第二十五章「欲しいもの」
明るかった空になんの前触れも無く分厚い雲が掛かる。
数分もおかず、ザアッと激しい音を立てて雨粒が地面を叩きつけ始めた。
時刻は夕方に差し掛かった頃合い。
叩きつける雨粒を避けられるはずもなく、通行人は有無を言わさずに雨に当たって濡れていく。往来のど真ん中で由仁はその光景をぼんやりと眺めて佇んでいた。
雨に打たれる由仁の事は、誰も気にしてなどいない様子であった。
まるで、由仁の事など見えていない。そこに存在していないかのように。
「忌々しい」
吐き捨てるように呟いた由仁の言葉は地面を叩く雨粒の音に掻き消される。ぎり、と奥歯を噛みながら一組の母子に向かって指を指す。
「旭。アレ。アレが欲しい」
由仁の後ろにいる旭に端的に指示を飛ばすと、まるで感情のない人形のように旭はその母子に近寄る。
母親を纏うように影が巣食う。なるほど、と旭は小さく呟きながら点滅し始めた横断歩道で渡らずに止まった母親の背中にそっと触れる。
────夫に金を食い潰された挙句DV三昧浮気三昧か。
そこまで影の感情を読み取ると、自分の膝より少し上に頭がある程度の小さな子供に目を落とす。どういう訳か、子供がはっとしたようにこちらを見上げて屈託のない笑顔を向ける。被った雨合羽から雫が滴り、無意識に子供の目線がその雫を追っていく。母親の差した折り畳み傘が風に煽られ、雨粒の強さを強調するように打ち付ける音がバタバタと忙しなく鳴いているようだった。
「……連れてってもいいぞ、置いてってもいい」
そう呟いた声は、「母親には」直接は聞こえていないハズだった。
しかし、その声を発し終わった直後、幼子の小さな手を取っていた手が僅かに震えて少し力が入ったようだった。
「おかーたん、おてていたいたい」
力の強さを訴えるように舌足らずな声が雨音に混じり、その音に負けるように母親が「ごめんねぇ」と小さな声で返した。
横断歩道が赤信号になり数秒、車道はとっくに青信号になって車が飛沫を上げながら走っていく。交通量の多い、比較的大きな交差点。若干速度を超過した大型トラックが交差点に差し掛かる時、母親は子供の手を引いて道路に飛び出した。
雨の雫が地面を激しく叩く音と、風が少し強めに吹き荒ぶ音。それを切り裂くように響くクラクションの音に混じってブレーキ音と幾つかの悲鳴に支配されるも、僅かコンマ数秒で強かに何かと何かが衝突するような音と、間に合わずぶつかったそれらの上を轢きながら踏みつけて砕いて磨り潰すような音が辺りにまるで作り物のように奏でられていた。
「連れてったか、まぁその方が幸せだろうな」
凄惨な現場となってしまった交差点のど真ん中。旭はズカズカと躊躇いも無く近寄り、母親だったものの傍にしゃがんでもはや原型を留めていない肉塊を眺めて小さく呟いた。千切れた小さな腕を握って離さずにいたらしい、腕だったと思わしきものを眺めてから立ち上がると、小脇に母親が纏っていた影を抱えてその場を立ち去った。
「ほら、お姫様」
拗ねたような態度で長らくシャッターの降りた、とっくに閉店した商店の軒先にしゃがむ由仁の元に戻ると旭は先程回収した影を差し出す。
ふん、と傲慢な態度でそれを受け取った由仁は、影を両手で包んで慈愛のような、嫌悪のような、なんとも言えない色を双眸に灯す。由仁は決して自分で「影祓い」のような真似をする事は無かった。最初はこの傲慢で高慢な態度故に先程揶揄したようにお姫様気質で面倒な事はしないタチなのかと思っていた旭だったが、近頃それが認識違いだった事に薄々気付き始めていた。そして、それを口にして直接確認する事は悪手である事も悟っていた。
「じゃあ、俺は帰るぜ」
「勝手にすれば。────分かってるでしょうね」
「わーってるっつの、あの男だろ。日が悪いんだよ、数日待て」
今日は機嫌が悪そうだ、それだけであまりここに長居するのは得策ではない。理由も無い。
雨足が弱まり始めた街中をゆっくりと歩く。
先程の事故現場には、パトカーとどう見ても無駄足であろう救急車が数台。規制線が張られ、スマホを向けたり現場を覗き込む野次馬を横目で見つつ旭は進んだ。
とりあえず、ゆりを迎えに行こう。今日はどこで暴れてるんだか。
自分が撒いた種とは言え、気付いた時には大き過ぎる程に成長してしまった花。
戻れなくなる前に、とは思いながらも、旭にはまだその手段は分からなかった。




