消えていき、間も無く侵入してきた速度を落としきれなかった列車に巻き込まれる音と血吹雪を撒き散らしながら男の命と身体を容赦なく挽肉にしていった。
まさしく阿鼻叫喚とはこの事だな、と他人事のように感じながら、男がどす黒く纏っていた影を引き受けて由仁のところに戻ると、「よくできました」と甘やかすように褒めて頭を撫でてきた。
それはそれは心地良くて、この子の為ならなんでもしてやりたいと、愛おしく感じてたまらずその華奢な身体を抱き締めた。
これは、ほんの少し前の出来事であった。




