第十五章「トツキトオカの迷信」
「ねぇ旭」
「……なんだ」
名前を呼ばれぶっきらぼうに答えると、その雑さに肩を竦めて「つれないなぁ」と小さく呟きながら、細くて華奢な手が伸びてくる。
その腕を避けることも勿論旭には容易にできはするが、それをせずに受け入れる。
伸ばされた手は旭の頬に触れ、指先が撫でるように喉仏を擽り、鎖骨に下り、胸元をなぞり下腹部に滑ってきた。さすがに不快そうに眉を寄せ華奢な腕を掴むと、その腕の持ち主の女は不満そうに唇を尖らせて来たのでどこかの誰かを彷彿とさせ一層不快感を顕にする。
触れていいのは、コイツではない。
そう思いはしても旭はその言葉を口にする事ができない。
「ふん、いいもん」
女はそう拗ねたように言うと、掴まれた腕を振り払ってそのまま両手で旭の頬を包む。
ゆりには散々「気持ち悪い」と言われた相貌であるが、笑い方が下手くそかつ醜悪なものでそれがゆりにとって気持ち悪いと評されているだけであり、存外旭自身は整った顔をしていた。
切れ長の涼しげな二重に、輪郭のはっきりした少し薄めの眉。まるで顔を隠すような長めの前髪は目を隠すように伸ばされていて、その目は全てを飲み込むような漆黒の色で縁取られている。どちらかと言うと少し浅黒い肌に、着痩せするのか意外と逞しい体躯をしていて、上背もあった。
彼女はその旭の顔貌をまじまじと見つめて、自分の姿を映すその瞳に目を向け満足そうに笑った。
「そう、そうやって私のこと見ててよ」
旭は微動だにしない。それをいい事に、彼女は胡座をかいて座る旭の膝に乗り上げ華奢な両腕を首元に回してまるで恋人がするそれのように甘えた態度で密着する。触れるか触れないかのところまで唇が寄せられ、それでも自分の『言い付け』を守って動かずにいる旭に堪らず笑い声を上げる。
「………するならさっさとしてくんねーかな」
「ふふ、ごめんなさいね?あまりにもマテが聞けるいい子だったものだからつい」
揶揄うような言葉に旭は眉を寄せる。
そうして感情を置き去りに、女の唇が旭のそこに触れるように重ねられ、ちゅっ、と、さも可愛らしい行いのようなリップ音が響く。
何度かそうして旭の感情を逆撫で、弄ぶように触れるだけの口付けを重ねた後に女の舌先が旭の唇を割り込むようにこじ開け、そして侵入してくる。
まるで内臓を引っ張り出すような、生のラインを乱して死の淵に誘うような深い口付けに犯されながらも、旭は自分の目的のために甘んじてそれを受け入れるしかなかった。果たしてこの行為に意味があるのか?無いのかもしれない。そう考えながら、唾液の絡まる音と、わざとらしい小さな吐息に乗せた喘ぎ声のような女の発したノイズを意識の外で流れるただのBGMのように聴いていた。
「……ふぅ、まあ、今日はこんなものでいいかな」
ややあって満足したらしい女が唇を離すと、唾液に濡れた唇を艶かしく舌先で舐めてからごくんと喉を鳴らして飲み込んで見せる。そうして旭の身体を解放するように立ち上がると、まるで母のような顔で自分の腹を撫でた。
気持ち悪ィな、そう思っても相変わらず口には出せずにいる自分にいい加減苛立ったように旭も立ち上がると、用事は済んだだろうと勝手にその場を去るように背中を向ける。
腹が立つ。そう思うと、帰って早々にまだ何も知らないゆりの身体を無理矢理に引き倒して、押し倒して、貪って犯したくなるようなそんな衝動が自らの内に蠢くのを感じるが、僅かながら残っている理性のようなものがそれを引き止めていた。目の前のこの獣のような女と同じでいいのか、と、自分で自分に問う。
女が言うには、それが育つまで。俗に言う十月十日の辛抱だと。栄養と施しのような上っ面の愛情ごっこの行為さえ与えていれば、あの子には余計なことはしないというそういう契約だ。
女はそんな旭を見透かしたかのように笑いながら、旭の背中に抱きついて甘えてくる。
「ね、なんであなたも私の事愛してくれないの?」
「はん、そりゃ愚問ってもんだろ。最初からそんなことわかってる癖に」
「まぁね。でもいいじゃない。どうせおんなじ顔なんだし」
おんなじ顔、と言った女の顔は、なるほど確かにゆりによく似ていたので、旭は思わず生唾を飲んだ。
「…だからやなんだよ、「お前」に関しては」
ゆりに「似せて」いる女の本当の企みまでは知らないし、知りたくもない。知ってしまえば自分もゆりも戻れないような気がする。
その最後の防衛線だけは越えないように、旭は縋り付く女を無理矢理引き剥がしてゆりの元に帰る。
少しずつ、壊れて来ているゆりの元へ。
前年より多少減ったとは言え、それでもこの日本という国での自殺者の数は、毎年2万人を超えているらしい。




