第十八章「それはまるで」
むしゃ、ぐちゃ
理性のない、けものの奏でる咀嚼音に近い不快な音。
こうして理性と知性と、尊厳のようなものは混じり合って呆気なくそしてだらしなく溶けていくのを、見たくないのに、知りたくないのに、目の当たりにしてしまう。
自分もいつかそうなってしまうのだろうかという言いようのない不安と、一緒にこうなれるのならば本望だと渇望する浅ましさ。
寝て、食べて、貪り合って、その三大欲求のサイクルを回して日がな一日過ごすだけならば、ただの動物と変わらないだろう。
いや、自分は、自分達は、動物と何が違う?
持ち帰った惣菜パンを頬張り、そのまま無理矢理眠らせたゆりは、しばらく起きることはない。先の食事の光景を考えながら、暗闇が全てを溶かすような闇を作り出すその空間に、旭は致し方なく出掛けて来ていた。ゆりが気がかりで早く「帰りたい」と、そう思っていてもこちらはこちらでそうはさせてくれないことも理解している。
「遅い」
闇から絞り出すような、夜の女王のアリアのような、まるで心が凍てつくような冷ややかな高い声。ゆりによく似たその顔を見るのは、何度目だろうか。旭は相手方の冷ややかな声音にも負けじ劣らずの冷ややかな目を向けて「はいはい」と雑に返す。普段であれば「つれないなぁ」とくすくすと笑って来るところだが、どうやら今日は日が悪かったらしい。
「誰に向かって、言ってるの?」
しまった、と旭が思ったのも遅く、華奢な腕が伸びてくるとその細腕からは考えられない程の強さでギリッと旭の首が締め上げられる。
みしっと首の骨が軋むような音と、物理的な圧迫による酸素不足と頸動脈の血流の滞りを感じ、旭は抵抗しようと反射的に手を掴み返そうとするも、まるで蛇に睨まれた蛙のようにその腕が動くことはない。ゆりによく似た風貌の女だから、という理由ではない。本格的に旭の「いのち」が終わりかねない頃合いを見計らったかのように、パッと手が離れその体躯を解放した。
「…、っは、がはッ」
喘ぐように酸素を取り込み汚らしい地面に蹲る旭を、まるでゴキブリでも見るような目でゆりに似た顔が見下ろしていた。
「二度と私に舐めた口きかないで」
「…っきょ、は…随分ゴキゲンナナメだな」
性分なのか似たような軽口を叩く未だ地面に蹲ったままの旭の脳天に容赦無く足が振り下ろされ、その後頭部は呆気なく踏み付けにされる。
額が割れるような激痛と、ジャリっと音を立てて地面に擦れる感覚、後頭部をぐりぐりと踏み締められる容赦の無さに、本格的に今日は虫の居所が悪いらしい事を悟る。
「あの男を殺す前に、お前を殺してやろうか」
「わかった、悪かった。俺が悪かった落ち着け」
降参を示すように旭が地面に這いつくばったまま両手を上げる。興奮気味にフーフーと息を乱しながら、女はようやく足を退けた。
「……次やったらお前も殺す、あの子みたいに」
「わかったっての」
ぱたぱたと埃を叩き払いながら立ち上がった旭は、なるべく目の前の彼女を刺激しないようにいつもながらの雑さを孕んだ言葉で返しつつも従順に振る舞うように返答する。「殺せてねーじゃん」と言いたい言葉を飲み込んで。
しかし本当に殺されては自分の本懐も果たせずに終わる事は明白なので、ここは大人しく従うしかなかろうかと小さく息をつく旭に女は少し苛立ちを見せはしたものの先程のように激昂することはなかった。
ゆりも変わったが、この女も変わったな。
そうぼんやり思いながら、ただ自分も同じように変わったのだろうなと自嘲を禁じ得ない。
「……で、本題は」
首元を頻りに撫で回しながら、旭は自分よりも背の低い女の顔を見下ろす。
見れば見るほどにゆりに似せているが、ゆりとはやはり異なる顔。
まるで魔女のように笑みを浮かべた女は、いつものように旭におねだりの言葉を吐く。
旭は少しばかり面食らった顔をしたが、それを受諾すると日が昇る前に退散しようと踵を返す。なるべく、機嫌がこれ以上悪くならないうちに。
『今のあの子なら、びっくりさせられると思うの。だってあの頃の私によく似てるわ』
「……びっくり、ねぇ」
ゆりが起きたら早々に出立しなければ。
由仁が、本格的に動く前にこちらも動かねば、自分が今まで積み上げてきたものが全て無駄になってしまう。
「動物かあの女は」
旭は東側の空がやや白み始めたのを見て、強引に眠らせたゆりをさっさと起こさないとと足早に帰って行った。




