第二十七章「白詰草」
「ゆり、お前記憶はどこまである?」
突拍子もない問いかけに、ゆりは齧りかけのサンドイッチから口を離し目をぱちぱちと瞬いた。
記憶、と言われたところで、ゆりには旭と出会う前の事に覚えは無い。申し訳無さそうな顔で眉尻を下げ、小さく首を振るのを見て旭はゆりの前に胡座をかいて座った。
「俺と一緒にいて、それ以外の事だ。なんかねーのか」
「なんか、って…うーん、ざっくりしてるなぁ」
口端にマヨネーズを付けたまま天井を仰ぐように視線を漂わせ考えるポーズを取るゆり。少しばかり首を傾げると、小さな声で「あ」と呟きを漏らす。
「なんか、夢なら見た事」
「夢?」
「そう、んーと……前に旭くんとどっかの田舎に行ったことあったじゃない、あの時に夢見た」
ゆりにとって、それは夢だったのか現実だったのかは定かではない。
だが、自分であって自分では無いような、知っているような、知らないような。そんな感覚と共に自分の目と視界を持っているのに俯瞰しているような、不思議な感覚だった。
詳細は朧気にしか覚えてはいないが、老婆の首を、へし折った気がする。
そんな夢だった。
そこまで聞いて旭はふう、とため息を漏らしながら悩ましげに額を押さえた。
────由仁が、侵食している。
旭は一つの確信のようなものを得る。
「…あの女、これを狙って………「ゆり」になるつもりか」
小さな呟きがゆりの耳に届き、怪訝そうな、不安そうな顔を作る。
「ゆり」
「っは、はい」
「しばらく影に触れるのは禁止だ」
「え」
想定していなかった旭の指示にゆりは面食らったような顔をするも、それを無視して旭は立ち上がる。
「勝手に外出するのも禁止」
「ちょ、え、なんでぇ」
別段外出を禁じられること自体困る事はないものの、突拍子もない理不尽な指示にゆりはどことなく悲痛な声を上げる。
旭は全く意に介さないような態度で出かける支度をし始め、それを見たゆりは慌てて縋るような態度を取る。
「旭くん、どこ行くの、ねぇわたしは?お留守番なの?」
「言っただろ、お前は外出禁止だ。ここにいろ」
いつになく厳しい口調でピシャリと返され、ゆりはあからさまにしゅんとしょげた顔をする。まるで存在しない頭頂部の耳が垂れ下がるようなそんな感覚を覚える感覚に襲われた旭だが、無駄に歯を食いしばって謎の衝動を堪える。
「……………日が沈む前には帰ってくる。寝ててくれ……」
「お土産はお花がいい」
「わーったわーった」
絞り出すような声で、まるで懇願しているかのような物言いにゆりは渋々頷く。
そうして後ろ髪を引かれるような思いで玄関先に向かう旭を見送り、少しばかり拗ねたような態度でソファに腰を落とす。
膝を抱え、抱えた膝先に額を押し付けて目を瞑る。
「由仁」
この女はいつもどこにいるか想定がつかない、と苛立ち混じりに独り言を漏らしながらも、だいたいアタリをつけた所にはいてくれている。
旭はその理由をわかるようなわかりたくないような、そんな気持ちで名前を呼ぶと、今日は幾分か機嫌がよさそうな顔で建物の影から顔を覗かせた由仁と目が合う。
「もー、今日は約束してないでしょ?なぁに?私に会いたくなったの?」
からかうような顔で旭に近寄る由仁をじっと見つめる旭の視線は、怒気を孕んだようなものであった。さすがの由仁も多少たじろいだようにぎくりと肩を揺らす。
こういう所は、ゆりと似ているなと旭は一種の感動のようなものを垣間見たような心地になりながらも構わずに口を開く。
「単刀直入に聞く。お前、墨田千歳に会ったか」
「……「ソレ」はいつの話を指しているの?」
否定も肯定もしない由仁の言い方だったが、旭にはその回答だけで充分だった。
「皆まで言わずともそれだけ言えばわかるだろ」
「………」
「お前の思惑通りには事が進まない可能性が出てきているぞ」
「うるさいっ!!!」
機嫌が良さそうだと思ったのも、ものの数分の命だったなとまるで他人事のように旭は思いながら、しかし多少のこちら側の意思表示はしておかないといけないと旭は身構える。
さて、今日は頭を踏み付けにされるのか、心臓を握られるのか、無理矢理慰みものにされるのか、はたまた。
そこまで考えたところで視界が急激に暗闇に支配されす。
何故急に暗くなった?と考える刹那焼けるような灼熱の激痛が旭を襲う。
「…ッ、う、ぐあああああ…!!」
今日は目玉を抉られたか、と痛みに呻きながら旭は蹲る。
「舐めた口きかないでって言った筈だけど」
冷ややかに響く由仁の声と、痛みが熱と変換される旭の絶叫。
「ッは、はぁ、はァッ」
喘ぐような粗い呼吸を繰り返す旭は痛みで溢れた涙で滲む視界を睨む。
「今度また舐めた口きいたら、二度と見えないようにしてやるんだから」
「…悪かっ、た…ほんの少しだけ…調子乗った…」
本能的に視界を取り戻した事に安堵しながらも、この怨念の塊のような女を未だ熱が感覚として残る視界に捉えた旭は申し訳程度の謝罪をする。
「許して欲しかったらちゃんと私の欲しい物を持って来て」
「……わかってる」
わかっている、しかしそれを持って来るつもりはない。その言葉を飲み込んでこれ以上癇癪を重ねられないうちにと旭は立ち上がる。
「…ひでー目にあった……まぁ自業自得か…」
目頭を揉むようにして旭は次の目的地へと向かう。
たどり着いたそこは大きな病院で、消毒薬の匂いと白や淡いピンクと水色が基調となった院内。
何度もそこに通っているのか、旭の歩みは迷いなく目的の部屋に向かって進んでいく。
そうして部屋に掲げられた名前を確認し、恭しく室内へと足を踏み入れた。
機械的な電子音が拍動を刻む音と、空気の漏れるような人工的な呼吸音。真っ白なベッドに横たわる身体を上から下まで眺めて、愛おしげにその生気のない頬に触れた。目を覚ます気配も兆しも感じられず、わかりきったその状況に旭は何度目かわからない溜息を深く漏らす。
「……お前の事だけは、ちゃんと守るから」
その誓いを静かに告げてから、旭は名残惜しそうに病室を後にする。
ゆりを待たせた家に帰る道すがら、約束した花を調達する。我ながら女々しいなと旭は自嘲しながら、ゆりにはきっとこの思いは届かないことも知っている。
それでも、何かの期待を持ってゆりにその花を差し出す事にした。
「ただいま」
まんまと居眠りをしていたゆりはその声で意識が覚醒し、夢見心地なまま旭を出迎える。
「んー…おかえりなさぁい…」
「ほら」
ゆりの目の前に差し出された、一輪の花。
「……これ」
「花が欲しいって言ってたろ。仏花でも良かったんだぞ俺は」
ぶっきらぼうに呟く旭から差し出された花を受け取り、ゆりは微笑んだ。
「ありがとう」
手には、「あの頃」と同じように咲く白詰草。
花言葉は、「約束」と「私を思って」。




