第二十章「しあわせ?」
「おめでとう」
「おめでとうございます」
厳かな雰囲気の中、祝いの言葉と共に降り注ぐライスシャワー。
今日ばかりはまともなフリをしてくれる人間らしい一面があったらしい両親と、生まれたばかりの乳児を連れた妹と素行の悪そうな義理の弟になった妹の配偶者、表面上は笑顔で祝福してくれる義理の両親と、栗沢家の使用人の数名、義父と母方祖父の仕事関連のお偉い方、気を許せる数少ない友達が三人程、配偶者となった栄の職場の同僚と学友。地元の名家の一人息子の結婚式にしてはややこぢんまりとした結婚式は、義母にとってはさぞ気に入らないだろうし、自分の両親にとってはさぞどうでもいいことだろう。
それよりもようやく、自分が初めて恋をした一つ年下の男の念願の奥さんになれたことが幸せでたまらなかった。あのことは、墓場まで持っていく。意図せず裏切ったことなど、吐き出せるはずもない。義両親も両親も、自分にとって良くない存在であれど所詮は黙っていてもいつか死ぬ。それは自分にも言えることではあるが、そうなったらそうなったで構わない。
オートクチュールの真っ白なウエディングドレスの裾を持ち上げ、地域で一番有名な教会の階段をしずしずと栄の腕に手を添えて降りる。今が、この瞬間が一番幸せだった。心の片隅にしつこいカビのようにこびりついたドス黒い影だけが懸念であったが、さすがにこんなところまでは来ないだろうと無理矢理自分に言い聞かせる。
栄のことは本当に愛している。だからこそ、早くこの嫌な感情だけは切り捨てたかった。なのに一瞬ぞわりと悪寒に似たものが走り、思わず顔を上げて遠くに目を向ける。
「由良?」
「……ううん、なんでもないの」
いるはずがない。こんなところに、いるはずがない。
由良は小さく首を振って、にこりと美しく可憐な笑顔を向ける。
そうして不安を孕んだまま、絵に描いた幸せを擬態しながら始まった新婚生活。悪夢はそうしてすぐに始まった。
将来の子供も想定したそれなりの豪邸が完成し、ようやく念願の二人暮らしが始まった。義父は、体裁の為に新居にも使用人を置くべきだと言っていたが、由良が丁重に断りを入れていた。せっかくの新婚なので二人でいたい、と言う可愛らしい訴えに栄は了承し、汚い嫁ごときに栗沢家の財産を一円でも使いたくない義母も賛成していた。
「行ってらっしゃい」
新妻らしく可愛らしいエプロン姿で夫が仕事に向かうのを見送り、特段苦手とはしていない家事に取り掛かる。
ピンポン、とインターホンが鳴り、モニタを確認すると大きなダンボールが映し出される。「宅配です」との応答に由良はいそいそと玄関に向かい、なんの警戒もなくドアを開けた。
「ごめんなさい、お待たせしました」
荷物の搬入を促すよう、玄関先を大きく開く。
ダンボールを受け取ろうにも、配達員の顔が隠れるくらいの大きな荷物である。誰かこんな大きなもの、送ってくる予定があっただろうか?それとも夫が通販か何かで大きなものを買ったのだろうか、仕事のもの?部屋の中に自分だけで運べるかな、重かったら夫が帰ってきたら部屋の中に運んでもらわないと。
そんな事を考えていると、トサっと玄関土間にダンボールが置かれた。床に接地した際の音の加減から、大きさの割に重量はなさそうであった。一体差出人は誰で、中身は…
そう思ったところでかちゃんと鍵のかかる音が聞こえ、顔を上げた由良は息ができなくなった。
配送員だと思った男は、あの男だったからである。
「す、み…だ……く」
「久しぶりだね由良。僕から逃げられたとでも思った?ちょっとは幸せごっこ、出来た?楽しかった?僕の事を裏切って、僕以外の男とキスをして、愛してるってリップサービスまでしちゃって。その口で僕以外の男のものをしゃぶったの?淫売な女だな。それで僕以外の男と身体を重ねたのか。僕に抱かれてあんなに気持ち良さそうによがってたのに。ああでも、結局子種は流れてしまったんだね。仕方ないよ子宝は運なところもあるもんね。でも毎日君を抱けばそのうち孕むよね?きちんと僕たちが愛し合った記録も、また再開しないとね。ね、由良。愛してるよ、僕だけが君を愛してるよ。君は確かに可愛い。美しい。あの男も他の男と同じ、君の見目だけで君を伴侶にしているんだ、騙されちゃダメだよ。愛を囁かれたから君も洗脳されてるだけに過ぎないよ、大丈夫安心してその洗脳はきちんと僕が解いてあげるからね。由良。愛してるよ。愛してる」
怯えて血の気が失せ、足が震え、逃げることもできない由良の身体を抱きしめ捲し立てるように愛の言葉を囁く。その言葉は愛の仮面を被った呪いとして、由良の心に影を差していく。
そうして、何にも抗うことができないまま、由良は毎日毎日、それこそ月のものがある時も、栄が在宅の時は彼が入浴中の十数分の間を見計らって、由良を抱いて抱いて抱いて、遂に半年後、由良は妊娠した。
どちらの子供かわからない。
怖い。
堕すこともできない。
約十ヶ月経過したのち生まれた女の子は、栄にも千歳にも似ていなかったことだけが救いだった。由良によく似ていた。その娘の生物学的な父親を調べる術はあったが、調べることをする度胸など当然あるはずもなく、栄は自分の娘と信じて疑わず溺愛に溺愛を重ね由良の影は由良すらも気付けないままに、幸せを装った家族生活は十年続いた。
どういうわけか、由良が妊娠してから墨田千歳はぱったりと由良の前に現れなくなったが、由良はまたいつ彼が現れるのかと気が気ではない日常に、いつ死刑執行をされるかわからない死刑囚はこんな気持ちなのかと見当違いな気持ちを抱えている。
いつ、千歳が現れるのか。
いつ、自分が犯されて喘いでいるあのビデオが、夫や義実家に晒されるのか。
いつ、あのビデオが、世に出回ってしまうのか。
いつ、可愛い娘の由仁が、奪われてしまうのか。
怖い。助けて。誰が助けてくれる?誰も助けてくれない。なんで自分が。どうして。怖い。嫌い。憎い。悲しい。
十年かけて熟成した由良の心の影が今にも破裂しそうなほどに大きくなったのは、自分が産んだことには変わりのない、最愛の娘が十歳の誕生日。
家族水入らずで、贔屓にしているレストランで由仁の誕生日会の食事をして帰宅した夜。玄関先に見慣れないダンボールがあり、由良は言いようのない不安が跳ねたのを感じた。
栄が首を傾げながらそれを手に取ると、少し下手な字で「ゆにちゃんおたん生日おめでとう」と書かれた紙がかかっている。小学生、といえばそう見えなくも無いが、それにしてはぎこちない文字。由仁も無邪気に「学校のお友達かなぁ」とぴょんぴょんと跳ねていたが、由良だけが浮かない顔をしている。
開けちゃダメ、開けないで、やめて
その思いは虚しく、リビングに入った栄と由仁はソファに座って一緒に箱を開けてしまった。中にはVHSと、一通の封筒。
漢字ばかりで由仁には読めなかった様子で、それを栄に手渡してしまった。空気が、凍ったのがわかった。




