第二十八章「空を飛ぶということ」
『記憶はどこまである』
そう問われてからゆりは朧げな記憶をひっそりと辿った。
旭には告げなかったが、うっすらと自身の記憶と思わしき光景は脳裏に浮かぶ事はある。
ただその光景は断片的であり、果たして本当に「ゆりの記憶」なのかは定かではない。
泣きながら自分を叩く女の人、常にお腹が空いていて異臭がする身体、汚物を見るような周囲の眼差し、そして少し大きな手と白詰草の花冠、不器用で気色悪い気配。そして、「わたし」を呼ぶ声と、それから、それから。
「ここ」に来てからの自分の事は、よくわからない。
旭はぼんやりと窓の外を眺めるゆりを眺め頭を掻いた。影を見つけては「行かなきゃ」と妙な使命感に駆られるゆりを嗜め、留める日々。自分が教えた事とはいえ、ここまで早く囚われる事になるのは想定外であった。
初めて「彼女」に出会った時には認識出来なかった筈が、どういう訳かゆりと同じ顔に見えて仕方がない。最初はどうだったかと思い返してみても、「彼女」がどんな顔だったのか、声だったのか全くわからない。
「ああそうか、俺も囚われてたのか」
そう気付いた時にはすでに遅かった。何よりも守りたかったゆりのことを巻き込んでしまった後だった。
いっその事、ゆりに全て打ち明けてしまおうか。何度そう思ったかわからないが、旭の懸念はそうすることでゆりの心が本当に壊れてしまって、「二度と取り戻せない」かもしれない。
「ゆり、悪いちょっと出てくる」
「……わたしは?」
「留守番」
「………」
しゅんとしたような、拗ねたような、諦めたような、絶望したような、そんな顔で旭を見てから再度窓の外に目を向ける。
「……ゆり」
「………」
無視をするようにあからさまにふいと顔を背けたゆりを見て、旭は思わず苦笑いを漏らしてからそっと背後に近寄る。
少しだけ、ほんの少し躊躇ってから、旭は控えめにゆりの背後からその小さく華奢な身体を抱き竦めた。
僅かにびくりと肩が揺れるも、ゆりは特に抵抗する素振りは見せない。
「帰ったら話がしたい」
「……、は、なし…?」
「おう、俺の話だ。聞いてくれるか」
「…旭くん、の…?」
旭はゆりに自分の話をしたことがない。話と言われなんとなく身構えた様子のゆりだったが、想定外の内容に少し驚いたような顔をして振り返った。
「俺の昔話。聞きたいだろ?」
おちょくるように頬をくすぐってから、旭は名残惜しそうに身体を離す。
「すぐ戻る」
幾分か先程よりも機嫌が治った様子のゆりの頭を遠慮がちに撫でてから旭は外出の準備をし始めた。
「じゃ、行って来る。ちゃんと家に居ろよ。外出禁止。知らない人と喋るのも禁止な」
「もー、うるさいっ子供扱いしないで!」
本格的に拗ねた顔のゆりを見て思わず旭は肩をすくめて笑う。相変わらず笑い方が下手くそではあるが、いつぞやの醜悪さはほぼ無くなっていた。
そうして旭が出かけたのを見送ってから、ゆりはいつから付けっぱなしになっているかわからないテレビに目線を向けた。
『次のニュースです。昨夜、北海道××郡××町の民家にて女性の遺体が発見されました。
警察によりますと、近隣の住人より「とてつもない異臭がする」と通報があり現場に向かったところ、この住宅に住む岩見美園さんと見られ、首には何者かに絞められた痕があることと数日前現場から立ち去った不審な女性の姿が目撃されたことから殺人事件として調査を進めています。なお遺体は死後数週経過していると見られ…』
「…岩見…美園…」
聞き覚えのある名前をなんとなく復唱してみる。その瞬間、ずきんと側頭部がまるで偏頭痛のように痛む感覚に襲われゆりは小さく呻いた。
何か、忘れている。
大切な何か。
そうは思いつつも思い出すことを本能で拒絶しているのか、思い出そうとすればするほど頭痛が酷くなっていくようだった。
諦めたようにゆりはソファの背凭れに深く寄りかかって天井を仰ぎ見て深く息を吐き出した。
「…あれ……」
ごめんなさいたたかないで、そう泣きながら訴えても容赦なく分厚いハードカバーの本の背表紙で側頭部を叩かれた。
ような、気がする。
一瞬だけそんな光景が浮かんで、「ああ、これはわたし」となんとなく納得しながら、現実から逃げるようにそっと瞼を落とした。
ゆりの視界は真っ黒に塗り潰され、外界から齎される情報を遮断する。
遮断したはずの瞼の裏がスクリーンになって、ゆりはとある雨の日に何かに誘われるように一歩足を踏み出して、空を飛んで「解放された」映像が見えた。
物語の主人公のように、広い空を飛んでいる自分。
ただそこに広がる空は、曇天の鈍色に染まっていた。




