第二十四章「懸想と影」
結論から言って、母が嫌いだった。
死んだ事を知って、なんとも言えない気持ちになった。
父への愛が深かった事が嫌い。
優柔不断な性格が嫌い。
年のわりにおっとりした喋り方も嫌い。
自分に、顔立ちが似ていた所も嫌い。
名前を一文字貰ったらしいのも、嫌い。
全部全部全部全部、嫌い。大嫌い。死んじゃえ。あ、死んだか。
父に対しては特に何も思わない。
自分を激しく叩いた事も、どうでもいい。ちょっとムカつくけど。でも状況を考えれば仕方がないとも思う。
それでも母の事を愛していたらしいのは見て取れてわかるから、結構ムカつく。母の事は愛してたのに、私の事は愛してくれなかったのがムカつく。まぁ自分と血の繋がりが無いってなったら仕方ないのかな。でもムカつく。何も思わないって思ったけど、やっぱり腹立つ。嫌い。でも死ねまでは思わない。どうでもいい。
墨田千歳?コイツが一番ムカつく。
私の事、愛してるって、可愛いって散々言ったのに。全部、私の影のあの女を見てるだけだった。嫌い。気持ち悪い。大嫌い。殺したい。
悠理も、せめて母と同じ文字は使いたくないと付けた名前に負けず、母にも私にも似てる。大嫌い。可愛くない。いや私の娘なんだから顔は可愛いけど。
嫌い嫌い嫌い嫌い、皆嫌い。
大嫌い。
死んじゃえ。皆、死んじゃえ。
なんで私ばっかり。
なんで私の事は愛してくれないの?
悠理も、あんな出自のくせに、なんで愛されてるの?
嫌い。私がお母さんなのに、なんで私の事は愛してくれないの?なんでそんな怯えた目で見るの?
悠理の事も、悠理を愛した旭も、嫌い。
大っ嫌い。
私の事も愛してよ!
愛してくれないなら皆死ね!
────どん
身体を突き飛ばすか細い腕の感覚を感じた瞬間、スローモーションのように景色が落下していく。いや、自分が落下しているのか。
そう理解すると同時に、ふわりとそれまで自分にまとわりついていた黒い感情が、先程まで恨み辛みを吐き出していた屋上に取り残されるように佇んでいるのが見えた。
ああ、自分はあの屋上から飛び降りたのか。なんで死のうとしたんだっけ、もうなにもわからないけど、どす黒い気持ちの束は、「あの人」に託した。
「わたしが、ちゃんとこの気持ち昇華してあげるからね」
ゆりは遥か遠くの足元の、地面に強かに「人だったもの」が叩きつけられる音を聞きながら影を抱きしめる。
この影は、愛していたのに裏切られた、悲しみに黒く塗り潰された心。
前に比べると景色は随分とクリアになったようだ。
足元を覗き込むと、先程わたしが「背中を押した」少女だったものの残骸のような肉塊と、悲鳴を上げながら立ち止まる人、スマホを向ける人。今まで見えなかった景色になんとなく足取りが軽くなり、自然と鼻歌が漏れる心地だ。
「ただいまぁ」
住宅街の一角にある、少し豪奢な一軒家。
律儀に玄関から入り、「昨夜用を済ませた部屋」をなんとなく覗いてみる。昨日のまま、天井の飾り梁に括られたベルトの先に、昨夜まで「人だったもの」がぶら下がっている。人だったものの足元には、穴という穴から漏れ出た体液やら汚物やらに塗れていて悪臭が立ち込める。
ゆりは満足そうに笑ってぱたんとドアを閉め、リビングにて虚無感たっぷりに佇む旭のもとに向かう。
「旭くん、ただいま」
「…………おー、おかえり」
旭はいつからか、醜悪に笑うことがなくなった。
ぎこちない、バツの悪そうな顔をする事が増えた。ゆりには理由はわからなかった。
「ね、旭くん。ちゃんと影いっぱい集めてきたよ。偉い?」
わたしのこと、愛してくれる?
すっかり女の顔をするようになったゆりに、相変わらずバツの悪そうな顔を向ける旭は、奥歯をぎりっと噛み締めてからそれはそれは深く溜息を漏らす。
「…………俺の愛した悠理じゃない……」
その言葉は、旭が「今日の食事」として持って帰ってきた供え物の果物や菓子パンを吟味するゆりの耳には、届くことはなかった。




