第十九章「不穏」
東京都某区の、それなりに裕福そうな家々が立ち並ぶ住宅街。中でも一際目を引くいかにもお屋敷と呼ぶに相応しい日本家屋。
使用人が朝食を配膳し、家主であるこの屋敷の主人に深々と頭を下げ、部屋の隅に引き下がる。
朝食と一緒に用意された朝刊を広げながら、卵焼きに手をつけ咀嚼する。ぱらっと新聞の捲れる音と共に、玄関先からこちらまで一直線にドタドタと喧しく走る足音にバサっと新聞を投げ捨てる。
「騒々しい、誰が…」
言いかけたところで勢いよく襖が開かれ、この家の次男である息子が顔を覗かせた。
「父さん、おはようございます」
「…お前か千歳、朝っぱらからなんだ」
少し前に家を出て一人暮らしの真似事をしたいと、わざわざ座敷牢のような場所に好き好んで寝泊まりし始めた息子のことだ、どうせ飽きて帰りたいとそんなところかと湯気の立つ湯呑みを持ち上げ中の茶を啜った。
「千歳さん、おうちに帰る気になったの?」
自分の妻も同じことを思った様子でいつものようにおっとりとした笑みを向け自分の問いを代弁したところで、あろうことか息子は首を横に振った。
我ながら散々甘やかして育てた自覚はあれど、別段苦労させるような家柄でもなく、ある程度は長男共に好きにさせている。そんな息子はなんの苦行か我が家の便所ほどの広さの一間に望んで暮らしている。飽きたら帰ってくるだろうかと思えば、そうではないらしい。
「欲しいものがあるんだ。父さん、ペットを飼いたい。あの離れが欲しい」
なんだそんなことかと鼻で笑う。長男と違ってこいつはそんなにものをねだる事がなかったので、屋敷の庭の一角にある離れが欲しいというので了承する。
「構わないが、手入れが終わるまで少し時間がかかるぞ」
「ありがとう父さん!」
二十歳を過ぎたとはいえ、血を分けた自分の息子は幾つになっても可愛い。
無邪気に喜ぶ息子を見て、妻共々微笑ましい気持ちになる。
「それでね、その飼いたいペットを少し躾けてから持って帰りたいから少し小遣いが欲しいんだ。そうだな、一年分くらい」
「わかった、母さんから貰いなさい。母さん、後は任せる」
「かしこまりました、あなた」
そうして仕事に行くべく立ち上がり、使用人が上着と荷物を持って玄関に共に向かう。玄関で靴を履き替え、使用人から上着を受け取った妻はいつものように自分に上着を着せると恭しく頭を下げる。
「行ってらっしゃいませ、あなた。お気を付けて」
「ああ、行ってくる」
「行ってらっしゃい父さん」
「…千歳、あまり母さんに心配させるんじゃないぞ」
「…はい、父さん」
そうして、数日実家で過ごし、出入りの大工に離れの改築をひっそりと指示をし、千歳は満を持して母から受け取った「小遣い」の入った通帳と、当座の着替えだけ持って飛行機に飛び乗った。
まんまと逃げられたと安堵して過ごしているであろう、愛しい愛しい由良の待つ北海道へ。
所在についてはとっくに掴めている。
まずは新千歳空港を降りてから、タクシーを拾う。告げた住所に運転手は怪訝そうな顔をしていたが、有無を言わさない為にあらかじめ用意していた札束を手渡すと目的地までの概算よりも相当に多い額におとなしく車を走らせ始めた。
「さて、もう少しばかり泳がせてやるか」
あの怯えた目を思い出すと、それだけでぞくぞくと快感が走るようだった。
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「由良、朝食は食べられそうか?」
「…うーん……あんまり…」
度重なるストレスですっかり痩せた由良を気遣うように、栄が優しく髪を撫でる。
「結婚式まで日がない。新婦がそんなにげっそりしていたらとんだ甲斐性無しだと思われてしまうな」
「う…ごめんなさい」
「……まぁ、あまり無理はするな。食べられそうなら食べて、ゆっくり過ごしていてくれ」
「はぁい」
言えるはずが無かった。
北海道に、東京から海を渡っての遠く離れた北の大地に一緒に逃げて来る前に何度も何度も犯されたなんて、目の前の本当に愛している婚約者には言えなかった。辛うじて、彼とも身体の関係があったことと、北海道に共に渡る前に無事に生理が来たのであの恐ろしい男のものともわからない種が体内で実を結ぶことが無かったことだけが救いだったが、それでも与えられた心的外傷と負荷は相当のものだった。
北海道に来て早半年、花嫁修行と称して栗沢家の豪奢な屋敷に共に住まってはいるもののほとんど屋敷の女中が家事全般をやってしまうので、申し訳程度にそれを手伝ってみたり、あまり自分を快くは思っていなそうな義母になる女と腹の探り合いという一方的な探られ茶会に興じてみたり、見目だけは人より良いらしい自分に対し舐めるような視線を向ける義父になる男に愛想笑いをし、最愛の婚約者には到底言えない後ろめたさを腹のうちに抱えて、大学時代にほとんど数える程しか言葉を交わしたことがない男が異常に自分に粘着するストレスと同じくらいの心の負担に、この土地に来ても由良はちっとも休まらなかった。実家は実家で、高校卒業して以来初めて帰省のようなものをしてみたところで、自分の父は相変わらず外の女にうつつを抜かして実家の太い母から金を貰うためだけにご機嫌取りのように毎日帰宅をし、母は母で好き勝手男を作って派手に遊び回り、少しばかり歳の離れた可愛かった妹は年頃のせいか悪ぶった男に熱をあげて呆気なく妊娠して、互いに好き勝手している癖に偉そうに説教を垂れるそんな両親と揉めに揉めていた。義母が自分を良く思っていないのは、確実に実家のせいが大部分を占めているだろう。
気持ち悪い。どいつもこいつも、気持ち悪い。
由良は無理矢理、女中の作った味のしない粥を一口食むが、それ以上は喉を通らなかった。
言いようのない不安感が、心の片隅を支配しているのが消えてくれず、自分にどんどんどんどん仄暗い影がまとわりつくような、そんな重怠い気配が纏わりついて消えてくれなかった。




