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懸想の影  作者: 梦月みい
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第二章「逢魔が時」


ここは嫌だ。

ゆりは本能でそう思った。


線香の匂い、古びた柱時計の音、ゆらめく蝋燭、そして色とりどりの花。

一際目を引く、豪奢な花瓶に活けられた竜胆。

ゆりの心は酷くざわめいていた。


ここは嫌。

ここは怖い。

ここは────



********



「ゆり」

旭は襖に寄りかかって呆けるゆりに低い声で呼びかけた。

呼ばれた主は、びくりと大仰に肩を揺らし、さもはっとしたような顔で声の主に目を向けた。

その瞬間の、泣きそうな、安堵したような、不安そうな、愛おしそうな、なんとも言えない感情を孕んだ眼差し。

旭は心地良さそうに笑う。


「────旭くん、その顔気持ち悪い」

「あーそうかい、そりゃありがとよ」


よっこいせ、と年寄りくさい掛け声と共に、細い両足を投げ出して襖に寄りかかって座るゆりの斜め前に胡座をかいて腰を下ろした。

片手を伸ばすと簡単にゆりの小さな身体を捉えられる至近距離。それでも多少の距離を空けているところに、ゆりはまた不安そうな、安堵したような曖昧な感情を整った顔に携えた。

その顔を見て旭は膝の上に肩肘を乗せて頬杖をついて小さく溜息を漏らす。片手をゆりの髪に伸ばし、指先でそっと掬うように一束に触れる。細く柔らかな髪は旭の指の中からさらさらと零れ落ち、まるで砂時計のようにそのまま指の隙間から消えていった。


「…………セクハラぁ」

「ハイハイ」


少しずつではあるが、二人の距離感は変わっていった。ゆりも旭に多少の軽口を叩くようになったし、旭もゆりに遠慮しながらも触れるようになった。ゆりの軽口で旭は怒ることもなければ、旭が触れてもゆりも嫌悪感を顔に出すことはなかった。

不安定に揺らぐゆりの心に、旭はとにかく丁寧に寄り添っていた。


「旭くん」

「なんだ」

「ここは嫌、ここにいるのは怖い、帰りたい」

「────」


旭は答えなかった。

そうだろうな、と含ませながら髪を撫でていた指を頬に滑らせ、そしてそのままあやすように頭を撫でた。

退室してもいい、旭はそうは思ってはいる。しかしまだ確かめたい事がある為、敢えて動かずにいる。


「ゆり、もう少しだけ我慢しろ。我慢出来たらいいもん食わせてやる」

「……」


ぐす、と小さく鼻を啜る音が聞こえた。


「泣いてもいい、多分もう少しだ。第一段階の答え合わせがしたいだけだ」


ゆりには旭のその言葉の意味は理解出来なかった。ただ、旭が言うなら何が何だかはわからないがそうなのだろうと頭を無理矢理納得させる。


しんとした室内にはゆりの啜り泣きが響いていた。


しばらくして、旭は遠くの物音に気付いて啜り泣くゆりの唇を手で塞ぐように覆う。驚いて瞠目するゆりに目線を向けないまま、旭は「し」と人差し指を自らの口元に当て、少し遠くの障子に目を向ける。

ギッ、ギッ、と古い板間を踏み締める音が近付いて来て、ゆりは驚きと恐怖で旭の腕に縋りついた。

そのうち、スラッと滑りのいい軽い音を立てて障子が開くと、ゆりにとっては「今までに見たことがない」程の真っ黒な影が現れる。

大きさこそ旭とさして変わらない程度ではあるが、今まで見たことがない程に闇が深い、触れると吸い込まれそうな程の漆黒であった。


無意識に旭の腕に縋ったゆりの腕は小さく震えており、旭は「なるほど」と一人で納得した様子でゆりの小さな身体を自分の後ろに隠した。しかしこの場から動くつもりはないらしい。

