第二十三章「インテルメッツォ」
それは、ヒトに対しての気持ちの現れと、ジブンに対しての気持ちの連なり。
可愛い、素敵、麗しい、守りたい、一緒にいたい、愛してる、大好き、かっこいい、憧れ、眩しい、なんで、憎い、どうして、妬ましい、羨しい、愛しい、煩い、好き、苦しい、悲しい、楽しい、お願い、怖い、嫌い、好き、殺して、かわいそう、殺す、死ね、お願い愛して。
感情には様々な色があって、かたや桃色、かたや真紅、かたや藍色、そうしてそれらが混ざって混ざって混ざって、真っ黒になっていく。
抱えきれない、大きな真っ黒な『影』になったとき、ジブンだけで抱えていられなくなって、気がついたらそれを手放して楽になっていく。
「さて」
由仁は大きく背伸びをして機嫌良さそうに立ち上がる。
この街は、『影』が多くて捗る。
いじめ、不倫、嫉妬、仕事、結婚、離婚、浮気、出産、差別、プライド、憎悪、嫌悪、悪意、虐待。
黒くなっていく要素は、そこら中蔓延っている。
もはや何が黒いのか、どれが白かったのか由仁にはわからない。ただ、渇望しているものがある。それは間違いなく自分の本能によるもので、これを得られると絶対に自分は幸せになれると信じて疑わない。
あいつの、絶望した顔。こいつの、後悔した顔。そいつには羨望の顔。そしてこの子には、何も残らない、残さない、残せない。ただきっとそこには、何も残すことができない。
だって私には何も無い。
由仁は乾いた笑い声だけを風に含ませ、ことの成り行きを見守っている。
旭が自分を裏切ることなど、初めからわかっていた。だからこそ、使ってやった。
自分が得られなかったものを、あの子だけ、どうして、なんで、どうして私には無いの。憎たらしい。嫌い。全部嫌い。みんなみんな、嫌い。大嫌い。
西の空に陽が沈む頃合い。
夕刻の時間だからといって立ちこめる熱気は冷めることが無い、真夏のとある日。
すでに隠居したかつての屋敷の主がここの存在の意味を知ってから、20余年。それはそれは厳重にひた隠しにされた我が家の秘密の花園。そこの奥から熱気と共に鼻腔につく嫌な匂い。だがこれすらも、愛おしい気持ちになる。
カビのような、何かが腐敗したような、そんな匂いを胸いっぱいに吸い込むように千歳は深く深く深呼吸をする。数年前に父から家業を継いだ兄は、自分を精神異常者のように扱い、半月に一度通院のために外出させる以外は屋敷にほぼ軟禁であった。いっそ入院させたいという兄の言葉に、「外聞が悪い」と言う理由だけで父は首を縦に振らなかった。おそらく父が死んだら、自分は一生退院することの無い、外界と隔たれたところに「入院」させられるのだろう。それでもいい。どこでもいい。由良が、由仁が、悠理が。自分を殺しに来てくれるのならば、どこでもいい。可愛い君よ、愛してる。
初めて彼女に出会ったのは、夏の暑い日だった。
酷く痩せこけていて、白い肌は所々痣があって、髪に艶も無く明らかに不健康そうで不潔そうな少女。
何も期待していないという、子供らしからぬ絶望を悟った虚無の瞳。道端の花を摘んでは、その花の蜜をちまちまと啜る小学生。みすぼらしくて、汚らしくて、なのに目を引く顔立ちをしていた。自分よりいくつか年下なのは間違いないだろうが、栄養が足りていなそうで多分同年代よりも小さそうだと予想する。2年生、いや、3年生か。
何となく、本当にその時はなんとなく。見ていられなくて、声を掛けなくてはという気持ちになって、少し離れた所で同じように花を摘んでみた。白詰草を冠に編んで、そうして少女の元に近寄る。
「……これ、やる」
花冠を差し出された少女は目をぱちくりと瞬かせてこちらを見上げてきた。折れそうな程にか細いまるで枝のような腕を伸ばして差し出した花冠を受け取ると、第一印象を一掃するような可憐な弾けるような笑顔を向けた。
可愛い。
俺の心臓が弾け飛ぶのでは無いかと思うほどにきゅうっと締め付けられる感覚に顔が沸騰するのを覚える。思えば、一目惚れだったのだろう。
色素の薄い髪がきらきらと陽の光を浴び、痣だらけの腕でたどたどしく頭に花冠を乗せる。
「……ありがとう」
消え入りそうな程に小さな声だったが、確実に自分の鼓膜を揺らす鈴を転がしたような声。
「俺、今日転校してきた海道旭。6年。お前は?何年?」
「……栗沢、悠理。5年生」
くりさわゆり、と名乗った小さな唇と、想定していたよりも上の学年だった事に息を飲んだ。自分は知っている、彼女はおそらく虐待を受けている。自分が守ってやらねば、と、幼心にそう誓った。




