第二十六章「面影」
見えては、いない。
だが「感じて」はいた。
愛した女の影を感じ、愛した女の匂いを感じ、愛した女の遺伝子を感じた。
「そこ」にいた。
知らない「男」もいた。
あの男ではない。
憎い。
僕だけがあの人を愛していたはずなのに。
それは数日前だったのか、数分前だったのか、数年前だったのか。
もはや僕にはわからない。
でも、「会いに来てくれた」のはわかった。
「僕が求めたあの人」ではないのも、わかってはいた。
どうして見えないのか、なんで見せてくれないのか。
「もう1回、来てくれないかな」
茹だるような夏の日差しが強く差し込み、庭木に深い影をもらたした。
蝉の声に掻き消されるように、呟いた独り言は掠れて消えていく。
かつてこの離れで軟禁していた娘は脱走し、また一人ぼっちになった。今は自分がここに軟禁されている。それでもいい。彼女が「また」来てくれると、信じている。
墨田千歳は、動きがすっかり鈍くなった脚を摩りながら空を見上げて笑う。
何が求めたもので、どれを欲していたのかもわからない。
あのこは、幾つになるのだろうか。
一体、どこで間違えたのだろうか。
そんなことばかり考えているうちに、憎かった人物とはまた違う気配を感じる。
「…ああ、また来たのか」
見えないがわかる。
何をしに来たのかもわからない。
自分を迎えに来たのかと思えば、それとはまた違う。
もどかしい。
千歳は初老の瞼を伏せ、一つ小さく咳払いを漏らす。そうして深呼吸でもするかのように深く息を吸い込んで、ため息でもつくように深く息を吐き出した。
千歳の目の前には、高いへいがある。これは墨田家が外界の一般庶民とは違うと誇示するような、豪邸をより豪邸足らしめる為の高い塀ではあった。ただ、今の千歳にはこの塀は刑務所のそれのように感じていた。自分は、文字通りここに閉じ込められている。
かつて少女を、閉じ込めたように。
その事実を隠蔽するために役割を変えたそれであるようにしか感じられない塀であった。
その塀の上に、誰かがいる。
その気配を感じていつものようにそちらに目を向ける千歳の目に、今までとは異なる光景が映し出された。
「……あれ?」
わざとらしく目を擦り、首を傾げる。
そうしてまた目を向けた先には、何もない。ただの壁が高く隔たれているだけの、いつもの光景でしかなかった。
「…そうか……、あいつか」
そう呟く千歳の口元には、笑みが携えられていた。
かつての自愛と利己と執着に塗れた顔ではなく、穏やかで優しげなものであった。
旭はその顔を見て、なんとも言えない心持ちを覚えた。
聞いていた話と随分と印象が違い、困惑の方が大きい。
元より、旭自身も由仁の話だけを鵜呑みにはしてはいなかったが、それでもあの男の印象は真逆に近いものへと変わっていた。
それでも、視線が孕む執着心のようなものは否定できない。
旭の懸念が、別の方面へと変わりつつあった。それがいい方向なのか、はたまた逆なのかは、今のところ判別はついてはいない。
高く隔てる壁に凭れるように寄り掛かり、顎先に手を当てて考えあぐねている様子であった。
「…いや。こいつが良くても今のゆりじゃダメだな」
引っ張られ過ぎている。
そう結論付け、姿勢を正す。
元は確かにゆりを「こう」したのは自分である。
だからこそ、自分はゆりに対しての「責任」がある。
そこまで考えて、旭はゆっくりと先程までいた塀の上を見上げた。
なすべき事は、これではっきりした。
いっそ清々しいような感覚に自嘲気味な笑みを溢す旭は、「ヒーローでもなんでもねぇんだけど、ガラじゃねえし」と呟きながらポリポリと後頭部を掻いた。
夏の夕方に差し掛かる時刻。
少し遠くの空に、入道雲がこちらと対峙しているようだった。