ゆりと旭はじっと影の動きを見つめる。どうやらこちらには気付いていないらしく、ゆり達のごく近くにやって来ると何やら影は一人で何事かを呟いていた。

揺らめいていた蝋燭は、その言葉を受領したのかはたまた拒絶したのか、不自然に大きく燃え上がり、そのまま消えてしまった。途端、室内は夕焼けの西日が差し込み、ただでさえ元々明るくなかったのに輪をかけて赤く滲んで闇が溶けていた。

飾られていた、季節外れの竜胆の花が床に散らばる。黒い影が、竜胆に被さっているのをゆりは確認し、『握り落とされた』ことがわかった。


────こわい


ゆりが叫ぼうとした刹那、旭はゆりの腕を強く引き込み所謂お姫様抱っこのような形で横抱きに持ち上げる。

『まだ喋るな』

そう、何故か脳内に直接旭の声が響いたゆりは、必死に自分の唇を両手で押さえてこくこくと何度も頷く。

そうして旭はゆりを抱いたまま音も無く後ろに飛ぶと、ゆりは恐怖に双眸をぎゅっと瞑る。


確実に、明らかに、漆黒の影と『目が合った』。ゆりはそう確信した。

単純に恐ろしかった。

腹部が殴られたように痛むのを感じ、先程まで旭が優しく撫でていた髪は無理矢理鷲掴まれたかのように痛むのを感じ、言いようのない喉の乾き、そして飢餓、頬も傷んで下腹部も鈍痛を感じる。


「ゆり、もう大丈夫だ」


旭がそう声を掛け、ゆりは涙ですっかり視界がぼやける世界に目を向ける。

大きな掃き出し窓と、アッシュグレーのヘリンボーンの床。先程と同じように夕焼けは赤く世界を染めていたが、先程よりはおぞましさは幾分かましになっている。

換気の為か細く開かれた窓の傍で、風に煽られて品のいいレースのカーテンがゆらゆらと揺らめく。

その光景を見て、ゆりは先程の光景を思い出さずにはいられずにぼろぼろと涙を零した。


────あぁ、わたしはまだ泣けるのか。


次第に景色は闇に溶けて、静寂に室内が包まれる。

一頻り泣いたゆりも、泣いた気恥しさと心細さから旭の袖を控えめに握って離さずにいて、普段ならからかいそうな旭もそれを笑うことも咎めることもせず、ゆりが落ち着くまで無言でその場に座していた。


「───ゆり」

「ん……なぁに」

「さっき、何が見えた」


ゆりは口を結んだ。

その顔は、言うべきか、言わざるべきか、悩ましそうに視線をゆっくりと泳がせ、やがて旭の手元に辿り着く。しんとした室内で、ゆりの震える小さな吐息が微かに空気を揺らす。そうした中でようやく目線が持ち上げられ、旭の切れ長の双眸とかち合う。

「……影、が……今まで見たことないくらい、真っ黒な影。でも、わたしはアレを知ってる。知っているんだと思う、目が合った。あの影もわたしを知ってる」

喘ぐように乱れた吐息混じりに語られた言葉に、旭は双眸を細めた。

「……ゆり、アレを『祓う』必要がある。だがそれは今じゃない。今それをすると、お前は飲まれる」


ヒュッと、ゆりの息が恐怖に詰まる音が響く。目に見えて恐怖に震える小さな手と肩。


「ゆり、大丈夫だ。俺がお前を守ってやる」


恭しく、旭は初めてゆりの身体を抱き締める。想像していた通りの冷ややかな肌に、滑らかな質感。少しでも力を込めると簡単に壊れてしまいそうな繊細な腰。そして自分よりも頭二つ分ほど小さく、胸元にすっぽりと納まる華奢な身体であった。


不思議と嫌悪感は感じない様子で、甘やかなその言葉にゆりは涙の浮かんだ双眸を重たそうに持ち上げて旭の顔を見上げる。


ゆりは知っている。

旭が、恐いことも、痛いことも、嬲るようなこともしないことを。


旭は気付いている。

ゆりが、怯え、求め、そして堕ちたことを。


影は無い。

茜の色が、ただそこにある二人の顔を、闇に溶かそうと暮れていた。

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